もともと何か強烈だったり特殊だったりしたものがあった土地は、
現在その姿を変えていても、土地が<発する感じ>
みたいなものが違う気がします。
東京の新宿の北西地区再開発に関しては以前の記事でアップしましたが、
その更に北部地域にあたる戸山地区は、
かつて<戸山ヶ原>と呼ばれた大規模な陸軍の施設があった場所です。
高田馬場や新宿には幼少の頃から縁があって、
なにかにつけてよく出かけた地域ですが、
陸軍の施設跡という事を知らない頃の記憶をたぐり寄せてみると、
なにか他とは違う地域という印象があって、
そこを通るたびに僅かながら特別な感情が涌いていたのを思い出します。
画像はそんな戸山地域にある、
時々このblogに書き込みを頂くzeroさんから教えて頂いた、
都立豊多摩病院跡です。
▼
元来伝染病を扱う隔離病院だったそうですが、
戦時中は思想犯や政治犯の収容所に使われたこともあるとか。
戦後、昭和46年(1971)に高等看護学校になるものの、
昭和63年(1988)に廃校、
その後新宿区の施設として転用されるも、
現在は既に使用されていないそうです。
(すべてzeroさんから教えていただきました)
zeroさんの言葉を借りると、
廃墟というよりはただの<放置物件>。
周囲の塀の随所にセキュリティーシステムがあるのが、
綺麗に保ってる原因かと思いますが、
それにしても綺麗な廃墟です。
唯一自転車置き場の屋根がめくれて、
下に落ち葉が溜まっているのが、
時間の経過を感じさせてくれるくらいです。
▼
裏手には講堂のような建物もありますが、
これもよくよく見ると使われていない様子ですが、
外からはまったくそうは見えません。
全体的に人の気配を感じるので、
まだ何らかの目的で時々使用しているのかとも思います。
■追記■ 13.MAR.2006
明治42年(1909)の日本帝國陸地測量部の地図をみると、
この場所に既に<郡病院>と記載されているので、
かなり古くから病院の敷地として使われていたことがわかります。
ちなみに豊多摩病院になったのがいつかは解りませんが、
大正14年(1925)にはまだ<郡病院>の表記、
そして昭和12年(1937)には<豊多摩病院>の表記になっているので、
この間だと思います。
またこの地域は
明治、大正の地図にはそれぞれ大久保村、大久保町と表記され、
<戸山ヶ原>の文字が出てくるのも病院と同じく、
昭和12年の地図になってからのことです。
■追記■ 18.NOV.2007
この記事のコメント欄の9番目、11番目に、
豊多摩病院時代にご入院の経験をお持ちのねこちゃんさんから、
当時の院内の詳細な様子のお話を頂きました。
隔離病院ならではの重厚なルックスと暗い印象の院内とは裏腹な、
とても開放的で明るい雰囲気だった院内のお話は、
豊多摩病院の知られざる真実ですので、
ぜひご覧になってください。
◆軍都 戸山ヶ原逍遙◆
> NEXT
現在その姿を変えていても、土地が<発する感じ>
みたいなものが違う気がします。
東京の新宿の北西地区再開発に関しては以前の記事でアップしましたが、
その更に北部地域にあたる戸山地区は、
かつて<戸山ヶ原>と呼ばれた大規模な陸軍の施設があった場所です。
高田馬場や新宿には幼少の頃から縁があって、
なにかにつけてよく出かけた地域ですが、
陸軍の施設跡という事を知らない頃の記憶をたぐり寄せてみると、
なにか他とは違う地域という印象があって、
そこを通るたびに僅かながら特別な感情が涌いていたのを思い出します。
画像はそんな戸山地域にある、
時々このblogに書き込みを頂くzeroさんから教えて頂いた、
都立豊多摩病院跡です。
▼
元来伝染病を扱う隔離病院だったそうですが、
戦時中は思想犯や政治犯の収容所に使われたこともあるとか。
戦後、昭和46年(1971)に高等看護学校になるものの、
昭和63年(1988)に廃校、
その後新宿区の施設として転用されるも、
現在は既に使用されていないそうです。
(すべてzeroさんから教えていただきました)
zeroさんの言葉を借りると、
廃墟というよりはただの<放置物件>。
周囲の塀の随所にセキュリティーシステムがあるのが、
綺麗に保ってる原因かと思いますが、
それにしても綺麗な廃墟です。
唯一自転車置き場の屋根がめくれて、
下に落ち葉が溜まっているのが、
時間の経過を感じさせてくれるくらいです。
▼
裏手には講堂のような建物もありますが、
これもよくよく見ると使われていない様子ですが、
外からはまったくそうは見えません。
全体的に人の気配を感じるので、
まだ何らかの目的で時々使用しているのかとも思います。
■追記■ 13.MAR.2006
明治42年(1909)の日本帝國陸地測量部の地図をみると、
この場所に既に<郡病院>と記載されているので、
かなり古くから病院の敷地として使われていたことがわかります。
ちなみに豊多摩病院になったのがいつかは解りませんが、
大正14年(1925)にはまだ<郡病院>の表記、
そして昭和12年(1937)には<豊多摩病院>の表記になっているので、
この間だと思います。
またこの地域は
明治、大正の地図にはそれぞれ大久保村、大久保町と表記され、
<戸山ヶ原>の文字が出てくるのも病院と同じく、
昭和12年の地図になってからのことです。
■追記■ 18.NOV.2007
この記事のコメント欄の9番目、11番目に、
豊多摩病院時代にご入院の経験をお持ちのねこちゃんさんから、
当時の院内の詳細な様子のお話を頂きました。
隔離病院ならではの重厚なルックスと暗い印象の院内とは裏腹な、
とても開放的で明るい雰囲気だった院内のお話は、
豊多摩病院の知られざる真実ですので、
ぜひご覧になってください。
◆軍都 戸山ヶ原逍遙◆
> NEXT
豊多摩病院は、戦前からあるのは昔の地図でも確認できましたが、
地図上で見るかぎり、現在とは建物の形が違うようですね。
参考までに昭和46年(1971)に都立新宿高等看護学院となり、
昭和63年(1988)に看護学校閉校ですので、平成になってから
ずっとこの状態のようです。
昭和46年 看護学校開校時の校舎と考えると、この新しさは
納得出来る気も・・・。
詳しい年代をありがとうございます。
記事を少し修正させて頂きました。
そうですね、建物の外観からいって戦前の建物ではありませんね。
でも昭和63年(1988)年からの「放置」だとすれば、
もう18年!
やっぱり綺麗過ぎる気がしますが・・・
もっと前にアップしようと思いながら、
ついついのびのびになってしまいましたが、
ちょうど戸山ヶ原の話題に相応しい日が近づいているので、
この機会にアップしようと思いました。
特に縁日で買い物をするとチブスやセキリになるというお話は、
私も両親から言われた記憶があるので、懐かしいです。
今思うと、そんなに不衛生だったのかと思います(笑
あれだけのしっかりした建物なので、ホームレスにとってはありがたい話しだったんではないかと思いますが、
それでも逃げ出したということは、やはり・・・ですかね(汗
この場所は知ってはいましたが、
地元出身ではないので、病院にまつわる裏話は全然知りませんでした。
でもそこまで強烈な伝承があるというのには、
過去の歴史のどこかに、なにか原因になる事件がきっとあるんではないかと思いました。
昼、外から見る分には、全然そんな感じはしないんですけどね。
いろいろいわくがありそうなので、
確かに解体した方がいい建物なのかもしれませんね。
しかし、建替後がまた収容所!?
