リーメンシュナイダーを歩く 

ドイツ後期ゴシックの彫刻家リーメンシュナイダーたちの作品を訪ねて歩いた記録をドイツの友人との交流を交えて書いていく。

37. ヨハネスの笑顔

2016年09月12日 | 旅行

続編お礼の旅No.1  2013年冬の旅

 ヨハネスの反応はどうでしょうか…

 『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』(丸善プラネット株式会社発行)が発行されてすぐにできる範囲でお世話になった教会・美術館、個人の方々に急ぎ本を発送し、冬場の安いチケットで夫と二人、寒いドイツに飛びたちました。ヨハネスが「いつ印刷し直すんだい? 早くしないとぼくはいつ死ぬかわからないからね」と以前言っていたので、今回はまずシュトゥットガルトから回ることにしました。一番若くて一番付き合いの長いシルヴィアの家からヴィリーの運転でヨハネスの家に回ってもらえることになったのです。

 ヨハネスのお家に向かう車中、私は胃が重くて痛みまでも感じ始めていました。でも家に近づくにつれて太陽が顔を出し、うっすらと雪をかぶった野原がキラキラかがやき始めました。これは大丈夫かもしれないと少しずつ希望が湧いてきました。その日のヨハネスの様子です。本を差し出すとスッと難しい顔になりました。まだことばが出ないので母音で何とか伝えようとする苦しさもあったのかもしれません。でも、夫が写してくれた連続写真を見てください。    

        

                                                <ヨハネスもフリーデルも笑顔になりました!>

 フリーデルも心を痛めていたのでしょう。側でヨハネスの笑顔を見て彼女も笑顔になりました。このあとでいただいたケーキは殊の外美味しく感じました。

 シルヴィアとヴィリーはこのあとも2日間私たちにつきあってくれて、前回訪ねきれなかった小さな村の教会に今回も連れて行ってくれました。本当にありがたい友だちです。一つだけ残念なのは、ヴィリーの計らいでシルヴィアに若い男性を紹介し、今は二人はカップルではなく、仲の良い友だちという関係になったということでした。わが家に二人でやってきたのは2010年。その後3年間の大きな変化で驚きました。私たちにとって二人ともとても大切な友だちなので何だか複雑な思いの旅となりました。

                                             

 そして残念なことに、ヨハネスは今は会うことのできない遠くに旅立ってしまいました。私と夫は2014年10月、ヨハネスの誕生日前に何とか日程を組み、花束を持ってもう一度訪ねています。フリーデルはヨハネスが転んで頭を打ったり、会話が続かないために機嫌が悪くなったりするので、それが本当に辛いと話してくれましたが、段差を少なくしたりして少しでもヨハネスが元気に過ごせるようにと心を砕いていました。私が持っていった花束がヨハネスの着ていたシャツと同じ色合いだと喜んで、最後に素晴らしい笑顔を見せてくれたのがこの写真です。彼は2015年1月30日に亡くなりました。89歳4カ月の人生でした。


                                           <最後に会った日のヨハネスの笑顔>

                      

  今年、2016年12月、ヨハネスへの心からの感謝をこめて、そしてフリーデルの健康を祈りつつ、お墓参りをしてきます。私は、フリーデルとヨハネスに出会えて本当に幸せでした。

 ※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Mitsuo FUKUDA

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36. 続編完成

2016年09月12日 | 旅行

続編への旅 No.6 2010年初夏の旅

 ヨハネスと父のその後

  その後、日本からやってきた文子さんとローテンブルクへやってきました。文子さんにはこの可愛らしい町を一人で散策してもらって急ぎヨハネスの入院しているクリニックを訪ねました。ローテンブルク駅前の大きなショッピングセンターにはお花屋さんがあったので、お見舞用の花束を作ってもらいました。クリニックに着くと、ヨハネスはリハビリに出ているとのことで病室には鍵がかかっていました。私が花束を近くの洗面所で借りた花瓶に入れ、廊下にしゃがみこんでメッセージカードを書いていたちょうどそのとき、すたすたと足音がしてヨハネスが歩いてきたのです。びっくりしました。以前は杖をつきながら痛そうにゆっくりと歩いていた彼が、何だか足さばきが別人のように元気になっていたのです。私は思わず「歩けるんだ!」といいながら泣き出してヨハネスに抱きつきました。脳梗塞で倒れたと聞いていたので、リハビリに出ているとしても、てっきり車椅子で戻ってくるのだろうと思っていたからです。

