力丸ママの気ままな日記

時々日々の出来事を日記にします。

東京大空襲の日

2008-03-10 19:43:08 | Weblog

今日は東京大空襲下町で10万人もの一般民が亡くなった日!
東京大空襲から63年経った。
私は下町ではなかったので今こうして元気でいます。
山の手といっても私の実家は大田区!工場がたくさんある大森、蒲田はそんなに遠くではありません。

山の手も大きな被害に合った日があります
3歳にもなっていなかったが断片的に覚えています。
坂の上にあった我が家から狐火のようにちらちら蒲田あたりが燃えていました。
家の近くに不発の焼夷弾が同じ間隔に落ちていた。

 その頃我が家は10人家族だった。父は通信を担当していたので戦地には行かなかった。
母は父に赤紙が来なかったことでいじめにあったこともあるそうだ。
祖父は今で言う赤ひげ先生で病の人の所に毎日警報が鳴っても出かけて行った。
そして体の弱かった母を助けて下さっていたお手伝いのおばちゃんと民ちゃん
ある日空襲警報で私は民ちゃんにおんぶされて家の防空壕から大きな防空壕に逃げた。
帰って来たら周り中ほとんど焼けて我が家を含めて4件だけ残っていた。
父と祖父とおばちゃんが屋根の上でお水をかけていたそうだ。
祖母は火の神様の『竜蛇神様』が守ってくれたといって泣いていた。
それから終戦まで毎日我が家の井戸に多くの人が訪れていた。 そのとき民ちゃんは20歳にもなっていなかった。
私が小学6年生の頃に山形の酒田に帰って行った。彼女は40歳くらいの若くして亡くなったらしい。
私が大人になるまで生きていてくれたら一杯戦争当時の私の様子を聞けたのにと思う。
おばちゃんや民ちゃんがいてくれたから家も焼けずに祖父からの大切なものが皆残ったと思う。
画学生さんも書生として離れに住んでいたこともあった。
その作品やら掛け軸やら祖父が集めた骨董品、母が小樽にいた頃に買ってもらったひな壇やピアノ、祖父がドイツに留学していた頃に集めてきたものみんな残った。
その後父は親子電話を発明しカーステレオの原形を創り会社が特許を得て退職してからも老人大学一期生として農大に園芸を学んだ。
貧しい家庭に育ち特待生で東北大学を2年早く卒業し養子になりひとり娘の母と結婚して楽な生活になったそうだ。
通信機器一筋に家でも設計図を書いていた。肺がんで74歳の生涯を閉じた
母は大正3年に生まれ裕福だったらしくまだ小学校もろくに出ない人もいた時代に小樽から上京し学生寮に入り日本女子大で日本文学を学びその後お見合いで父と結婚した。
私の知る母は巻紙で手紙を筆で書き読めない漢字は無かった。一度私が高校生の頃に『犬養道子』の本が難しくて何回も『この字なんて読むの』と聞いてばかりいたら『そんなに読めない漢字が沢山あったら本の意味がわからないでしょ』と言って笑われたことがあった。
とにかく優しい母で声を荒げたことが一度も無い
私たち3人娘が高校を出るまでPTAの役員をしていた。

祖父の妹は日本女子大の第1期生でこれまた良く本を読んでいる人で文学全集をかたっぱしから読破した人だと聞かされていた。
私は国立(くにたち)のおばちゃんと呼んでいた。
祖父は一人娘の傍に行きたくて小樽の病院をたたみ東京に出てきて一時は横浜の病院で院長をしその後 開業医をしていた。
祖母は箸の上げ下ろしにも厳しかったけど今はありがたかったと思うし,祖父は優しくて大好きだった。
母は結婚してから何度か病気をして私が赤ん坊の時はお乳も出なくてもらい乳をしていたらしい。戦後私が小学校に入る頃から元気になり一時日本女子大で教えていたこともあった。母も旅行が大好きで父が退職してからは良く2人で旅行していた。その母も77歳で肺気腫で亡くなった。

お写真は東京大空襲のサイトからお借りしました。

コメント (2)
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