この土地は永久に「収容」という呪縛からのがれられないのですね、きっと(^^;
現在の建物は、お調べになった通り看護婦学校として新築されたものです。
元々の豊玉病院は、総合病院クラスの大きさだったと記憶しています。私も亀吉さんと同じく、伝染病病院に恐怖していた一人です。
昭和40年代初頭には閉院しており、その迫力ある廃墟はお化け屋敷そのものでした。当時は、出入り自由だったので、勇気ある悪ガキが探検に行って、自慢話をしていました。私もいつか行こうと思っている内に取り壊されてしまいました。廃墟として立っていたのは、2~3年だったと思います。
取り壊された跡地は、本当に広大な赤土の地面でした。そして、1年間程更地で放置された後に看護学校の建設が始まりました。建物に傾斜があって、当時としては、モダンな、伝染病の記憶を払拭するかの様な建物でした。
その建物も現在廃墟と聞くと、時の流れを感じます。
そうそう、この辺は昔、”豊玉郡戸塚村”と呼ばれていました。現在も豊玉陸橋にその名残があります。
いろいろと詳しいお話をありがとうございます。
亀吉さんもそうですが、
この病院について語る様子をうかがう限り、
相当きてた病院だったんだと感じます。
看護学校も閉校、ホームレスの施設も閉鎖と、
なにをやっても終わってしまう地場になってしまっているのかもしれませんね。
そういえば亀吉さんの書き込みだと、
もう解体されている頃ですが、どうなんでしょうか。
豊玉や豊多摩の表記は、
練馬の豊玉や、杉並の豊多摩高校など。
西東京のいろいろな所に残っていますね。
それだけ影響力のある土地の名前だったのかと思います。
私、現在52歳です。
6歳の時に「しょう紅熱」で1ヶ月入院しました。
レンガ作りで、食堂の食器にグリーンの文字で「豊多摩病院」と焼きこんでありました。
売店では母に永谷園の「磯の吹き寄せ」というふりかけと明治のミルクチョコレートを買ってもらいました。
面会の両親がガラスの2重扉の中の水槽で足を消毒して、白衣を着てやって来たのを覚えています。
洗濯室の白衣には「腸チフス・パラチフス」と大きく書き込んであるものもありました。
病院内は、小児科入院患者が自由に歩きまわれるほど自由でしたし、看護師も先生も優しかったですよ。
ただ、建物自体は・・・そうですねー贅沢にレンガを使用した要塞のような造りでお金がかかっていそうでした。
建物の外見の恐ろしさと中の人々の優しさとのギャップは今でも鮮明に記憶しています。
豊多摩病院の内実のお話を、ありがとうございます。
実は院内はとても自由で、優しい雰囲気の病院だったんですね。
おそらく職員の方々の耳にも「お化け屋敷伝説」は入っていたんではないかと思います。
なので、自然と優しく対応するようになったのかもしれないと思いました。
国内では昭和30年代の後半から40年代の前半にかけて、
いわゆる法定伝染病が激減しているので、
昭和40年代前半に豊多摩病院が閉鎖されるたのも、
特殊な問題によるものではなく、
単に需要が減ったためか、
あるいは建物の老朽化によるものだたんではないかと思いました。
コメントを沢山頂くので、改めて少し調べてみました。
田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』に、
鶴彬という反戦川柳作家の話が登場します。
治安維持法違反で検挙された氏は、拷問と長い拘留で赤痢にかかり、
隔離病院の豊多摩病院へ移送。
1938年9月14日午後3時40分、ベッドに手錠をくくりつけられたまま絶命。29歳。
という話がでているそうです。
また、
昭和23年に豊多摩病院に勤務していた警察官、辻川喜之助氏の
『檻の中の女たち』には、豊多摩病院に収容された、
遊郭の女達の話が綴られているそうです。
病院のはずなのに、警察官が勤務しているのも不思議ですし、
檻の中という表現も、病院とは離れた印象を持たされます。
いずれも戦前や戦後すぐの話ですが、
恐らくこれらの著述から、豊多摩病院の「都市伝説」が出来上がっていたんではないかと思います。
戦後お仕事をされていた優しかった医師や職員の方々は、
さぞつらい想いをしたんではないかとおもいました。
確か病院の内部は一般外来などの安全域と、ガラスの2重扉の内側が消毒水槽になった隔離域とに分かれておりまして、入院患者だけが隔離域に入れるのです。
両親は白衣で内部まで面会に来ましたが、妹はガラス扉越しに会いました。
隔離域内部は外出は厳禁(というより消毒液のプールのガラスの扉をびちゃびちゃと裸足で歩いてまで、外へ行きたくならない雰囲気。皆病気で体調悪いですし)です。
その隔離域の内部も、当時はすでに危険極まりない伝染病患者などはいないので、立ち入り禁止区域もあまり無かったように記憶しています。
食事は、歩ける子は子供用の食堂で大きなテーブルを囲んで、看護婦さんと一緒に食べました。学校の移動教室のような楽しい雰囲気でした。
いつも食後は「泣き虫さんになっている新入りの子をどうやってなぐさめようか?」とか考えて、看護婦さんや入院仲間と紙芝居を作ったりして遊びました。
一日一回抗生剤の注射の時間と、優しいけれどはげ頭の先生が回診に来る時間以外は、あまりじっとしていなくても良かったので、さんざん中を歩き回りました。
あそこが要塞のような造りなのは、やはり伝染病隔離病院だからでしょう。結核とハンセン氏病以外の「死に至る染る病」の治療施設でしたから。
でも私の入院当時は腸チフス・パラチフスがすでに時代の遺物になりかかっていて、感染患者用の特別な消毒白衣などはすでに使われていませんでした。
それから昔の病院は多かれ少なかれあんな雰囲気がありますよね?
今は無くなった東大の分院とか・・・。
豊多摩病院は薄暗い外来や廊下に比べて、病室は窓が多くてとても明るくすごし易かったです。一般外来は割りと普通に混んでいました。
親類他伝染病には縁がなく、一度も隔離病棟などに行ったことはありませんが、
手に取るように病院の様子がわかります。
すでに危険な伝染病が鎮静していたとはいえ、
想像以上に開放的な様子に驚きました。
また要塞のようだったとおっしゃる外見も、一度は見てみたかったものです。
その後ネット上で検索してみましたが、改築前の様子を見つける事はできませんでした。
ただ東大の分院、とのお話をお聞きして、
ほんの少しですが雰囲気がわかったような気がします。
「見た目は重厚で暗い雰囲気だったが、内実は明るかった」病院だったということがわかりました。
せっかく貴重なお話を頂いたので、
記事に頂いたコメントのことを追加させて頂きました。
ありがとうございました。
私、思うに、豊多摩病院に限らず、国立国際医療センターとか都立中部保健医療センター(松沢病院)とか、戦前からある施設は多かれ少なかれ収容所や人体実験に使用された暗い過去を背負っている、と思います。
もしかしたら小滝橋とか戸山ハイツとかの歴史写真の中にその姿を見つけられるかもしれませんね。
まだ軍事医療の記憶が残っていたり、
直せない病気も沢山あった時代だからこそのエピソードだったんだと思います。
いまでも小さな規模では、噂が一人歩きすることもあると思いますが、
あの時代から比べると、随分クリーンな世の中になったと思います。
あの界隈の記録写真に、写っているものがあるかもしれませんね。
機会があったら探してみようと思います。
やはり何らかの形で探して、見てみたくなります。
そうとう重厚な感じかと思いますが、
そういえば東京大学病院とかも、
そういった雰囲気だったように記憶しています。
この時代の建物はだいなり小なりそういった雰囲気だったんでしょうね。
豊玉病院を検索していてここにたどり着きました。
私は以前書き込まれていた「ねこちゃん」さんと同年代で、この近所に住んでおりました。
R.H.さんの書き込みで、「近所の悪ガキが探検した」という話題が出てましたが、私もその一人でした。
探検したのはおそらく1967~1969年頃だと思います。
恐ろしげな巨大病院は、子供ながらに圧倒的な存在感があり、気になってしかたがありませんでしたが、やはり「伝染病」の病院ということで、触れてはいけないという抑止力がありました。
悪友と一緒に、北柏木公園側の塀を乗り越え中に入り、彼が子供の頃に赤痢で入院した記憶をたよりに院内を探検しました。
すでに40年くらい前の話なので、記憶もアイマイですが、強烈な印象として残っているのが「解剖室」「標本室」「巨大煙突」「水槽(地下タンク)」です。
子供(中学生でした)ながら「ここで足を滑らせたら死ぬな」と思ったりしました。
一緒に探検した友人も数年前に亡くなり、月日の経つ早さを実感しております。
解剖室、標本室、巨大煙突、そして水槽と、
子供心には強烈に印象を残すものが沢山あったのですね。
前2つはわかりますが、あとの2つは何だったのでしょうか。
煙突は館内用のボイラーの煙突かとも思いました。
本郷の東大の根津寄りの敷地に大きなボイラー室があって、
そこに巨大な煙突が建っているのを思い出します。
煉瓦造りの古い壁、巨大煙突、そして解剖室や標本室、
だんだんと旧豊多摩病院の姿が見えて来たようです。
地下タンクを覗いて、足を滑らせたら死ぬなという思い出は、
私も似たような経験があります。
和田堀給水場へ侵入した時の話↓
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/c8e1b68cd0bf09b88cb8db79552a1e73
70年代はセキュリティーという考えがなかったんで、
けっこう入ろうと思えば入れた時代ですね。
一本は灰色で背が高くほっそりとしておりました。
もう一本は黒くて太く、灰色の煙突よりは低かったです。
どちらも風呂屋の煙突に比べて格段に大きかったと思うのですが、記憶の中で勝手に大きくなっていたのかもしれません。
私達は、伝染病院ということもあり、死体やら汚染された服やなにやらを燃やしていたのだろうと想像していました。
実際そうだったのだろうと今でも思います。
まだ、排気ガスやら煤煙などが問題視されていない時代のものでした。
そして、私達はアチコチの煙突に登るのが好きだったのです。
今思えばとんでもないことなのですが、当時は「管理者責任」などという言葉も概念も無かったので、事故があっても「勝手に上った子供と、その親が悪い」という感覚でしたので、面白半分で上っていました。
そんなもんで私達は、気になる大きな煙突を探って、出来れば途中まででも登ってみようと思っていたのです。
実際は煙突の下まで行くと、なにやら気味の悪い燃え殻が煙突の開口部から大量にあふれ出ており、とても近くまでは行けませんでした。
水槽とは、おそらく排水施設だったのだろうと思います。
地面から数十センチの高さにコンクリート製の箱が出ており、プールほどもあるコンクリート製のタンクが
地下に埋まっている感じでした。
その上はコンクリートの板なのですが、そこらじゅうにマンホールの蓋が開いたままになっていました。
中には白というよりクリーム色の液体がいっぱいで、深さは判りませんでしたが、そうとう大きなタンクであることを感じました。
石でも投げてみようかとも思ったのですが、跳ね返った液体に触ったら死んでしまうような気がして、近づくのも嫌な気分でした。
その穴だらけの淵を歩いて建物の中に入ったかと思います。
和田堀給水場の写真はなかなか迫力がありますね~
水というものは、大量になると、なんともいえない迫力がありますね。
灰色で細長い煙突と、黒くて太い煙突。
なんだかつげ義春氏の『おばけ煙突』の話を思い出してしまいました。
「なにやら気味の悪い燃え殻が煙突の開口部から大量にあふれ出ており・・・」
などと聞くと、ますます、つげワールドがもわもわと広がってしまいます。
あちこちの煙突に登るのがお好きだったということですが、
これってもしかして、煙突でなくても良かったのではないでしょうか?
まず高い所であること。
そして、普通では入れない(というよりは入ってはいけない)特別な場所であること。
この2つが満たされた場所ということではないかと思いましたが、
いかがでしょうか?
