今日で2024年も終わる。
明日からは2025年のスタート。
新年というものはいいものだ。
考え方や気持ちをリセットできる。
私にとっても来年は新たなスタートの年となる。
知的好奇心や向上心は常に持ち続けていきたいと思う。
インプットの目的はアウトプットであるように、自分の持てる力をどこで発揮するかはきちんとした選択肢の基準をもっていたい。
定年のときにも思ったこと。
60歳のときに自分が一人で書斎で考えことは言葉では表せない気持ちだったのかもしれない。
これまでを振り返り、そして、残りの人生のことを考えた。
それは、今考えてみるとこれまでとは違う考えのように思っていたが、実は、以前とは何ら変わっていなかったかもしれないと思った。
これまで自分は人との出会い、子どもたちの出会いと別れ、友人との信頼関係、尊敬する先生方との出会いによって成長させてもらってきた。
そして、60歳迎えたこれからも多くの出会いと別れを繰り返すだろう。
そんな中で、いつも考えていたことは、その人との共有する時間のかけがえのないものにするにはどうすれば良いかということ。
それは、形式や常識ではなく、何気ない日々に全力を尽くすことだった。
映画で言えば、映画は一コマ一コマでできている。
その集合体が一つの作品と成る。
完成をもってその作品の意味が決まるのだろうか。
違う。
世間一般では完成した作品でその評価は決まる。
繰り返すが世間一般の映画なら。
その映画が完成するまでの血の滲むような努力や激しいぶつかりあいの末の人間的な成長は表面的な作品には出てこないし、評価の観点にもならない。
我々教師は人間を相手にしている。
人が人を教え導くという崇高な行為をしている。
それは結果のみでは判断されない。
自分はその一コマ一コマに意味がなければ、どんなに世間の評価が高く、良い作品と言われても、燃えカスで暖を取るような行為に等しいと感じてしまう。
担任時代にも強くそう思った。
担任した子どもたちの卒業式にたとえ立ち得なかったとしても、後悔の気持ちが残らないように日々の指導を全力でしよう。
我々がしてきた意味は卒業式の姿にあるのではなく、200日の日々の学級での真剣な取り組みにあったのだと感じられるような時間を過ごす。
卒業式で多くの人からかけられる形式的な「おめでとう」には深い意味はなく、共に過ごした時間の中の涙と感動と汗に我々が出会った意味があったのだと考えたい。
だから「卒業おめでとう」と言葉で伝えられなかったとしても「先生はみんなのために全力を尽くしたんだよ」そう伝えられるように努力しようと思った。
「収穫には立ち会えないかもしれないけれど、できるだけたくさんの種をまこう」そんな気持ちだった。
形あるものに成らないとしても形ないものの中に私の思いや意志はこもっているんだよ。
そんなふうに思ってもらえるように。
まとまりのない文章だか、こんなふうに考えた。
自分は出会った人、とりわけ自分から何かを学ぼうとしてくれた人には全力を注いできたつもりだ。
私が学級経営において形式主義を徹底的に排し、子供の事実のみに実践の良し悪しの基準をおいていたのはこんな考えあったから。
もうすぐ新しい年が始まる。
来年もいろんな人と出会い、いろんなことを日々判断する。
そのときに判断基準。
「どちらが楽か」ではなく
「どちらが楽しいか」
「どちらが得か」ではなく
「どちらが徳か」
「どちらが正しいか」ではなく
「どちらが心が温まるか」
「どちらが損をしないか」ではなく
「どちらが後悔しないか」
「どちらが失敗しないか」ではなく
「どちらがやってみたいか」
「どちらが得意か」ではなく
「どちらがワクワクするか」
「どちらが簡単か」ではなく
「どちらが成長できるか」
この基準をもって物ごとを判断していきたい。
どちら様も良い年をお迎えください。
今年もご支援ご協力ありがとうございました。
来年もよろしくお願い致します。
2024(令和6年)12月31日
