飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

組織のおける特別ルールの必要性

2024年09月28日 05時08分01秒 | 教育論
岡田斗司夫氏がこんなふうに言っている。

「例えば学校だったら、先生と生徒っていう役割を演じさせなきゃいけないじゃないですか。
 じゃ35歳の先生と12歳の子供は、本来平等なはずというか、まあまあ同じような人間のはずなのに、そこで学習という、先生がこれを覚えなさい、子供が「はい」って言うためには、何が必要なのかって言うと先生は偉いとか、年上は偉いっていう、無根拠で全く意味がない、ルールみたいなものがないと、学校という場が成立しないんですね。」

原則、先生と子どもは平等である。
このことに異論はない。
法の下の平等が憲法で決まっている以上、人権や権利においては平等と言っていいだろう。
子供に暴力を振るったりや暴言を吐いたりすることは問題外である。
しかし、学校という場を成立させるためには、つまり、「先生が、「これを覚えなさい」と子どもに言い、子どもは「はい」と素直に応じる」という場を成立させるためには、無根拠で意味のないルールだが、「先生は偉い、年上は偉い」というルールが必要なのだ。

先生が「これを覚えなさい」と言った時に、子どもたちが「なぜ、それを覚えなければいけないのですか。」「それは、僕たちに強制しているのですか。」「僕たちがそれに従わなければならない法的根拠はなんですか」「先生と子供が平等と言うなら、従う義務はないはずです。」こんな風に子どもたちがある意味の正論を言い始めたら、授業は成立しないし、学校という組織も成り立たない。

しかし、学校という場を成立させるためには、つまり、教える立場の人間がいて、その人の指示で学ぶ立場の人間がいて、「教える」「学ぶ」という行為、現象がある程度効率的に成立するためには、教員の指示を子どもが素直に聞くことが必要で、それを支えるルールとして「先生は偉い(から敬意を払い、指示には遵う)」ということが必要だということ。

つまり、原則は否定されず尊重されるべきだが、その上で、ある場面、ある組織、ある場では、表面上は原則に反するような役割やルールが必要となることがある。
このような場面は、世の中いたるところにある。

遊園地の伸長制限だってそうだ。
ジェットコースターに乗るには身長制限がある。
それは乗り物に乗る人の安全確保のためだ。
もし、この制限を設けずに事故が起きたら、どんな理由があろうと施設側の責任が問われる。
そんな時に、大人は乗れるのに、子供だけのせないのは不公平だ、差別だ。
乗せるのが当然だと言って、そのことが通るだろうか。

会社には、様々な社内ルールがある。
それは世間から見れば、厳しい、不公平なことかもしれないが、利益追求や社会貢献といった企業における社会理念を実現するためには必要なルールなのだ。
にも関わらず、社内のルールは問題にされずに、学校のルールだけがおかしいとやりだまにあがる。

子どもたちを安全に管理し、どの子にもきちんと初等教育を受けさせ、義務教育における学力を身に着けさせることが学校の使命であり、役割なのだ。
そのためには、個人の自由は制限されるし、家では許される自由も学校では許されないこともたくさんある。
意味のある統一もあるし、余計なことに気をとられないようにする細かい決まりもある。
なぜなら、その学校独自のルールが守られなければ、学校教育の目的が達成されないからだ。

なのに、なぜか学校だけは、このことが容易に許容されない。
もう少し冷静に世の中の平和は何によって保たれているのかを考えてほしいと願うのは自分だけだろうか。
今学校が抱えている問題の根本原因はこんなところにもある。

saitani


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