力丸ママの気ままな日記

時々日々の出来事を日記にします。

力丸誕生日

2008-03-15 21:23:58 | Weblog

昨日は力丸の11歳のお誕生日

毎年だが力丸のお誕生日と言ってもいつものフードに牛肉の赤みを混ぜてあげるだけ
それだけなのに大喜びで15秒くらいで食べてしまった。

力丸が股関節骨董壊死で右足の関節を切り取ってから10年以上が過ぎた。
その間お医者様に老いたら必ず足から来るから散歩で筋肉を衰えさせないことと体重を7,5キロからなるべく増やさないという注意を守ってフード以外おやつを揚げなかった。
散歩は必ず朝夕小一時間しているが夫がだんだん甘やかせて色々食べさせてしまいかなり体重が増えていつぞや【力丸が早死にしたらあなたのせい】といったらそれからだいぶ気を付けてくれる様になり今7,7キロ・・・もうすこしの頑張り、

甘やかせばフードの量が減り結局かわいそうなのは力丸、
私達夫婦にとって自分の年齢から力丸の次は命を全うさせる自信がないので力丸が多分最後の飼い犬になるからなるべく長く私達の家族でいてほしい。
今は毎日の歯磨きも欠かさずやってなるべくぬける歯が無いように歯垢が溜まらない様に気をつけてあげなくてはと思っているが当の力丸は歯磨きしようとすると危険を察知して逃げてしまう。
気づかれないように準備するのも毎日大変だけど手抜きしないようにと心がけている。

力丸よ
いつまでも元気でいてね

 

 

 

 

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セツブンソウ

2008-03-12 16:37:35 | Weblog

昨日は東京の気温が17度くらいに上がった

かねてからの予定で力丸を連れてセツブンソウを見に出かけた。
キンポウゲ科の多年草で花は直径2、3センチ。節分のころから咲き始めるからセツブンソウというそうだ。

花園インターから小鹿野町両神村のセツブンソウ園
日本一の自生地といわれているところです。
都会からちょっと離れてなのにすばらしくのどかなところだった。

夫はボケ防止にとナビをつけていない。
が地図を見て難なく行かれた。
私は自生のセツブンソウを見るのが初めてだったが急斜面で枯れた落ち葉の中から小さな顔を出しとても可憐で可愛らしい。
可憐と言う言葉がぴったりかも。
皆太陽の方にお顔を向けている。
セツブンソウは、【スプリング・エフェメラル(春のはかない命)】と呼ばれる春植物の代表種だそうです。
どこにでもある花ではなくて、石灰岩地に多く各地に群生するそうです。
通りで武甲山が石灰岩で出来ていることが良くわかった。
この地域も石灰岩なのだ


一通り見て写真を写している間夫は地元の売店で話しこんでいた
聞くところによると30年位前はいっぱいお花があったのだが一時絶滅するくらいに少なくなり又保護の元に増えたそうだがまだまだ昔に比べたら少ないそうだ。
気候もあるけど盗掘がほとんどだとおもう。

すぐ近くに福寿草と蝋梅園もあるというので回ってみた。
駐車場から1キロくらい斜面を登っていくところだったがだいぶ気候は違うのかまだ蝋梅も咲いていたし福寿草も綺麗だった。

今日の秩父は20度!うっかりマスクを持っていかなかったら道の駅で急にくしゃみと鼻水、
近くの山を眺めると杉だらけ、しかも茶色くなっている。
あぁ~~とうとう私も花粉症か!
力丸も少し散歩をし帰りは車の窓を閉め切ってもらったがくしゃみの連発!
夫と力丸はなんでもない。
ところが家路に着くとくしゃみも鼻水も止っていてヤレヤレ
しかし油断大敵!当分マスクを手放せないし春は秩父にはもう行かれないかもとちょっと寂しい。

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東京大空襲の日

2008-03-10 19:43:08 | Weblog

今日は東京大空襲下町で10万人もの一般民が亡くなった日!
東京大空襲から63年経った。
私は下町ではなかったので今こうして元気でいます。
山の手といっても私の実家は大田区!工場がたくさんある大森、蒲田はそんなに遠くではありません。

山の手も大きな被害に合った日があります
3歳にもなっていなかったが断片的に覚えています。
坂の上にあった我が家から狐火のようにちらちら蒲田あたりが燃えていました。
家の近くに不発の焼夷弾が同じ間隔に落ちていた。

