2025(令和7)年がスタートした。
元旦は天気に恵まれ、各地で素晴らしい初日の出が見られた。
自分も朝のウォーキングしながら、初日の出をみることができた。
新年にふさわしい光り輝く太陽がのぼってきた。
新年にあたり、今年一年をどう過ごすいていくかということを考えた。
ずっと目標だったプロ教師になるという夢は今年も変わることなく追い続けるだろう。
では、プロ教師とは何か。
まず、そのことを考えてみなければゴールが決まらない。
このひとこそプロだと思える人物がどんな世界にもいる。
その一人が、京都大学名誉教授田中紘一氏である。
「志高く雑巾がけ」
この言葉を聞いてどう考えるだろうか。
高い志もっているのならもっと高尚な行動をしたほうがふさわしいのではないか、そんなふうに考えるのが普通だ。
しかし、田中医師は「志高く雑巾がけ」を座右の銘としている。
物ごとをなすには、高い志と共に、平素の目に見えぬ努力が欠かせないということを言っていのである。
まず志を立てることが物ごとのスタートである。
吉田松陰も言っている。
「志を立てて、以って万事の源となす」
その人が一生一度の人生に何を成し遂げたいか。
それさえ立てられればそれが全ての根本となる。
もし、その成し遂げたいと切に願う志に出会わなければ、私利私欲や自我に負けて、狭い世界でただ迷い、苦しんで自分の人生を歩むことになる。
そうならないためにも初心や原点といった、志を自分でまず立てることが最重要事項になるのである。
田中医師は1942年、大分県大分市大在村に生まれた。
父親や愉快な人だったという。
口癖は、「村の人の脈をとる医者が一番偉いんだ」だった。
この言葉からも、「雑巾がけ」という言葉が紘一氏から出てきた原点がうかがえる。
人の人生を変える要因として必ずなにか大きなきっかけがある。
ターニングポイントとも言えるできごと。
田中氏が小児外科に進んだ主たるリユはある少女との出逢いにあったという。
少女は小児がんだった。
重度の症状でもはや手の尽くしようがなかった。
せめて最後に願いを叶えたいと、蛍がみたいという少女に河原で捕った蛍を見せるととても喜んでくれたという。
しかし、翌日、その少女は虫かごを抱えたまま静かに息をひきとった。
幼くして命を落とす少女。
それに対して医師として何もしてあげられない無力感。
眼の前の命をすくいたいという切なる思いが、小児外科への道へ進ませたという。
田中医師が目指した術式は生体肝移植。
研究は連日続いた。
毎日明け方まで実験を重ね、はじめの一年間はすべての実験に失敗して、そのうち共に取り組んでいた研究者の大多数は去っていった。
それでもめげずに実験を続ける中で、血液を流してから門脈を繋ぐ従来とは逆の方法を思いついた。
そこから状況は一気に好転していった。
しかし、多くの困難にであることになる。
挑戦の過程で移植をやめようと思った経験は数しれないという。
手術が失敗に終わるとご遺体を霊安室につれていく。
いくら納得の上で行った手術であっても、移植をしなければあと一ヶ月一緒にいることができたのにと泣き叫ぶご家族の姿に接する。
どんな罵声を浴びても反論せず、力が足りませんでしたと頭をさげる。
無念と悔しさが入り混じり、何度も挫けそうになりながら、別の患者の待つ部屋へと向かう頃には、今度は救って見せると己を奮い立たせる。
苦しいときはとにかく耐えた。
悲しみや怒り、あらゆる感情を心の内に留め、感情を風船のようにふくらませる。
この風船をふくらませるほど、人間はやがて大きく成長することができると固く信じて。
これまで世間には起用で腕の優れた医師だと評価されてきた。
田中氏本人はそうは思わない。
器具の持ち方一つ、どうすればスムーズに手術を進めることができるのかと器具を家に持ち帰って家でひたすら練習を重ねる日々だった。
若い医師に対しては、医師である以上、新しい医療に挑むことが重要である。
無理だと思って何もしなければ批判されることはない。
それではなんのために医師になったか分からないではないか。
現在、田中紘一医師は82歳。
残された時間は限られているが「日本の医療をアジアへ繋ぐ」という夢のために挑戦を続けている。
必ずやり遂げ、使用を果たす覚悟であると言っている。
医療と教育という道は違えど自分もそうありたいと願う。
2025年元日に。