なぜかというと、拙blogのこの記事↓
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/b342f1b611027d0fc2973955df182b7c
をご覧になって頂ければと思いますが、
筆無精さんのお話を読み進んでいくうちに、
この時のことを強烈に思い出しました。
私も一人ではなく、いわゆる「悪ガキ」チームと共に登っていました。
立入禁止の高い施設や地下水槽への興味は、
実は70年代にはメジャーな興味だったのかとも思いました。
もっとも管理者責任という言葉がない時代だからこその、
楽しみだったのかもしれませんが。
皆様のコメントを拝読致しますと、豊多摩病院の入院体験が何かとても貴重な人生のエピソードのように思えてきます。(笑)
そうですね・・・思い返すと病棟の端に「腸チフス・パラチフス」と書かれた大きな要消毒の衣料ケースがありました。(今の病院で白衣や入院着をポンと放り込むクリーニング用のケースの大型版)私が入院した頃には使用されていませんでしたが・・・
煙突からは毎日煙が出ていました。疾患によっては患者の排泄物や吐瀉物の付着した入院着や汚染の危険のある医療用品を焼却していたと思います。
でも入院して生活していると煙筒も当たり前の風景の一つになってしまって、恐怖感は全くありませんでした。
あと思い出したのは、一般外来と入院病棟との境目がガラスの二重扉になっていてその中間は消毒水槽(深さ10cmくらい)で、その通路に警備室があって、入院患者が勝手に抜け出さないように監視するようになっていました。(もっとも私が入院した頃は警備とは名ばかりで、おじさんが一人居るだけでしかも時々留守でした。笑。)
これはあそこに入院すると必要性が納得できるのです。減圧室などの技術が無い時代の精一杯の感染予防策だったろう、と思います。
けれども昔はきっと、あの構造を利用して収容所のような役割も果たしていたのでしょう。
あとは・・・直接感染の疾患が主だったろうと思います。それから後遺症で退院できない人は記憶にあります。梅毒やジフテリアですね。まあ、今では精神病院が引き受けるのでしょうが。
実際にあそこで一ヶ月生活していましたが、母か父か叔父が毎日お見舞いに来てくれました。皆おそろいの白衣を着ていました。確か2階の入院病棟に売店があってお菓子を買いに行きました。
皆で食堂で「いただきまーす」と大声で言って食事をしました。注射が嫌で大人のトイレに隠れていて連れ戻されたことがありました。
さびしかったのはテレビの「鉄腕アトム」が観られなかったことかな。。笑。
今の医療水準から考えると、あの程度の「見かけ倒し」の感染予防策では病院職員はとても危険だと思います。実際に医師や看護師には何人も被害者がいますし。
その一方で性感染症には過剰設備ですし。笑。
そう、良くも悪くも「見掛け倒し」の施設だった、、きっと廃院も間近で病院全体が気だるい感じだったのかな、、などと考えます。
あの病院から中野方向へ早稲田通りを進むと、右手に落合葬祭場がありますが、そこの煙突も低くてススっぽい煙を出していました。昔はそんなものですね。
あとトイレなんですが、綺麗な水洗でした。下水の整備していない頃から水洗だった可能性があります。
筆無精さんは「豊玉」と表記され、ねこちゃんさんは「豊多摩」と表記されてますね。
これはどちだったのでしょうか?
コメントを以前頂いたzeroさんとR.H.さんも
それぞれ「豊多摩」、「豊玉」と表記されているので、
ちょっと気になりました。
当時の地図には豊多摩病院と書かれていますが、
正確には豊玉だったのかな?とも思いました。
> ねこちゃんさんへ
落合火葬場(←こう呼んでいました)、
これも懐かしい響きですね。
落合公園へ行く途中に横を通ったのを憶えています。
「都立豊多摩高校」と同じく「豊多摩」です。
いま母に確認しましたら間違いは無いそうです。
すいません、ねこちゃんさんも書かれていますが「豊多摩病院」です。
横着をして、漢字変換をきちんとチェックしておりませんでした。
野方給水塔はすごいですネ~
知っていれば私も登りたかった~
私が通っていた西戸山中学の隣にも大きな給水塔があり、なんとか入れないかと探ったりしたのですが、ガードが固くて断念しました。
動機は、廃墟徒然草さんのおっしゃるとおりです・・・・(^^;
しいて言えば、順番は「入ってはいけない場所」が先頭かもしれません。
まぁ、悪戯盛りの悪ガキだったわけで、煙突もそうですが、神田川に下りて口を開けている下水道の中まで入ったりもしていました。
1960年代半ばから1970年代は、東京が膨張していた時代でした。
新宿近辺の社宅や工場などが郊外に移転していき、空家や工場跡、資材置場が沢山ありました。
オマケに管理はいいかげんで、私達が探検すべき物件が多数あったということかと思います・・・・・(^^;
メジャーかと言われると、やはり一部の連中だったと思います。
私達も危険を感じるような場所へ行く場合は、何時も同じメンツだっと思います。
危険な香り、スリル、滅び行くもの、去り行くものへの感情移入、人知及ばぬ圧倒的な迫力への憧れ。
まぁ、かなり感傷的な感覚だと思うのですが・・・・
同行した連中は後に、去り行く蒸気機関車を追いかけ、解散していくキャンディーズを追いかけるようになります。
>ねこちゃんさん
入院の体験というのは、貴重なものだと思いますヨ・・・・(^^;
まぁ、病気や怪我は良いものではありませんが・・・・
一緒に探検した私の友人も赤痢で入院していたそうで、「階段の踊り場みたいな所が遊び場になっていた」という記憶をたよりに探しました。
そして、確かに遊び場がありました。
階段の横のちょっと広いスペースの壁が黄緑色に塗られており、色々な動物の絵が描いてありました。
彼の話では、積木などが置いてあり、けっこう楽しくすごしていたそうです。
もしかすると、ねこちゃんさんと遊んだのかもしれません。
正門は、お滝橋側の三角形になっている角で、数段の階段があり、ねこちゃんさんが書いていたように
昔の警視庁のような背の高い入り口の威圧的な作りでした。
閉鎖される前の記憶としては、入ると右側に受付のカウンターがガラス越しに並び、白衣を着た人達が並んでいました。
かなり薄暗くて子供心に怖かったです。
豊多摩病院だったのですね。ありがとうございます。
▼筆無精さんへ
やはり西戸山中学へお通いでしたか。
お話を伺っていて、そうではないかと思っておりました。
戸山の2つの給水塔が解体されてしまったのは残念です。
最後の頃の姿をアップしていますので、ご覧になってください。
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/ec67684bcbbe4c9f0555d2efb881b8bc
また神田川へ降りて、暗渠へも入られたそうですね。
これもまたこちらをご覧になって頂ければと思います。
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/ad1a8d1751904cacfa5594693f0e3e88
もっとも、これは子供の頃の話ではなく、最近の話ですが。。。
いまだに70年代の子供の頃の感覚が抜けないようです(^ ^;
> 危険な香り、スリル、滅び行くもの、去り行くものへの感情移入、人知及ばぬ圧倒的な迫力への憧れ。
当時は言葉に置き換える事もなく、
得体の知れない魔力に惹き付けられて侵入していましたが、
言われてみるとそういった感情だったのかもしれないと思います。
20代とかでblogが世の中にあったら、
廃墟の記事をアップすることはなかったかも知れないと思います。
この年になってアップしているのは、
スリルや圧倒的な迫力への憧れなどを、
懐かしさとともに語りたくなったからかもしれないと思います。
その西戸山中学も今年の4月から解体工事に入ります。二中と合併させて、西戸山中を存続、解体・建て替えを行うのだそうです。先日、行って来ましたが、建物は堅牢そのもので、全く傷みはありませんでした。是非、最後の姿を記憶にとどめて下さい。
ねこちゃんさん、豊多摩病院が正しかったのですね。勉強になりました。
豊多摩病院の跡地にも行ってみましたが、一部更地になっていました。驚いたのは、周囲の塀(土止め)が当時のまま残っていた事です。小さな階段などもそのままで驚きました。
柏木の家々は、かなり建て替えが進み、知り合いの鉄工所はマンションになっていました。時の流れを感じます。
たとえ存続しても、校舎が違えば、もう思い出は蘇らないかと思います。残念ですね。
私等は幸い小学校、中学校と、現在も当時のままなので、
時たま訪れると、当時を思い出します。
豊多摩病院も解体されてしまい、
小滝橋~新宿間も、どんどん変化していってしまいますね。。。
現在、少子化によって、西戸山中、西戸山二中とも2クラスしかありません。
建て替えについては、行政(新宿区)から10年以上前から提案があったのですが、意味の無い無駄遣いである事、卒業生の思い出の場所であった(昭和28年竣工)事から、共産党の議員さん・父兄を中心に反対して来ました。
ところが、2006年4月の教育長の首のすげかえ、2007年4月の校長の首のすげかえが立て続けに行われ、2007年6月にPTA会長の了承がきっかけになって、建て替えが決定されてしまいました。つまり、行政が建設会社からリベートをもらう為の確信犯であったと思われます。
法的には、教育長の選出は区長の独断で決める事ができますが、昭和20年~昭和60年頃までは、教育界からの推薦で決めていました。この頃、学校給食が外注になり、教育長が外注先の決定権限を持つ事になり、リベートの温床になりました。
その結果、大阪府では有名なO-157集団感染事件が起きました。当時、(広島の集団感染事件を受けて)父兄が給食メニューの変更(加熱品)を申し入れましたが、大阪府はこれを受け入れず、数千人の感染被害を出しました。(外注先からリベートをもらっている教育長はメニュー変更を強く言えない訳です)
また、学校におけるいじめ事件もこの頃から多発する様になります。これも教育長の戦略で、いじめが表沙汰になると教育長クビですから、全て隠蔽する訳です。(元々が給食リベート目的の教育長ですから)
更に、最近は学校の建て替えリベート目的の教育長や校長が出現したという訳です。(こちらの方が巨額です!)