 その頃我が家は10人家族だった。父は通信を担当していたので戦地には行かなかった。
母は父に赤紙が来なかったことでいじめにあったこともあるそうだ。
祖父は今で言う赤ひげ先生で病の人の所に毎日警報が鳴っても出かけて行った。
そして体の弱かった母を助けて下さっていたお手伝いのおばちゃんと民ちゃん
ある日空襲警報で私は民ちゃんにおんぶされて家の防空壕から大きな防空壕に逃げた。
帰って来たら周り中ほとんど焼けて我が家を含めて4件だけ残っていた。
父と祖父とおばちゃんが屋根の上でお水をかけていたそうだ。
祖母は火の神様の『竜蛇神様』が守ってくれたといって泣いていた。
それから終戦まで毎日我が家の井戸に多くの人が訪れていた。 そのとき民ちゃんは20歳にもなっていなかった。
私が小学6年生の頃に山形の酒田に帰って行った。彼女は40歳くらいの若くして亡くなったらしい。
私が大人になるまで生きていてくれたら一杯戦争当時の私の様子を聞けたのにと思う。
おばちゃんや民ちゃんがいてくれたから家も焼けずに祖父からの大切なものが皆残ったと思う。
画学生さんも書生として離れに住んでいたこともあった。
その作品やら掛け軸やら祖父が集めた骨董品、母が小樽にいた頃に買ってもらったひな壇やピアノ、祖父がドイツに留学していた頃に集めてきたものみんな残った。
その後父は親子電話を発明しカーステレオの原形を創り会社が特許を得て退職してからも老人大学一期生として農大に園芸を学んだ。
貧しい家庭に育ち特待生で東北大学を2年早く卒業し養子になりひとり娘の母と結婚して楽な生活になったそうだ。
通信機器一筋に家でも設計図を書いていた。肺がんで74歳の生涯を閉じた
母は大正3年に生まれ裕福だったらしくまだ小学校もろくに出ない人もいた時代に小樽から上京し学生寮に入り日本女子大で日本文学を学びその後お見合いで父と結婚した。
私の知る母は巻紙で手紙を筆で書き読めない漢字は無かった。一度私が高校生の頃に『犬養道子』の本が難しくて何回も『この字なんて読むの』と聞いてばかりいたら『そんなに読めない漢字が沢山あったら本の意味がわからないでしょ』と言って笑われたことがあった。
とにかく優しい母で声を荒げたことが一度も無い
私たち3人娘が高校を出るまでPTAの役員をしていた。

祖父の妹は日本女子大の第1期生でこれまた良く本を読んでいる人で文学全集をかたっぱしから読破した人だと聞かされていた。
私は国立(くにたち)のおばちゃんと呼んでいた。
祖父は一人娘の傍に行きたくて小樽の病院をたたみ東京に出てきて一時は横浜の病院で院長をしその後 開業医をしていた。
祖母は箸の上げ下ろしにも厳しかったけど今はありがたかったと思うし,祖父は優しくて大好きだった。
母は結婚してから何度か病気をして私が赤ん坊の時はお乳も出なくてもらい乳をしていたらしい。戦後私が小学校に入る頃から元気になり一時日本女子大で教えていたこともあった。母も旅行が大好きで父が退職してからは良く2人で旅行していた。その母も77歳で肺気腫で亡くなった。

お写真は東京大空襲のサイトからお借りしました。

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三越美術館

2008-03-09 21:33:07 | Weblog

夕刊に上村淳之さんの展覧会が行われているのを知って昨日出かけてきた。

彼は祖母に巨匠上村荘園、父に上村松篁と言うサラブレッドの家系彼が幼少のころから沢山の鳥と句えらしていた大学は建築に進むつもりでいたが東京へ出て絵の無い生活に耐えられなくなって京都美大に入り上村荘園が晩年を過ごした奈良県平城の唳禽荘に移り住む。

私は上村松篁さんの花鳥画がとても好きで何度も展覧会があると見に行き本も沢山持っている

淳之さんを注目するようになったのは、秋篠宮家の眞子様が確か小学生の時に京都の松伯美術館を訪れたときの案内役をされ日本画が大好きになり卒業文集には将来の夢について「日本画の創作、保存や修復の仕事、そして広く美術の研究にも関心を持っています。いつか、今にも飛び立ちそうな鳥の絵を描きたい」と書いたという。 テレビで知って小学6年生を感動させる絵って??と思った
父松篁さんとは又違った淡い霞がかった田圃にシギ空間があとぜんぶ

とにかくその空間で色々想像できる優しい絵ばかりだった。

館内のビデオで淳之氏の詩情溢れる花鳥画の世界は、朝夕、四季を通じて生活を共にする263種、1600羽を越える鳥たちの生態を観察する中で形成されていったそうです。
なるほどとうなづけました

私は絵葉書とファイルを買ってきた
とても心が暖かくなった。

 

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火事

2008-03-07 21:48:21 | Weblog

昨日の夜中の2時ごろ我が家から近くの家が火事になった
力丸がかなり吼えて消防車のサイレンがなって夫は目が覚めたらしい。私は12時ごろ寝たのでぐっすりで知らなかった。
夕方夫が散歩でそこを通るとそこに住んでいらっしゃったお年寄りが亡くなったのと息子さんが入院中で幕がかけられてあったらしい。

異常乾燥が続く中火事は他人事とは思えない
我が家の加湿器も何時もフル回転でも湿度35%火の回りも速いはず。

それと最近お年寄りがガスの火が袖口とかに移って焼死する例が増えているとか、電磁料理器にするのが良いのか、それも火災警報器が役立たないからと言う方も仰って気になるところ。

私もそろそろ火事対策も考える年齢だから

コメント (6)
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