 ただ、鍵を開けてイスに座ったヨハネスは疲れているように見えました。とても厳しい表情で、ゆっくりと声を絞り出しました。ジェスチャー混じりで何とか私に伝えようとする彼の様子に胸が痛みましたが、なかなかことばが理解できません。すると彼は震える文字で紙に何か書き付けるのです。とりあえず聞いてわからないことも何とか単語は書いて伝えられるようでした。フリーデルにいまから来られないか聞いてくれと言っているのでした。フリーデルに電話すると今日は無理だから明日には行くと伝えてとのこと。いつも元気いっぱいにしゃべって笑って怒っていたヨハネスのことを思えば、いかに彼が今の情況に苦しんでいるのかわかります。いつも朗らかにほほえんでいたフリーデルも、電話する度に電話口で泣いているのが思い出されました。それでもこれだけ話そうとしている彼の姿に、きっと少しずつではあってもコミュニケーションはとれるようになってくるのではないかと感じました。私にできることはフリーデルを慰めるために、ごく普通のはがきを旅先からできるだけ何度も出すことだと思い、ローテンブルクに帰りました。

 その後、ヨハネスは退院し、より気難しくなったようですがリハビリをしながら過ごしているとのことでした。そして時には彼からのメールが届くこともありました。多分話すよりは気持ちを伝えやすいのだなと感じました。


 一方、父は検査の結果悪性腫瘍だとわかり、数ヶ月の余命とのこと。姉もきっと精神的に参っているのでしょうに、私が旅を途中にして戻ってきてもすることはないから文子さんのためにも最後まで回ってきなさいと書いてきてくれました。心にいつもトゲが刺さったような状態ではありましたが、帰ったらその分できるだけのことをしようと思いながらポーランドまで回り、7月に帰国。その後8月にはドイツのシルヴィアがヴィリーとわが家に遊びに来ることになっていたので1週間自宅に戻ってお迎えし、彼らを成田まで見送ってからまた実家に舞い戻りました。父はその後3週間で息を引き取りました。最後は毎日、母と姉と3人で病院の終末ケア病棟の父を見舞い、入院するまでは握手なんて交わしたことがないのに毎日父と握手して別れていました。バタバタと慌ただしい日々ではありましたが、父に毎日「ありがとうね。みんなのお見舞が一番嬉しいよ」と言われ続けて見送ることができたおかげで、悔いは残らずに済んでいます。

                                            

 続編の完成

 2010年の旅ではできるだけ自分の足でバスや列車を乗り継いで歩き回ったのですが、どうしてもバスで往復できない場所や、行ってはみたもののちがう教会だったりして、見られなかった作品がまだ結構残りました。

 2011年にはアメリカにあるリーメンシュナイダー作品を訪ね、帰ってきた直後に東日本大震災が起きました。父の納骨を済ませても、原発事故の余波で気落ちした日々を過ごしている中で、やはり気になるのはまだ見ぬリーメンシュナイダー作品です。自力で行ききれなかった場所への落ち穂拾いの旅をしたくてムズムズし始めた私の心を鎮めるために、思い切って秋にも夫とドイツを中心に回る旅を企画しました。このときはキッツィンゲンに再び宿を取り、シルヴィアにヴィリーも加わって合計8泊。ヴィリーが今まで行きたくても行けなかった小さな村や町の教会を車で回ってくれるということになったのです。本来は大人3人までのこのアパートですが、どうしても4人でとお願いした私にシュラー夫妻は「ミドリが言うのなら仕方がないわ」と特別に許してくれたのです。私が日本でいくら検索しても土地勘がないためにたどりつけなかったいくつもの教会リストのすべてに電話連絡をし、普段鍵がかかっている教会には拝観日時を予約し、道路地図をプリントアウトして準備万端整えてくれたのがヴィリーでした。そしてナビはシルヴィア。二人のコンビがどんなに私のリーメンシュナイダーを歩く旅を助けてくれたことか。一人では訪ねきれなかったほとんどの場所に彼らは私を導いてくれたのでした。