次は明るい話にしようと思います。ごめんなさい。
今年もよろしくお願いします。
>廃墟徒然草様
西戸山にある給水塔が無くなってしまった件、たいへん残念です。
西戸山中学の隣にあった給水塔は、ある種学校のシンボル的な感覚がありました。
今までも時々山手線から見ていたのですが、木々の陰で見えないだけかと思っていました。
5階建のアパート郡が何時の間にか高層のマンションのようになっていき、なんだか中学校の校舎が今までより小さくなったような気がします。
>いまだに70年代の子供の頃の感覚が抜けないようです(^ ^;
アハハ!、これは私も同じです。
数年前に北海道旅行をしたときに、廃線の鉄橋を渡ったり、廃墟となった開拓農家をチョット探検したりしました。
そのとき、ちゃんとした手摺のない鉄橋というものが、いかに怖いものか実感しました。
そう思うと、子供の頃に煙突の上まで行って、後から来るヤツのために煙突の口に腹ばいになったりしたことを思い出すと、それだけでクラクラと眩暈を起こしそうです。
>R.H様
はじめまして、R.H様も西戸山中学ですか、懐かしいです。
同級生の年賀状で、11月に同窓生達で校舎の見学会をやったということが書いてありました。
R.H様もそのとき見学されたのでしょうか?
その日私はよんどころのない事情で顧客へのプレゼンをやっておりました。
2クラスしかないのですか?
そりゃぁちょっと少なすぎますね・・・・
私の頃はF組まで6クラスで、それでも教室がいくつか空いてましたから、収容可能人数からいけばあまりにも少ない状態ですね。
4月から解体が始まると聞くとアセリます。
こんど、じっくり見に行こうかと思います。
中を見るにはどうすりゃ良いのでしょうかね・・・・
さすがに、この歳になって忍び込むのはちょっとマズイですしネ~
昔、淀橋第四小学校のプールに、夜忍び込んで泳いでいて危うく捕まりそうになりました。
そのときは金網とコンクリート塀を乗り越えて逃走に成功しましたが、今では階段を上がるだけでハーハー言ってますから、絶対に捕まってしまいます。
>ねこちゃん様
豊多摩病院は何階建てでしたっけ?
私の記憶では3階建てだったような感じなのですが、どうも古い記憶でアヤフヤなのです。
2階までしかなかったかもしれません。
探検したときにエレベータがあったかどうかの記憶もありません。
解体するときの記憶は若干あるのですが、とにもかくにも「監獄」のようなガッチリした
鉄筋コンクリートとレンガの建物でした。
背の高い2階建てか、普通の3階建てか、モヤモヤしています。
拙blogに似つかわしくないどころか、
貴重な建物や街が、無意味(と思われる様子で)に壊されていくたびに、いつも触れて来た事の一つが、
省庁と関連企業のリベートやキックバックです。
確かに同潤会三ノ輪アパートなどは、建て替えた方がいいと思いますが、
取り壊されていく多くの建物が、
本当にその建物を壊す必要があったのか?
と疑問に思う事がよくあります。
特に去年などは、一年を表す漢字が「偽」とまでいわれてしまったので、
そろそろそのあたり、改善していった方がいいんではないかと思います。
このコメント欄の最初の頃に書き込みを頂いているzeroさんも、やはり西戸山中のご出身で、
第二給水塔が解体されたときに、現場見学をご一緒させても頂きましたが、
あっけらかんとした狭い空地があるだけの跡地をご覧になって、
大事なものがなくなってしまったような表情をされていたのを、
いまでもよく憶えています。
それだけ西戸山中の方々にとっては、意味のある給水塔だったんではないかと思いました。
筆無精さんのおっしゃるように、
子供の頃はなんであんな高い所に平気で登れたのかと思います。
いまはとても無理ですね。
それから学校のプールへの夜の侵入もされたそうですね。
またまた共通体験だな、と思いました。
私の場合は冬で、体育館の裏に積み上げられた木製椅子
(ちょうど木製椅子からパイプ椅子に変わる時期でした)
を持ち出し、
氷のはったプールの上で、倒した椅子をソリに見立てて、滑りました。
お決まりのように、仲間の一人が氷の割れ目から落ちたので、
救出したあといそいで逃げ出しましたが。
学校へは「卒業生ですが見学させて下さい。」と言って訪れれば、
たぶん見学させてくれるんではないかと思います。
私も卒業してから相当時間が経った時に、母校の中学を訪れ、
見学させて欲しいと申し出たら、快くオッケーしてくれましたので。
面白い取材を、いつもありがとうございます。今年も興味深い記事を、楽しみに致しております。m(__)m
>筆不精さま
私も豊多摩病院の記憶は今ひとつぼやけております。何分にも7歳の出来事でしたので・・・。
でも屋上は確かに有りまして、洗濯物が干してありました。
実はあの建物が見下ろせる高台の開業医の窓から、退院後もたびたび屋上を眺めておりまして、確か一階がヨーロッパ建築のように高くて、それから普通の3階建てだったように記憶しております。が記憶はおぼろです。すみません。(^^ゞ
要塞のような造りは、でもドイツ生活の経験から、あちらの普通建築に近いようにも思います。
そもそも都立病院の起源は、伝染病と精神病を隔離して街の治安と安全を保つことが目的でしたので、収容所のような雰囲気は当然といえば当然なのですが。。
ドイツの旧市街にあれば、あまり気にならない建物なのではないかしら?とも思います。
のzeroさんのコメント中の航空写真の中に、小さな小さな豊多摩病院らしきものを見つけました。(^^)
タイトル通り徒然に興味を持ったことを断片的にアップしているだけですが、
今年もよろしくお願いいたします。
ところで航空写真の中に豊多摩病院らしきものを発見されたそうですが、
どのページにアップされているものでしょうか。
多少探してみましたが見当たらなかったので、
教えて頂ければと思いました。
http://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/airphoto/photo.cgi?index=533945&group=USA10kKT&course=M698&num=104&size=normal
小滝橋の下方に豊多摩病院かと思われる三角の建造物があります。(小さいですが)
オォ!、こんな写真があるのですね・・・・
確かに豊多摩病院が写ってますね、周りの建物と比べるといかに大きかったかよくわかります。
昭和22年だと、まだ終戦直後といってもよい時代ですね。
私の親父が家を建てたのは、この写真のちょっと後かと思います。
柏木5丁目(現在の北新宿4丁目)は、昭和33年頃(かすかな記憶)に大規模な区画整理をやったので、
若干現在と通りの配置が違うと思いますが、豊多摩病院の敷地は同じだと思います。
私が友人と忍び込んだ角も判ります......(^^;
目の前の部屋が解剖室で、血液を流し出す溝が彫ってあるコンクリート製の解剖台が寒々として不気味でした。
おちゃらけ気味の友人でさえ、その上に横になったりはしませんでした。
どうやら、記憶にある3階建てが正しかったようで、なんだかちょっと安心しました。
豊多摩病院へ忍び込んだときには、あまりに中が広く入り組んでいるので、脱出路を確認しながら探索するのに神経を使いました。
>要塞のような造りは、でもドイツ生活の経験から、あちらの普通建築に近いようにも思います。
確かにドイツの家は普通の家でもレンガ作りですね。
私は観光旅行の経験しかありませんが、モーツァルトやらベートーベンの住んでいたアパートが、未だに普通に使われているのを見ると、日本家屋の木と紙と泥の家がいかに永続性が無いかということを実感しました。
>廃墟徒然草様
学校への忍び込みですか・・・
アハハ!、なんだか同じようなことをやってますネ~
>学校へは「卒業生ですが見学させて下さい。」と言って訪れれば、
そりゃそうですね、おっしゃるとおりです。
真っ先に忍び込むということが浮かぶのは、ちょっと性格的に問題があるのもしれません。.......(^^;
HPがあるようなので、ちょっと問い合わせてみようかと思います。
国会図書館の古写真のどこかに写っているのかと思いました。
今回は航空写真でしたが、
しかし軍関係の施設だった時代もあり、また伝染病の病院でもあったので、
当時の写真はどこかに必ずあると思っています。
今はちょっと忙しいですが、時間が出来次第、いろいろと探してみようと思っています。
> 真っ先に忍び込むということが浮かぶのは、ちょっと性格的に問題があるのもしれません。.......(^^;
昔とった~、三つ子の魂~、でしょうか(笑
最近では小中学校のセキュリティーは極めて厳しくなっているとは思いますが、
建て替えの噂を聞いて、、、と言えば、先生も納得なんじゃないでしょうか。
最後に学年関係なしの大々的な同窓会とかあると、いいですね。
すると、「豊多摩病院史」という、昭和41年3月に閉館したときに作成した本のコピーの一部を保管してあるとのことでした。
気になってしかたがないので、昨日会社をちょっと早めに退社し、久しぶりに北新宿へ行って手に入れました。
写真を書き込む方法がわからないので、以下の場所に入れてあります。
また、写真は小さくて見難いので、拡大してあります。
http://homepage2.nifty.com/yasaka123/tytama01.jpg
帰りがけに、この正面のところを通りました。
暗くて寒くてスタコラと通ってしまったのですが、もう看護学校の校舎はだいぶ取り壊されているようでした。
他にもいくつか写真があるので、時間が出来たらアップします。
あと、何時のまにか「京王配送センター」が取り壊されていました。
現在、基礎工事中のようですが、やはりマンションになってしまうのでしょうかね・・・・
どうもありがとう。
写真をみると記憶が蘇ります。
そうか、、4階建てだったのかあ。。(^^ゞ
だとすれば私、2階ではなく3階に入院しました。窓から団地の新緑が綺麗に見下ろせましたもの。玄関から見て左側の窓際の3階です!
