旅日記 No.10
マイトブロンへのバスには間に合わない
このあと果たしてマイトブロンまで行けるものなのかどうか、私は不安になってきました。バス停で調べてみると夕方5時過ぎまでバスはありません。それでは教会が閉まってしまいます。マイトブロンはフォルカッハよりは近い場所(直線距離で約7km)なのでいっそタクシーで行ってしまおうかということになりました。タクシー乗り場に行くと、先頭で待っているタクシーのドアから出ている小さな足が目にとまりました。珍しく女性の運転手さんです。マイトブロンまで行けるかどうかと尋ねるとOKの返事。私が助手席へ、夫と娘は後部座席に乗り込んで出発しました。夫が後ろから「ミュンナーシュタットまでどのくらいかかるか聞いてみて」と言うのですが、タクシーだと45分ぐらいとのこと。前の日にクレークリンゲンまで30分ほど走ってもらっているのでこの際行ってしまおうかということになりました。いくらかかるか会社に問い合わせてもらって結局200マルク(当時の日本円で約12,000円)かかるとわかり、現金が足りなくて途中、カードでキャッシングしなければなりませんでしたが。
小柄な可愛らしい運転手さんはイタリア人だそうです。どこかヴュルツブルクに美味しいイタリアンレストランはないかと尋ねると、困ったような顔で「家で食べるのが一番美味しいから…」と言っていました。
マイトブロンの聖アフラ教会は無人でした。中は薄暗く、中央正面に「嘆きの群像」<写真23>がありました。砂岩で彫られているのにも拘わらず、何というきめ細かな肌合いの彫刻でしょう。十字架から下ろされたキリストの手をマリアが取り、周りの人々はそれぞれの思いでキリストの死を悼んでいるのですが、静かな深い嘆きが惻々と伝わってくるようなレリーフでした。
リーメンシュナイダーは長い間ヴュルツブルク市の要職に就き、市長まで務めた人ですが、1524年に起きた農民戦争で農民の側に立ち、とらわれの身となりました。マリエンベルク要塞に投獄された2ヶ月の間に拷問が行われ、彫刻ができなくなったのではないかという話も伝わっています。1523年までかかって仕上げたこのマイトブロンの「嘆きの群像」は、彼の手になる最後の作品とも言われています。本によっては拷問については単なる噂だと書かれているのですが、自分の敵に回ったリーメンシュナイダーを、時の権力者がそう簡単に許すはずはないと私は思っています。このあと名誉も財産も奪われたまま、リーメンシュナイダーは6年後の7月7日に亡くなったそうです。
<作品写真23> マイトブロンの歎きの群像 Beweinung in Maidbronn
Tilman Riemenschneider, 1519-1523 Katholischekirche St. Afra, Maidbronn
この後リンパーもすぐ近くにあるとのことでリンパーの聖ペトロ・パウロ教会に寄り、騎士エーベルハルトの石棺彫刻を見ました。ひっそりとした人気(ひとけ)のない教会も、大体は開いていて中に入ることができます。
最後はミュンナーシュタットまでのドライブ。ミュンナーシュタットの聖マリア・マグダレーナ教会はさすがに大きいせいか、人波が絶えませんでした。コインを入れると灯りがつくのですが、あいにく1マルクの持ち合わせがなく、暗すぎて写真が撮れませんでした。聖マグダレーナ祭壇の中央はすでにミュンヘンで見てきたマグダラのマリア像<作品写真4>(旅日記No.1)です。周りの小さな彫刻はハンガリーの聖エリザベートと聖キリアンでした。この祭壇の下に置かれていたのがベルリンの4使徒像です。有名どころは大きな博物館にみんな持って行かれてしまったという風情でちょっと寂しそうな祭壇でした。それにしてもここの彫刻は一つも写真が撮れなかったのが残念でなりません。
ヴュルツブルクまでの帰り道。彼女は運転が大好きでちっとも苦にならないそうです。後部座席の二人は熟睡中。彼女といろいろな雑談をしながら、途中で小さいけれども甘いリンゴをもいだりして本当に46分で帰ってきました。予定以上の距離だったと230マルク要求されてしまいましたが気持ちよく行けたということでよしとしました。
これで、無事予定していた目的は全部果たしました。次回は、留学を機に親しくなった方々を中心に旅日記を進めます。
※ このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015 Midori FUKUDA