 さらに2012年春、今度はヨーロッパの落ち穂拾いの旅に出ました。ドイツの新しい情報に基づいてまだ見ぬ作品数点と、アムステルダムやイギリス、パリにあるリーメンシュナイダー作品を見て回りました。夫も美術全般が趣味のような人なので、フェルメールの作品やらフランドル絵画を見ることも視野に入れて旅程を組みました。

 これらの成果を得て、ようやく続編をまとめる時期が来たと思えるようになりました。2012年はヨーロッパから戻ってすぐに続編の執筆と編集に取りかかり、再度自費出版で同じ丸善プラネットから写真集の第二巻を出すことにしたのです。今回こそは色へのこだわりを通したいと願って調整に手間取りましたが、ようやく2013年1月に『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』(著者 福田 緑 丸善プラネット株式会社発行)は完成しました。


                                <『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』>                                   

                            

                          <表紙 歎きの群像>                                            <裏表紙 聖母子像> 

                      1510頃, Tilman Riemenschneider und Werkstatt                      1490頃 Tilman Riemenschneider      
                                                       St. Peter und Paul, Großostheim                                                                          Sammlung Würth
※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA              
                         

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35. ハッセンバッハの空と雲

2016年09月12日 | 旅行

続編への旅 No.5 2010年初夏の旅

 ヨハネスと父の入院

 ブッフ・アム・ヴァルトに住むアマチュア写真家のヨハネスが入院したという知らせを受け取ったのは数日前のことでした。彼の家を訪ねる替わりにヨハネスの入院先を聞いて数日後にお見舞に行くことにしたのでしたが、何と前夜、姉からのメールで父の具合が悪いという知らせが届いたのです。でもとりあえず検査入院をして結果が出るまでにしばらくかかるし、今すぐに危篤という状態ではないので私の旅を切り上げて帰ってくる心配は要らないとのことでした。でも大事な人が二人も入院したと聞いてとてもショックで胸塞がる思いでした。

 それでも、いざアパートを出るとリーメンシュナイダーのことに集中してしまいます。

 この日はハッセンバッハまで行くつもりで出発しました。ただ、数日前に娘がまだドイツにいて私と一緒に回っていた頃、ドイツには同じような町の名前や教会の名前が多く、ネット検索して行き方を調べてきたつもりでも、彫刻があるのはその教会ではなくて隣町だったという体験が2回ありました。その結果、ネット検索で出てくる住所や電話番号は地域の取りまとめの教会で、数館の教会を所轄しているらしいということがわかってきました。特に洗礼者ヨハネ教会が2つあるハッセンバッハ所轄地域ではどちらの教会にリーメンシュナイダーがあるのかわかりにくかったので、わざわざ電話をして「嘆きの聖母像を見たいのですがそちらの教会でしょうか」と前もって聞いたのでした。若い女性が「それならここですよ」と答え、オーバートゥールバの教会への行き方を教えてくれたので安心して出向いたのです。

 キッツィンゲンからいつものようにヴュルツブルクで乗り換え、シュヴァインフルトまで行き、更に乗り換えてバート・キッシンゲン駅に到着。ここからバスでオーバートゥールバの教会に向かいました。途中の道路は工事中で相当長いこと停車したあげく、下車したいマルクトプラッツには工事中だから停まらないというので少し先で下りて歩いて戻るようなハプニング続き。ようやく着いたときにはホッとしました。