やっぱり窓、大きいでしょ?
この病院は廊下や外来が暗いのに、病室は明るいんですよ!
記憶って何かのきっかけで一度に湧き上がるのですね。。、
まるでプルーストの世界みたいです。
在りし日の豊多摩病院ですね!!!
確かにかつての桜田門を連想しますね!
この画像ではわかりませんが、
周囲を囲む低い塀や建物の壁面が、
煉瓦だったということでしょうか?
4階の一部が変則的な作りで窓の形も違えていたり、
大きく弧を描く外壁のラインの感じ等、
代々木と新宿の間に今も残る小田急のビルを思い出しました。
(もちろん改装されてはいますが)
『豊多摩病院史』という本も出版されていたんですね!
ということは国会図書館へ行けば閲覧できると言う事ですね。
病院史ですから、この病院のすべてが分かるんではないかと思います。
これは楽しみです!
時間ができたら是非見に行ってみようと思います。
それから「京王配送センター」も取り壊されましたか。
京王の土地なら、京王関連のなにかしらが建つのでしょうし、
売却、あるいは借地なら、マンションとかになるのかもしれませんね。
3年位前にちょっと撮影した画像があったと思うので、
みつかったら、アップしようと思います。
話に聞くだけで想像が膨らんだ「怖い病院」というイメージは、
ほとんどありませんね。
どちらかというとモダンな建物という印象で、
ねこちゃんさんがお話になる、開放的で明るかった病院、
というほうが納得がいく様子に感じました。
廊下は建物の内側に集中させた造りだったんでしょうか。
確かに窓は大きいですね。相当明るかったことが伺えます。
けっこう患者コンシャスな病院だったんではないかと思いました。
私も写真を見てドッと記憶が甦った気がしました。
カラー写真ではないのが残念ですが、建物全体が黄色っぽいレンガ作りでした。
ただ、私が知っている頃にはだいぶ痛んでおり、薄汚れた雰囲気でした。
「豊多摩病院史」は、おそらく国会図書館にはあると思います。
その他の資料も、もしかしたら思った以上にあるかもしれません。
このHPの趣旨ではないと思いますが、ちょっと概略を書きます。
明治30年に「伝染病予防法」が交付され、現在の新宿区、中野区、杉並区、渋谷区が共同で大久保病院の一部に隔離病棟を作ったのが前身だそうです。
なお、日本軍とは全く関係が無いようです。
明治35年に現在の場所へ「東京府豊多摩病院」として移転。
その後東京府から運営を町村組合が引き受け、「町村組合豊多摩病院」となる。
大正12年に関東大震災で損傷
昭和2年~6年鉄筋コンクリートで建設
これが、ねこちゃんさんや私の記憶にある建物となります。
日本で最初の鉄筋コンクリート製の病院だったそうで、どうもコンクリートの質もあまり良くなく、それが後々廃院の遠因になるようです。
全体の写真がこれです。
これ全体が廃墟だったわけですから、かなり迫力がありました。
http://homepage2.nifty.com/yasaka123/tytama02.jpg
http://homepage2.nifty.com/yasaka123/tytama03.jpg
この頃「東京市立豊多摩病院」となる。
昭和20年、空襲で周りは焼け野原となる。
B29に引っ掛けられて煙突の上部が破損して、煙が変な方向に出ていたそうです。
昭和23年、都の要請で「性病課」を置く。
それまでは、豊多摩病院は性病課が無かったようで、進駐軍の要請で新宿の娼婦の検査など大規模にやったようです。
脱走する街娼が多くて大変だったようですが、昭和25年には沈静化したようです。
その後は老巧化する建物を修理・改修しながら昭和41年まで使用していたわけです。
年表を読むと、この病院は正に日本の伝染病の歴史そのもののようです。
大正時代の腸チフス、パラチフス、ジフテリアなどは、死亡率が20%を超えていたりします。
この病院の設計方針を読むと、昭和初期に水洗便所とか暖房のボイラーの設置など、今更ながらすごいです。
私の実家はこの近所ですが、水洗便所になったのはおそらく東京オリンピックのちょっと前頃だったかと思います。
本のコピーの一部だけなので、私も原本を見たくなってきました。
わあ、やっぱり水洗トイレの記憶は確かだったのですね!
確かにあの頃はまだ、巷にバキュームカーがいて臭気を撒いていましたよね!
大人の病棟に遊びに行ったら、マスクを付けてパジャマを着た男性の患者さんが公衆電話をかけていたのを覚えています。
その方に、「ほれほれ、うろつくと違う病気になるから早くお部屋に帰りなさいな」と言われて、慌てて病室に帰ったのですよ。(^。^)
>徒然草さん
「廊下が暗くて部屋が明るい」という雰囲気は、立て替え前の古い「丸ビル」なども同じですね?あれが昔のビルなのかしら?
凄いですね!相当な規模の病院だったことが分かります。
沢山の方のコメントの中に、その規模をおっしゃっている箇所があったかもしれませんが、
こうして写真でみると、一目瞭然。
つまりこの前まで残っていた建物の敷地は、
かつての病院の敷地のほんの一部、ということでしょうか。
そして、この記事にアップしている講堂のような施設や、
その手前にあっただだっ広い駐車場の敷地全部に、
病院の建物がひしめきあっていた、という事でしょうか。
それにしても雰囲気ある建物だったんですね。
また、病院の詳しい遍歴もありがとうございます。
余談ですが、こういったお話こそ、最も知りたい部分です。
例えば過去にアップした千駄ヶ谷の富士塚の話等、
あまり目を向けられていない物件の過去や真相の探訪こそ、
このblogの楽しみとしているところですので、
是非是非どんどん書き込んで頂ければと思います!
日本軍には全く関係なかったというお話ですが、
ではなぜ軍関係の施設と思われる様になったのか?
その辺も含めて、『豊多摩病院史』や「檻の中の女たち」
を読んでみたくなりました。
昭和2~6年に建設ということなので、
その頃の建築を思い出してみると、
丸ビルはもとより確かに暗い内廊下の建物は多いのかもしれませんね。
例えば以前の記事
「慶應義塾大學醫學部豫防醫學教室」
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/41c191f9a570a76b63cca92d553faa06
も昭和4年築の病理関連施設ですが、
確かに廊下は暗く怖い印象でした。
ただ、駒場公園にある旧前田公爵邸などは、
同じ昭和4年築でも、
建物内部が吹き抜けになっているので、
室内も廊下も全て明るかった印象です。
慶應もなかなかですね・・・
どうもありがとうございます。(^^)
予防、、と聞くと「国立予防衛生研究所」とかがかなり気味悪くなかったでしょうか?
、
それから、確か大久保と東中野の間くらいに何か不気味な建物がありましたよね?
記憶が不確かなのですが・・・何か国の施設でお化け屋敷のような不気味な建物がありました。(^^ゞ
あれは何だったのでしょうか?
詳しくは思い出せません。(T_T)
探していただければ、幸いです。m(__)m
ところで、戦前の建築物で好きだったのは、震災で倒壊する前の神戸の「神戸栄光教会」でした。
↓
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/894f2d150cec108c255cd88b4cad5ca1
記事にもアップしましたが、
この一帯の土地は、軍事施設跡地の中でも群を抜いて特別な場所だと思います。
いまでは建物も綺麗になり、そんなそぶりは感じられませんが、
かつて謎めいた雰囲気を出していたのは憶えています。
また大久保と東中野の間の不気味な建物というのは、百人町の地震研究所のことでしょうか?