saitani
元旦は天気に恵まれ、各地で素晴らしい初日の出が見られた。
自分も朝のウォーキングしながら、初日の出をみることができた。
新年にふさわしい光り輝く太陽がのぼってきた。
新年にあたり、今年一年をどう過ごすいていくかということを考えた。
ずっと目標だったプロ教師になるという夢は今年も変わることなく追い続けるだろう。
では、プロ教師とは何か。
まず、そのことを考えてみなければゴールが決まらない。
このひとこそプロだと思える人物がどんな世界にもいる。
その一人が、京都大学名誉教授田中紘一氏である。
「志高く雑巾がけ」
この言葉を聞いてどう考えるだろうか。
高い志もっているのならもっと高尚な行動をしたほうがふさわしいのではないか、そんなふうに考えるのが普通だ。
しかし、田中医師は「志高く雑巾がけ」を座右の銘としている。
物ごとをなすには、高い志と共に、平素の目に見えぬ努力が欠かせないということを言っていのである。
まず志を立てることが物ごとのスタートである。
吉田松陰も言っている。
「志を立てて、以って万事の源となす」
その人が一生一度の人生に何を成し遂げたいか。
それさえ立てられればそれが全ての根本となる。
もし、その成し遂げたいと切に願う志に出会わなければ、私利私欲や自我に負けて、狭い世界でただ迷い、苦しんで自分の人生を歩むことになる。
そうならないためにも初心や原点といった、志を自分でまず立てることが最重要事項になるのである。
田中医師は1942年、大分県大分市大在村に生まれた。
父親や愉快な人だったという。
口癖は、「村の人の脈をとる医者が一番偉いんだ」だった。
この言葉からも、「雑巾がけ」という言葉が紘一氏から出てきた原点がうかがえる。
人の人生を変える要因として必ずなにか大きなきっかけがある。
ターニングポイントとも言えるできごと。
田中氏が小児外科に進んだ主たるリユはある少女との出逢いにあったという。
少女は小児がんだった。
重度の症状でもはや手の尽くしようがなかった。
せめて最後に願いを叶えたいと、蛍がみたいという少女に河原で捕った蛍を見せるととても喜んでくれたという。
しかし、翌日、その少女は虫かごを抱えたまま静かに息をひきとった。
幼くして命を落とす少女。
それに対して医師として何もしてあげられない無力感。
眼の前の命をすくいたいという切なる思いが、小児外科への道へ進ませたという。
田中医師が目指した術式は生体肝移植。
研究は連日続いた。
毎日明け方まで実験を重ね、はじめの一年間はすべての実験に失敗して、そのうち共に取り組んでいた研究者の大多数は去っていった。
それでもめげずに実験を続ける中で、血液を流してから門脈を繋ぐ従来とは逆の方法を思いついた。
そこから状況は一気に好転していった。
しかし、多くの困難にであることになる。
挑戦の過程で移植をやめようと思った経験は数しれないという。
手術が失敗に終わるとご遺体を霊安室につれていく。
いくら納得の上で行った手術であっても、移植をしなければあと一ヶ月一緒にいることができたのにと泣き叫ぶご家族の姿に接する。
どんな罵声を浴びても反論せず、力が足りませんでしたと頭をさげる。
無念と悔しさが入り混じり、何度も挫けそうになりながら、別の患者の待つ部屋へと向かう頃には、今度は救って見せると己を奮い立たせる。
苦しいときはとにかく耐えた。
悲しみや怒り、あらゆる感情を心の内に留め、感情を風船のようにふくらませる。
この風船をふくらませるほど、人間はやがて大きく成長することができると固く信じて。
これまで世間には起用で腕の優れた医師だと評価されてきた。
田中氏本人はそうは思わない。
器具の持ち方一つ、どうすればスムーズに手術を進めることができるのかと器具を家に持ち帰って家でひたすら練習を重ねる日々だった。
若い医師に対しては、医師である以上、新しい医療に挑むことが重要である。
無理だと思って何もしなければ批判されることはない。
それではなんのために医師になったか分からないではないか。
現在、田中紘一医師は82歳。
残された時間は限られているが「日本の医療をアジアへ繋ぐ」という夢のために挑戦を続けている。
必ずやり遂げ、使用を果たす覚悟であると言っている。
医療と教育という道は違えど自分もそうありたいと願う。
2025年元日に。
saitani