 でもずいぶん新しくてきれいな教会です。中に入って拝観しましたが、どこにもリーメンシュナイダー作品が見つかりません。外に出てもう一度司教館に電話を入れました。「いえ、ここでいいのですよ。ちょっと待っていてください、すぐ行きますから」と言って、近くのドアが開き、若い女性が出てきました。手に持っているパンフレットを「嘆きの聖母子像はこれですけど」と見せてくれたのです。そこで私のことばが足りなかったことを理解しました。私は「リーメンシュナイダー」と言わないままで作品名だけ伝えていたのです。嘆きの聖母子像、いわゆるピエタはそんなに多くの教会にあるわけではないので油断していたのですね。隣り合う村の同じ名前の教会に、同じピエタ像がたまたまあったために起こった混乱でした。彼女が言うには隣村がハッセンバッハで、リーメンシュナイダー彫刻がある教会だから歩いても行けますよとのこと。「電話を入れておかないと開けてもらえないでしょうから連絡しましょうか」と言ってくれたのでお願いし、ついでにトイレをお借りしました。この方と出会わなかったら、例えまっすぐ正しい教会についたとしても作品を見ることはできなかったのですね。天の采配だったのでしょう。司祭さんが午後1時に来てくれることになりました。

 まだ少し早めだけども遅れるよりは良いと思ってすぐに隣村へと出発しました。とても暑い日でした。村の外れの標識にはハッセンバッハまで3kmとありました。さきほどの女性は確か2kmと言っていたのです。早めに出てきて良かったと思いながら草原の中を歩き続けました。ふと見上げると真っ青な空には白い雲。その雲がどうしても男性がベッドに横たわっている姿に見えるのです。その人はヨハネスかもしれない。あるいは父かもしれないと思うと胸が詰まりました。

 教会に着くと、古い教会もあったのですが、「嘆きの聖母像は新しい教会にあります」という看板が立っていました。坂を登るとすぐ新しい教会が見つかりました。待ち合わせの午後1時に車が停まって司祭さんが降りてきました。鍵を開け、中の灯りを付けて「どうぞ」と、撮影させてくださいました。教会の歴史など数枚のコピーをくださって、私が写した写真を見ると、「教会の尖塔が先細りしているけど、デジタルだから直せますよね」とおっしゃいました。私は多分と答えながらぎくっとしました。この旅に持って来たニコン一眼レフの扱いも辛うじてできる程度の初心者ですから。写真家のヨハネスには、「そういう傾斜を直すツールもあるけれどとても高いんだよ」と聞いていましたし。坂の下から高い尖塔の教会全体を入れて写すにはこんな角度でしか写せなかったのです。


 帰りのバスは予定外だったので資料もなく、とにかくバート・キッシンゲン行きと書いてあるバスに乗るしかありません。13:37分の予定のバスが10分遅れてようやく到着。運転手さんにバート・キッシンゲン駅まで行きたいのですがと言うと、このバスは行かないから乗り換えを教えるよと言われて「バート・キッシンゲンと書いてあるのになんで駅まで行かないのだろう」と不思議でした。バート・キッシンゲンの終点につくと、確かに駅が見当たりません。運転手さんは車内の常連さんとのおしゃべりで名前がミカエルさんだとわかっていましたが、「あそこのバス停で待ってなさい」と指さして教えてくれます。私が歩いていくと、そこだよと目で合図してくれましたが、なかなかバスが来ません。他のバスはどんどん来るし、バート・キッシンゲンと表示にあるのですが、駅まで行くのではないだろうかと不安になってキョロキョロすると、ミカエルさんが「まだまだ、そこでいいんだよ」というジェスチャーをするのです。ミカエルさんは終点に着いて乗客もいなくなったにもかかわらず、運転席でゆっくり何やら食べ、ゆっくりたばこを吸い、なかなか発車しません。20分ほどたってようやく目の前にバスが近づいてきたので彼を見ると「そう、そう、そのバス」と頷き、ようやくエンジンをかけて発車させ、私に手を振って去って行きました。ミカエルさんは私がちゃんと乗り継ぐまで見守ってくださっていたのだとわかり、本当に嬉しく思いました。この日は予定外のコースで帰らなければならず、とても不安だったのですが、守り神はついているのですね。バスに乗ってから「バート・キッシンゲン」と言うと、周りの人が口を揃えて「それならここだよ!」と言います。あわてて「駅まで」というと、みなホッとしたように「このバスだ」という感じで頷いていました。見慣れない日本人がどこに向かっているのか関心を持って心配してくれていたようです。そして地元の人にはバート・キッシンゲンといえばこの旧市街であり、駅はちょっと離れた場所にある別物なのだとわかりました。今後は地名も正確に旧市街、新市街、駅という区別を頭に入れなければいけないと痛感しました。このミカエルさんには今でも心から感謝しています。