↓
http://www.linkclub.or.jp/~k-nomura/tokyo/hyaku2.html
また道をいくつかはさんだ、陸軍の技術本部と科学研究所の以前の建物のことでしょうか。
↓
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/b4bf0cd9a061cab904dff2520af13ad9
どちらも朧げな記憶しかありませんが、
かつてこの一帯も、謎めいたエリアだったのは憶えています。
廃墟を検索していて貴ブログに出会いました。
今の社会保険中央病院の場所にあった光学研究所に学生のときに行ったことがありました。
当時は衛生研究所や呉羽化学、蚕糸研究所、科学博物館分館、建設研究所本館(光学研究所もですが)が戦前の建物のままでした。
これ等がかつて陸軍科学研究所の建物であったことを後で知りました。
住地の近所に戦前は伝染病病院だったという都立大塚病院があり、東大分院にもよく行きましたので、豊多磨病院の記事に電気が走りました。
ねこちゃんさんのお話から、豊多磨病院は白金台の旧東大伝研病院に、旧警視庁のような角の丸い入り口に塔屋をつけたような感じを連想していたのですが、筆不精さんの発見された写真をみせていただき、絶句いたしました。病棟はモダンというよりは前衛的ですね。フランクロイドライト好みという感じです。スクラッチタイル張りだったとのことですから、ロイドライトの影響も強くあったのではないでしょうか。
三角形の新館が別の会社という感じで並んでいるのも面白いですね。病棟が怖い感じなので、外来や小児病棟の入った新館はやさしい感じにしたのでしょうか。
ただ、平面図の感じは明治の避病院的な感じも受けますね。旧大塚病院も昭和3年ですから豊多磨病院の1年後輩でやはり巨大な煙突があり、大きなボイラ-室の端に火葬用の炉がありました。別棟の霊安室の隣に解剖室と標本室もあって、まだ現役なのに鍵もかかっていませんでした(昭和25年以降は伝染病病院ではなくなっていましたが)私どもはここをドイツ軍の施設に見立ててコンバットごっこをやりました。ただ病棟の外観や雰囲気は伝研や分院に近い感じでした。ちなみに、都立駒込病院や旧第一衛戍病院(国際医療センタ-)も外観は似ていましたね。豊多磨病院は非常に特殊な外観で、絶後だったのではないでしょうか。ただ、同潤会の清砂アパ-ト等にわずかに似たようなセンス、建物がぎっしり群れを成したような感じ、を見たように思うのですが。
陸軍科学研究所に場所が近いことや、山手線を線対称にした位置に陸軍軍医学校防疫研究室があったこと。
伝染病病院ですから、病原菌の菌株を防疫研究室に提供していた等の意味での軍との関係はあったかも知れませんね。
鶴彬氏の件等もふくめて、あの時代の事ですから色々の憶測はあるでしょうね。
築地病院が海軍軍医学校の隣にあり、東京市立病院であるにもかかわらず海軍軍医学校の付属病院のようなあつかいだった等の事実もあり、あの時代背景下ではどんな可能性も考えられますよね。
ねこちゃんさんのおっしゃる、大久保と東中野の間の不気味な建物とは、旧陸軍科学研究所の建物群のことではないでしょうか。特に建設研究所の部分。
建設研究所は、本館を除けば戦後の建物ですがかなり長い間廃墟の状態でしたよね。
戸山界隈の施設以外はどれも見た事がありませんし、
病院自体の作りにはまったく疎いので、
平面図が明治時代の避病院に似ている、などということもわかりませんでしたが、
とても勉強になりました。
これだけの規模の施設なので、
相当各方面から重宝されたんではないかと思いますが、
伝染病が時代から消えてゆくのに比例して、
病院の影も薄くなっていったんではないかと思います。
またロイドライトのような様式というのも、
気がつきませんでしたが、
もしそうだとすると、内装もかなり凝ったものだったんではないかと思います。
内装も含めて、ますますいろいろ知りたくなりました。
そういう観点では、豊多磨病院の平面もそういう感じに見えませんか。昭和2年竣工の日本ではじめての鉄筋コンクリ-ト製の病院で、大久保避病院の分院を生い立ちとするとの筆不精さんのお話から、明治からの避病院のスタイルを基本に、耐震、不燃、セントラルヒ-ティング、水洗式トイレ等の近代的設備を投入した、という感じでしょうか。
図が硬い感じと、そびえ立つというよりは地面にかじりついたような感じがロイドライト好みのようにみえました。
内部に装飾はないのでは。ねこちゃんさんの要塞のような造りとのお話からトンネルのような感じの廊下を連想しませんか?
旧帝国ホテルも無装飾だったら要塞っぽいですよね。
>ねこちゃん様へ
予防衛生研究所(予研)とは、白金のトンネル入り口近くにあった旧海軍大学跡のことですよね?
それとも今の感染研の辺にあった国立栄養研究所(旧陸軍軍医学校軍陣衛生学教室と標本館)のことでしょうか?
旧海軍大学は終戦後、進駐軍令により設立された予研に流用されたようです。その後ご存知戸山に移転し、感染研となりました。
旧海軍大学は予研移転後長らく廃墟で神霊スポットだったようですね。ただあの建物、若いころは斬新だったかもしれませんね。
国立栄養研究所の建物はその生い立ちは不気味ですが
見た目はあっさりでしたね。終戦直後に廃墟経験があったらしいですが。
>廃墟徒然草様
話が脱線気味で申し訳ありません。
アップされた慶大医学部の予防医学教室のある路地のような通りは、昔の都立衛生研究所や科学博物館分館のあった通りと少し似たような空気があるように思いました。両側が研究所だからかもしれません。
「百聞は一見に如かず」ということで、やはり写真で見ると今更ながらすごい病院ですね~
アナログ様が「明治の避病院的」と書かれておりますが、おそらくそのとおりだと思います。
そのうえ、この時代なので部屋に等級があります。
特等室2室、定員2名
一等室7室、定員7名
二等室17室、定員34名
三等室46室、定員120名
その他特殊病室が21室あり、ペスト、コレラ、種痘、発疹チフスを収容したそうです。
大正14年に起工式を行って昭和2年竣工だそうです。
その当時の写真がこれです。
http://homepage2.nifty.com/yasaka123/tytama04.jpg
これが元々の本館で、前を通る泥んこ道が当時の「小滝橋通り」というわけです。
あの三角形の建物はすぐ後に出来て、そちらが新しい本館になります。
この写真がおそらく、ねこちゃん様が見た景色になります。
http://homepage2.nifty.com/yasaka123/tytama05.jpg
私は中学生のときに、豊多摩病院の本館の前で小滝橋通りを横断して(当時は信号機が無かった)このアパートの間を歩いて中学に通っていました。
閉院するときの写真がこれですが、外観はほとんど昭和初期と変わっていないようです。
http://homepage2.nifty.com/yasaka123/tytama06.jpg
アナログ様が、清砂アパ-ト等にわずかに似たようなセンスがあると書かれていますが、それを読んで私の親父が手をたたいて「そうだそうだ、雰囲気が似ている、そっくりだ」と言っていました。
小学校の先生がそのアパートに住んでいたそうで、懐かしがっていました。
私の記憶には廊下や階段がかすかにあるのですが、スリル満点の不気味な静けさしか覚えていません。
閉館のときのお別れパーティーの写真がこれです。
http://homepage2.nifty.com/yasaka123/tytama07.jpg
おそらく正面の建物にある会議室だと思われますが、やはり明治を感じる雰囲気の照明と窓です。
私はこの写真を見て「九段会館」を思い出しました。
大正から昭和にかけての増築時には、地元での強烈な反対運動があったそうで、院長だった中山寿彦氏(後に日本医師会会長)を暴漢が付狙うようなこともあったそうです。
また、朝倉虎治郎(後に東京府議員)がずいぶん力を入れていたようです。
具体的に写真等を細かく見た事はないので、勉強になりました。
豊多摩病院の内装、要塞の様だったとしても、
いつか見てみたいと思います。
それから衛生研究所ですが、
国立予防衛生研究所が戸山に移転してくるのは、昭和60年 (1984) なので、
私の記憶にある建物は、それ以前の建物。
つまりアナログさんがおっしゃる、
国立栄養研究所(旧陸軍軍医学校軍陣衛生学教室と標本館)ですね。
また研究所や医学関連施設が林立する通りは、
確かに住宅街や商業ビル街とは一線を画した雰囲気があると思います。
お話は全然脱線してませんので、
よろしかったら、もっと沢山聞かせて頂ければと思います。
そうそう、その地震研究所です~
そうなのか・・・地震研究所だったのですね!
>アナログさま
そうか!今の感染研の前の建物だったのですね?
栄養研究所だったのですかぁ(゜o゜)
記憶の中では「栄養」という言葉の響きとは縁の無さそうな建物でした。(^^ゞ
>筆不精さま
閉館お別れパーティーの写真の左から13番目の人物が主治医に似ているんですけど・・・
資料のどこかに柳下、とかいう医師の名前がありますでしょうか?
主治医が「やなぎしたせんせい」というハゲだったことだけは、はっきりと記憶しております。(^o^)
多数の家庭医学書も書かれておられます。
この方は豊多摩病院史に長文の回想録を記述されており、どうやら写真が趣味で私が出した写真もこの方が写したものが多いようです。
また、現在は日本感染症学会の功労者名簿に載っております。
http://www.kansensho.or.jp/about/yakuin/meiyokouro.html
この日本感染症学会には、その他にも豊多摩病院の回想録を書かれている方が名簿に載っています。
柳下氏の回想録では昭和22年~昭和30年代は、慶応をはじめインターンの研修を常に行っていたそうなので、感染症関係のお医者さんで現在70~80歳くらいの方は豊多摩病院を知っている方が多いかもしれません。
柳下先生、現在さいたま市民病院の名誉院長でした!(^^)!
身内に医師がいるので、今度参考資料が無いか聞いてみます!
いま分かったことは、1919年生まれの慶應のご出身で慶應大学と北里大学で教鞭を取られたあと、現職ですね。
5年前の学会でのスピーチの記録を見つけました。!(^^)!
こんなに実力のある先生に直接診ていただいたのですね。感激しております。
先生は優しくて、私の喉から綿棒で採取した粘膜を、シャーレで培養していました。
「ほ~れ、ばい菌だよ~」と言ってにこにこと見せてくれました。
そうか・・・若ハゲだったのかあ。。(^。^)
お元気ならお会いしてみたいです。
先生、今年で89歳ですものね~
徒然草様とzeros様はすごいものにトリガ-をかけられたものと思います。
ひょっとして建物がもっと自分を知られたがっているのかも。
避病院から脱却し、いよいよ伝染病と本格的に戦うための戦場第一号だったんでしょうね。
それにしても40余年前に取り壊された建物が!