明日からは2025年のスタート。
新年というものはいいものだ。
考え方や気持ちをリセットできる。
私にとっても来年は新たなスタートの年となる。
知的好奇心や向上心は常に持ち続けていきたいと思う。
インプットの目的はアウトプットであるように、自分の持てる力をどこで発揮するかはきちんとした選択肢の基準をもっていたい。
定年のときにも思ったこと。
60歳のときに自分が一人で書斎で考えことは言葉では表せない気持ちだったのかもしれない。
これまでを振り返り、そして、残りの人生のことを考えた。
それは、今考えてみるとこれまでとは違う考えのように思っていたが、実は、以前とは何ら変わっていなかったかもしれないと思った。
これまで自分は人との出会い、子どもたちの出会いと別れ、友人との信頼関係、尊敬する先生方との出会いによって成長させてもらってきた。
そして、60歳迎えたこれからも多くの出会いと別れを繰り返すだろう。
そんな中で、いつも考えていたことは、その人との共有する時間のかけがえのないものにするにはどうすれば良いかということ。
それは、形式や常識ではなく、何気ない日々に全力を尽くすことだった。
映画で言えば、映画は一コマ一コマでできている。
その集合体が一つの作品と成る。
完成をもってその作品の意味が決まるのだろうか。
違う。
世間一般では完成した作品でその評価は決まる。
繰り返すが世間一般の映画なら。
その映画が完成するまでの血の滲むような努力や激しいぶつかりあいの末の人間的な成長は表面的な作品には出てこないし、評価の観点にもならない。
我々教師は人間を相手にしている。
人が人を教え導くという崇高な行為をしている。
それは結果のみでは判断されない。
自分はその一コマ一コマに意味がなければ、どんなに世間の評価が高く、良い作品と言われても、燃えカスで暖を取るような行為に等しいと感じてしまう。
担任時代にも強くそう思った。
担任した子どもたちの卒業式にたとえ立ち得なかったとしても、後悔の気持ちが残らないように日々の指導を全力でしよう。
我々がしてきた意味は卒業式の姿にあるのではなく、200日の日々の学級での真剣な取り組みにあったのだと感じられるような時間を過ごす。
卒業式で多くの人からかけられる形式的な「おめでとう」には深い意味はなく、共に過ごした時間の中の涙と感動と汗に我々が出会った意味があったのだと考えたい。
だから「卒業おめでとう」と言葉で伝えられなかったとしても「先生はみんなのために全力を尽くしたんだよ」そう伝えられるように努力しようと思った。
「収穫には立ち会えないかもしれないけれど、できるだけたくさんの種をまこう」そんな気持ちだった。
形あるものに成らないとしても形ないものの中に私の思いや意志はこもっているんだよ。
そんなふうに思ってもらえるように。
まとまりのない文章だか、こんなふうに考えた。
自分は出会った人、とりわけ自分から何かを学ぼうとしてくれた人には全力を注いできたつもりだ。
私が学級経営において形式主義を徹底的に排し、子供の事実のみに実践の良し悪しの基準をおいていたのはこんな考えあったから。
もうすぐ新しい年が始まる。
来年もいろんな人と出会い、いろんなことを日々判断する。
そのときに判断基準。
「どちらが楽か」ではなく
「どちらが楽しいか」
「どちらが得か」ではなく
「どちらが徳か」
「どちらが正しいか」ではなく
「どちらが心が温まるか」
「どちらが損をしないか」ではなく
「どちらが後悔しないか」
「どちらが失敗しないか」ではなく
「どちらがやってみたいか」
「どちらが得意か」ではなく
「どちらがワクワクするか」
「どちらが簡単か」ではなく
「どちらが成長できるか」
この基準をもって物ごとを判断していきたい。
どちら様も良い年をお迎えください。
今年もご支援ご協力ありがとうございました。
来年もよろしくお願い致します。
2024(令和6年)12月31日