飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

プライドと矜持

2025年02月14日 05時53分24秒 | 教育論
教師は教室の中で様々な言語を使用する。
言葉を生業とする職業であるので、言語によって子どもたちに自分の思いや考え方を伝えるのは必然性のあること。
では、その自分の発する言葉をきちんと定義づけできているだろうか。
「先生、今、プライドを大切にしなさいとおっしゃいましたが、プライドってどんな意味ですか?」
そう子どもたちに聞かれたら先生方はなんと答えるだろう。

プライドの類義語には、誇り、自負心、自尊心、矜持などがある。
この矜持とは、プライドとどう違うのか。
辞書には次にように書かれている。

以下引用。

プライドと矜持はどちらも自分の能力をや実績に自信を持っているという点では似ているが、その根拠としているものに違いがある。
・プライドは他者との比較や人からの評価などを拠り所としており、自分の強い部分だけを見て自信を保つ傾向がある。
・矜持は、自分の能力や身につけてきた技術、これまでに経験などを拠り所としており、他人との比較でも揺らぐことのない確固たる自信につながっている。

引用終わり。

整理してみる。

〇自尊心:自分をかけがえのない存在として、強さも弱さもありのまま受け入れている感情
〇プライド:自分に自信と誇りを持ち、他者からも評価されることを求める感情
〇矜持:自分の能力や経験、実績に対して誇りを持っていること

こうして比較してみると、自分が日頃それぞれの言葉に対してどんなイメージを抱いているのか見えてくるのではないか。
では、教師が子どもたちに育てるべきものはプライドなのか矜持なのか。

「矜持(きょうじ)」という言葉には次のような意味が付加されている。
「自分をコントロールできる」、「自分を抑えることができる」。
要するに、周囲に流されないで自分をコントロールすることができ、私利私欲に流されないで自分を節制できる人でなけれは矜持をもつことができないということになる。

学校という組織は性善説に基づいて運営されている。
いや運営されてきたといった方が正確かも知れない。
それは子どもたち一人一人にプライドや矜持の小さな芽があったからだ。
自分で自分を律する気持ちが幼いながらも健気にも持っていた。
人が見ていなくても良いことはする、注意されなくても悪いことをすれば自ら名乗り出る、そういった雰囲気が学級にはあった。
判断基準が自分軸にあった。

しかし、今は一人でいるときには行儀がいいのに、集団になった途端に行儀が悪くなる人間がいる。
周りに流されてしまう。
人の価値観はさまざまである。
人前では正義を述べて、正しいことをしていても陰でずるいことをしている人間はたくさんいる。
一対一で相手の顔がみえているときには暴言や失礼な態度をとれない人間が、SNSのように自分がはっきり出てこない不特定多数に対しては平気で命の危険を及ぼすほども酷い言葉を投げかける。
人目は気にするくせに根底には自己中心主義が隠れている。

矜持には、人が人らしく生きるために欠かせないさらに深い意味がる。
それは確たる自信を持って、相手によって引け目を感じたり、相手に媚びない、相手を見下さない、どんな相手に対してもプライドとリスペクトを持って対等に接するという意味だ。
スポーツの世界でもこの気持ちが一流選手にはある。
どんな技術的に優れていても、相手をリスペクトし礼儀を知らない選手は誰からも認められないし、やがて社会からもドロップアウトしていく。
そんな事実は数限りなくある。

相手に媚びるのも、相手を見下すのも、その根底には自信のなさやプライドの欠如を隠そうとする意識が働いているからである。
教室の中でどんな子どもたちを育てようと考えているだろうか。
今一度、自分なりのイメージをもってみることも重要なことだ。

saitani






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