   

        

          <作品写真40> ハッセンバッハの嘆きの聖母像                                <新しい洗礼者ヨハネ教会 (尖塔?は斜めのまま)>  

            Vesperbild  1490-1500 Tilman Riemenwchneider zugeschrieben, Kratiekirche St. Johannes der Täufer, Hassenbach

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA

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34. ゲロルツホーフェン再訪

2016年09月12日 | 旅行

続編への旅 No.4 2010年初夏の旅

 思いがけずインタビューを受ける

 「27. ゲロルツホーフェン」で書いたように、2009年冬の旅では、親切なインフォメーションの対応で閉館中のヨハネ礼拝堂美術館を見せていただくことができました。けれども帰宅して資料とつきあわせたところ、やはり「王冠を与える天使」が見られていなかったのです。教会内も見たのにどこにあるのだろうと気になって、今回、もう一度ゲロルツホーフェンに行ってみることにしました。

 インフォメーションセンターで、教会内の彫刻についてお話を聞きたいのですがと質問すると、「専門家がいるので」と言って時間が空いているかどうか聞いてくれました。10分ほどでエヴァマリア・ブロイアーさんが来てくださり、教会内のローゼンクランツの上の方にある天使がリーメンシュナイダー作品だと教えてくださったのです。あきらかに作風がちがうので、教会内の別の場所ばかりを探していたのですが、灯台もと暗し。恥ずかしく思いましたが、撮影する間、彼女は私の『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』を興味深そうに見ていました。その後、隣のヨハネ礼拝堂もわざわざ開けて案内してくださってから、帰り際に「すぐ近くに地方新聞のマインポスト社があるので紹介しましょうか?」と言うのです。ドキッとしましたが、良いチャンスかもしれないと思い、案内していただくことにしました。すると体格の良い記者さんが「今はいそがしいので3:40分に市役所前でインタビューをしたいと思います。いかがですか?」と言います。私はタクシーでオーバーシュヴァルツアッハまで往復するつもりでいたのでちょっと時間が気になりましたが、了承しました。

 さて、その後が大変です。すでに3時近くになっているので急いでタクシーを呼ばなければならないのにちっとも電話が繋がりません。3回目にようやく繋がって大急ぎでオーバーシュヴァルツアッハまで往復したいのだけれどとお願いすると大丈夫とのこと。3時5分にやってきたタクシーに飛び乗りました。のんびりした雰囲気のおばさま運転手が私の事情を察してくれて、教会で慌てて撮影する間、メーターを切って待っていてくれました。感謝です。何とか撮影を終えて再び市庁舎前へ。往復35分の旅でギリギリセーフでした。インタビューの時にはブロイアーさんも立ち会ってくださり、私のリーメンシュナイダー追いかけの旅に興味を持ってくれて記事にしますとのこと。思いがけない展開でした。その記事がこちらです。  マインポスト記事

*2024年現在、ここからはアクセスしにくいようです。画像で保存しておかなかったことを反省しています。
             

              
<作品写真38> ローゼンクランツのマリア全体像                 
<作品写真39> リーメンシュナイダー作の天使
Krönungsengel     1522-1525  Tilman Riemenschneider Werkstatt, Maria vom Rosenkranz, Gerolzhofen


<ローゼンクランツのマリア教会>

※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA 

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