深さを感じます。
冒頭でおっしゃった「土地が<発する感じ>。」じわっと感じますね。
>筆無精様
病室に等級があったんですか。
部屋の違いだけならいいけれども、医療に差があったらいやですね。
お父様の年代の方はやはり色々ご存知ですね。
私も親父に色々な事をもっときいておけばよかったと思います。
宜しくお伝え下さい。
違うアングルからの写真を見せていただくと、建物の表情が生き生きと伝わってきますね。
ねこちゃんさんが言われるように、確かに窓が大きいですね。
同潤会アパ-トも、特に初期のものはものすごく採光に配慮した設計だったようで、全戸南に窓を向けたようです。震災復興建築のトレンドとして、豊多磨病院も採光に気を配ったんでしょうね。
やはり反対運動、あったんですね。
少し後の清瀬の結核療養所建設の時にも、反対が原因と見られる不審火が出たそうです。
明治、大正ごろの駒込避難病院でもこの手の不審火が少なくなかったと聞いています。
関東大震災の教訓に加え、こうしたことからも伝染病病院には不燃構造の必要性があったのかもしれませんね。
またこの時代には、命がけで奔走する人が必ずいますね。
豊多摩病院の実像が、想像を遥かに越えて実態化しました。
本当にありがとうございます。
ちなみに国会図書館、新宿区立図書館で『豊多摩病院史』を検索にかけたところ、
何もヒットしませんでした。残念です
筆無精さんがお持ちのコピーが、唯一の手がかりです。
また皆さんのお話はとても貴重なお話なので、
コメント欄にランダムにアップされているのは、とても勿体ないと思います。
近いうちにまとめさせて頂き、記事にアップできればと思っています。
▼筆無精さんへ
またまた貴重なお写真をありがとうございます。
確かに、創建当時と閉院時の建物は、殆ど変わっていませんね。
また戸山アパートが真っ白で、樹木がちょろちょろなのが印象的です。
内装が軍人会館に似ているということですが、
軍人会館は昭和9年竣工ですので、
確かにその時代共通の内装だったかもしれませんね。
昭和初期のそれなりの規模の建築は、大正時代と一線を画した、
20年代風の影響を受けたものが多く、
そういった意味で内装が気になりました。
更に、地元住民の反対運動もあったとか。
やはり伝染病病院ということで、
周囲の人たちは恐怖したのでしょうか?
▼ねこちゃんさんへ
当時の主治医の方のお名前をよく憶えていらっしゃいましたね!
そしてそれにお答えしている筆無精さんにもびっくり!
この病院が、相当気合いの入った病院だったことが伺えます。
▼アナログさんへ
本当に凄い物件にトリガーをかけたものだと思います。
これだけの方々が、これだけ熱く思い出を語られるからには、
それだけの意味がこの病院にあったのだと思います。
お茶碗もどんぶりもカップも湯飲みも、上質な陶器で、しかも全ての食器にグリーンの2本だか3本だかのストライプと「豊多摩病院」という文字が焼きこまれていました。
急須から納豆入れに至るまで、全てが豊多摩病院オリジナルの特注品でした。
わ!ちょっと贅沢ですね~(^^ゞ
なぜ覚えているか?というと学校給食の器の貧弱さと比較して子供心に驚いたからなのです。(^。^)
担当の方がご健在とのことで、嬉しいかぎりですね。
89歳とのことですが、この年齢の方々は一番激動する時代を生きた方々だと思います。
皆さんに「回想録」を書いて欲しいと思うのくらいです。
豊多摩病院の食器の話は面白いです、おそらく外部に出せないように目立つものにしていたのかと思います。
そうだとすると、箸とかスプーンなどは記憶にありますか?
全て割り箸で、焼却処分対象でしょうかね・・・・
写真でもあればと思いますが、残念ながら私の手元にはありません。
給食の食器と比べると豪華に感じたとのことですが、私の記憶では小学生の頃の給食の食器は、丸い円盤をプレスして3箇所くらいの窪みを付けただけのもので、パンとおかずとマーガリンを置いていたかと思います。
あとは恐怖の脱脂粉乳のアルミカップと、先割れスプーンでした。
子供が文字入りの陶器の食器を見たら、とんでもない上等品に見えたでしょうね~
>廃墟徒然草様
東京都立図書館で「豊多摩病院」で検索したところ2件ヒットしました。
http://www.library.metro.tokyo.jp/
1、東京都立豊多摩病院史 / 東京都衛生局医務部∥編 / 東京都衛生局医務部 , 1967
2、豊多摩病院一覧 / [豊多摩病院∥編] / [東京府豊多摩郡町村組合豊多摩病院] , [1931]
私の親父が持っていたのが「東京都立豊多摩病院史」の抜粋だと思います。
時間が出来たら、本物を見に行こうかと思います。
この図書館は私の親父が入り浸っている所で、色々な資料を漁っているようです。
このブログは実に面白いですね、他にも色々なテーマの場所で書きたいのですが、時間が無いのがちょっと悔しいです。
>アナログ様
色々な見方を教えていただいてありがとうございます。
私の親父がアナログ様の文章を読んで「この人は相当の博識だな、建築関係の人かな?」と、だいぶ感心しておりました。
私の親父は大正生まれなので、まだまだ日本が二流国だった頃(深川で生れ育ってますが、定時制の小学校があったそうです)から戦争、復興、高度成長、バブルまでを知っているので話は面白いです。
高度成長の頃は東京電力で配電設計をしていたので、東京オリンピックの国立競技場などの設計の話とかをよくします。
得意なのが、東京オリンピックで行われた駒沢体育館の女子バレーボールの決勝戦「日本対ソ連」の金メダルをかけた試合の最中に、駒沢体育館のヒューズが加熱して停電しかけたときの話です。
加熱してずり落ちそうなヒューズを「洗濯バサミで支えろ」、「扇風機で冷やせ」と、新宿の配電司令室から電話で指示した話をさせると、今でもかなり興奮しながら話します。
そんな仕事をしていた関係だと思いますが、「絶対に必要なのに表に出ない(皆が嫌がる)」というような仕事に興味を持っていて、今でも図書館などに行って色々調べているようです。
特に私が教えた都立図書館(中央)がお気に入りで、おそらく豊多摩病院の資料もここで手に入れたのかと思います。
それだけでも、この病院の気合いの入り方が伺えますね。
あまり入院の経験がないのでわかりませんが、
オリジナルの食器を揃えている病院って、
以外と少ないんじゃないでしょうか。
調べものをする時に、国会、都立、区立と行きますが、
都立 (日比谷) は帯に短し襷に長し的な印象だったので、
検索しませんでした。
これからは都立も検索してみようと思います。
しかも2冊あるそうですね!
いまからとても楽しみです。
廃墟は、
なんらかの理由で必要なくなったから廃墟になるんだと思いますが、
だからこそ現行のものにはない、驚きの背景が隠れていたりすると思います。
そんなあたりをすこしずつ発掘出来ればと思っていますので、
お時間のあるときに、
またいろいろご教授頂ければと思います。
1)空中写真/撮影機関:米軍, 撮影日:1947/12/20
2)小滝橋通りからの全景正面写真/(昭和初期?)
3)敷地および一階建物配置図/昭和2年3月2日病棟竣工
など,みなさんの情報に驚かされた昭和31年生です.
覚えている最も古い情景を1)に重ねていくと,
左上方の白いあたりに醤油工場,
その下,神田川沿いに自動車教習所(後の配送センター).
病院の屋根が黒く見えますが,昭和41年3月の閉院後,私たちは探検というより肝試しで潜入し,屋上に出たことがあり,下はアスファルト様の黒だったような気もします.
煙突は2本見えますが,2)では1本,3)でも○印の中の1箇所だけが「煙突」と読めます.ともかく,1)が戦後2年撮影とすると,B29は煙突の上部を引っ掛けながらも,病院を避けて周囲を焼いたのでしょう.
病院の下方(南側)は野原で,焼けた面影は既になく,部分的に土がむき出しになってはいたものの雑草が生い茂っており,「けんしゅうしょう」という呼び名が耳に残っています.3)では「隣地」となっており,後,北柏木公園となります.
おはしは・・・私の記憶が確かなら、私物で良かったように思います。
売店で母におはし入れとスプーン入れを買ってもらったように思うのですが?
永谷園のふりかけセットと桃屋の江戸むらさきも買ってもらってベットの脇の引き出しに入れてましたし。
ただ、私は比較的入院経験が多くてドイツでも入院したことがありますが、食堂で看護師さんと皆で食事をした病院は、後にも先にも豊多摩病院だけです。
パジャマとか下着とかも、母が普通に家に洗濯に持って帰って、着替えを持ってきてくれましたし。
家に保健所の職員が消毒に来たときも、近所に分からないように、ほとんど形式だけだったようです。(^^ゞ
それから私が入院した頃は三角のビルの建物しか使っていなかったと思うのですが・・。
もう廃院が近かったからなのか重症な伝染病の病院ではなくなっていたからなのか、理由は分かりませんが、当時たまたま友人のお見舞いに行った国立療養所中野病院のほうが、閉鎖的な雰囲気でした。(あくまで子供の視点ですが(^^ゞ)
>廃墟徒然草さま
私は比較的入院経験が多いのですが、陶器の食器は豊多摩病院しか知らないです。
あのう、皆さんのご想像よりもおしゃれなデザインだったと思うんですが。。。
おちゃわんが大きくてびっくりしました。
というより、どんぶりサイズでした。(^。^)
>や さま
そうですそうです!屋上が黒いんですよ~
>みなさま
長く記憶の奥に眠っていた豊多摩病院ですが、身内の医師が旧豊多摩病院から徒歩20分の場所で開業をしている80代の内科医の先生を存じ上げているそうです。(^^)!
近いうちに紹介して頂けるかもしれません。
乞、ご期待です。
そうだ!当時叔父が確か私の実家に下宿していて、小滝橋で免許を取ったといっていました!
でも私の免許年齢の頃にはもうなくなっていて、野方の練馬自動車教習所まで通いました。(その練馬教習所も無くなってしまいました。(T_T))
今思えば子供のころ近所にあった不思議な建物や不気味な建物は、巨大なおもちゃだったのかもしれないと思います。
必ずしも若いとは言えなくなった今、失ったおもちゃに再会するためにタイムマシ-ンに乗っているような今日この頃という感じがします。皆様もそうなのでは、などと勝手に思ってしまいました。
>筆無精様
こちらこそ色々教えていただきありがとうございます。
私、建築関係ではありません。ただ廃墟を含む近代建築が大好きで、若ぞうのころから色々と見たり調べたりしているだけです。お恥ずかしいです。
お父様のお話、ものすごく興味深いです。
機会があればお話おうかがいしたいです。
今でも色々お調べになっているなんて凄いですね。
早速都立図書館を検索してみたところ、近代建築系の古い資料がたくさんありそうですね。
おかげ様で以前から見たかった、「建築の東京」や「復興建築図集」等もあることがわかりました。
>廃墟徒然草様 ねこちゃん様 や様
屋根が黒かったとのお話で、確かに防水用のアスファルトかとも思うのですが、もしかしてと思う事があります。
戸山の旧陸軍軍医学校の施設が、空襲よけに黒くぬってあって、戦後はその焼け残りの建物が廃墟状態で、お化け屋敷と呼ばれていた。との話を聞いたことがあります。
もしかして、同じ意味で豊多磨病院の屋根も黒くぬってあったのかも?とも思いました。
そういえば、例の空中写真の歌舞伎町付近にある、大久保病院の屋根も黒く見えます。
煙突を破損させるとは、かなり低空飛行だったことがわかりますね。
B29も損傷したでしょうね。
パイロットの顔がわかるほどの低空飛行だったという話は本当みたいですね。
焼夷弾で焼けない建物と判断すると、投下しなかったとの話も聞きます。
かつての豊多摩病院へ潜入されたそうですね。
こうやって色々な方々のお話を伺うと、
この記事へのコメントの多さが証明する様に、
やはりこの病院は、人を惹き付ける場所だったんではないかと思います。
例えば拙blogの記事にアップしている野方給水塔ですが、
時代はそれほど変わらないにもかかわらず、
潜入したというお話はまだ伺ったことがありません。
平面図を見る限り、かなり入り組んだ構造なので、
相当気合いの入った肝試しが出来たんではないでしょうか (^.^)
▼ねこちゃんさんへ
お箸やパジャマが私物というのは、
伝染病棟となにか関係がありそうな気もしますが、
「想像よりお洒落なデザインだった」病院の食器は気になります。
また、近しい方に豊多摩病院をご存知の方がいらっしゃるご様子。
ますます病院の実像が明らかになりそうですね!
▼アナログさんへ
空襲を回避する為にビルを黒塗りする話は私も聞いた事があります。
当時の写真を見ると、確かに焼け落ちたビルに様に見えるのが不思議です。
更に(や)さんのお話だとアスファルト状だったということで、
軍艦島の建物に塗られた空襲よけも、アスファルトによる黒塗りでした。
おっしゃるように、病院の屋上が黒塗りされているのは、空襲対策かもしれませんね。
そして大久保病院も黒く見えますが、
病院が黒塗りされている割に、
科学研究所やトンネル射撃練習場がはっきり分かってしまうのも、
これまた変に思いますがどうでしょうか。
前半にhomepageとあったので、もしやと思い「/tytama~」以降を削ってみたら、
筆無精さんのサイトのホームページが出て来ました。
すごく色々なコンテンツがあるので全部は拝見していませんが、
音楽のページ、懐かしい番組など、
懐かしすぎるコンテンツを楽しませて頂いてます。
神田川は自転車で4時間半で終点までですか。
荻窪の先まで戻られたとあったので、さぞ大変だったんでは、と思いました。
お疲れさまです!
最後の頃に綺麗な橋と夕焼けの写真がアップされていましたが、
拡大が出来なかったので、とても残念です。
また寄らせて頂きます。
あらら、HP見てしまいましたか・・・お恥ずかしいかぎりです......(^^;
このプログに関係するのは「東京昨今」の部分だと思います。
おっしゃるように「廃墟」というものは「不要」になるから廃墟になるわけですね。
多分、私達の興味をそそるのが、その「必要だったものが不要になっていく過程とその社会の動き」が具体的または象徴的に見えるのが廃墟というものなんでしょうね。
社会に必要とされて建てられ、要求に答えて活躍し、だんだん時代の要求からずれていき、衰退のときをむかえると考えると、どんな建物にもそれなりの栄枯盛衰の歴史があり、そのオーラが感じられるのかもしれません。
>ねこちゃん様
箸は自前だったそうで、なるほどな~と思います。
私の友人の話でも、通常の病院とは異なり、遊んでいた記憶が多かったようでした。
まぁ、40年くらい前の話なので私の記憶の中ではかなりの省略があるのかと思いますが・・・・
看護婦さんと皆で一緒に食事をされたそうですが「豊多摩病院史」の回想録を読んでいても、かなりフレンドリーな病院だったことがうかがえます。
なんでも、医者が看護婦さんを呼ぶときには「XXちゃん」と呼んでいたそうで、赴任したときに違和感を感じたというお医者さんもいたようです。
ねこちゃん様の入院している頃はもう三角形の本館のみで患者さんをさばける時代だったわけですね。
豊多摩病院史を読んでいると、たしかにもう時代の要求はそれほど大きくはなかったようです。
ただ、廃院する年には東京のアチコチの新興住宅で「集団赤痢」の発生があって大混乱を起こしたらしいです。
回想録の中にも「新しい草履を手に入れるまでは今の草履を捨てるな」などという記述があります。
>アナログ様
アナログ様のおっしゃる「巨大なオモチャ」というのは、まさに私の感覚とピッタリです。
今では私も「歴史的意義」とか色々理屈を付けてますが、まぁ、当時の感覚は「なんだか面白そうだ!、怖そうだ!、スリル満点だ!」と、無我夢中のイタズラ小僧だったわけです。
その感覚は実は今でも全然変わっておらず、同級生と会っても「XX君を覚えているかい? 覚えているままでメガネをかけさせて老けた顔を想像すれば今のXX君だヨ、アホは何歳になってもアホのままだヨ」などという失礼な会話になります。
都立図書館(中央)は日比谷に比べて雰囲気が良いのでよく行きます。
もちろん蔵書は国会図書館の方が桁違いなのですが、国会図書館は閉架式なのとなんとなく冷たい感じがするのでこちらをよく利用します。
「食堂も日比谷に比べればオイシイ」らしく私の親父は入り浸ってご満悦です。
日比谷に行くのは映画の上映会があるときくらいのようです。
>や様
昭和31年生まれだそうで、だいたい私と同年輩ですね。
豊多摩病院への探検をされたそうで、もしかすると私と一緒だったかも・・・
ただ、私は屋上の記憶が無いので別だったンでしょうね~
お話の中に出てきた教習所を思い出しました。
京王配送センター+マンションの敷地が教習所だったように思います。
小滝橋側に一列に2階建ての教室があり、私達悪ガキは廃屋になった教習所に自転車を持ち込んで走り回っておりました。
私は1967年の秋に車にはねられて自転車が大破し、そのまま親は二度と買ってくれませんでしたので、教習所が廃止されたのはそれ以前だと思います。
教習所と神田川を挟んだ反対側には醤油とか味噌を作っていた「百万石」(記憶アヤフヤです)という店と、川沿いに「中野パーマロイ」という金属材料を扱う会社がありました。
そこにも大きな煙突があったはずなのですが、どうも記憶が不確かで残念です。
どの光景も見た事のない光景でした。
神田川越しの日本閣なんかは見ていてもいいようなものですが、
この位置からは見た記憶がありません。
子供の頃から貝塚を発掘に行ったりしていたので、
過去の不思議なものを見たり調べたりするのは、
昔から好きだったんだと思います。
このブログもそのノリで、だから、
皆さんコメントに歴史や過去のお話を書き込んで頂くのかな?
と思います。
ま-ね-、確かに科学研究所や射撃トンネルが未処理というのは頭かくして尻かくさずという感じですね。
そんなもんなんでしょう。
そこら中のビルが全部真っ黒だったら不気味でしょうね。
夜は光を出さないようにしたようですが、窓から光が出ていたら、黒い顔に目が光ったガングロ山姥という感じだったでしょうね。
戸山の陸軍軍医学校はガングロをやったようですが、焼け残った軍陣衛生学教室や標本館は戦後再利用がきまった時に塗りなおしたんでしょうか。黒くなかったですね。
今でも黒い谷中の朝倉彫塑館は、アスファルト塗りだそうですが、近傍にある飲み屋のおやじは、「ありゃあ防水のためだ。空襲除けじゃない。」と強く主張しておりますが。まあ主が芸術家なんでなんとも言えません。
そういえば、大塚病院もどす黒いこげ茶色だったのを記憶しています。かなり不気味な色でした。裏手にあった巨大煙突は本当に大きく高く、ちょうど中野の給水塔のごとく突然にょっきりと現れるランドマ-クでした。取り壊された時の喪失感は筆舌につくせないものがありました。
徒然草さんの、百人町の給水塔が取り壊されて、もうあそこに行く気がしないという感じがじわっと理解できます。
話が脱線して恐縮です。
>筆無精様
そうですか-。
思えば少し前までは、そこらじゅうに巨大なおもちゃがあって、街は宝の山だったような気がします。
仕方が無いとはいえ、正直のところ残念です。
今の子供たちは、あんなダイナミックなおもちゃで遊ぶことはできないわけで、ある意味でかわいそうな気がします。
そういえば、あのころはあたらしくできた建物でさえ巨大なおもちゃだったような気がします。
新築のマンションや貸しビル等にも、テナントが入る前に探検に行きました。人っこひとりいない点では、子供にとっては廃墟同然で、古い建物とはまた違った味わいがありました。
そんな建物も、もう古くなって取り壊される時代なんですね。
朝倉彫塑館といえば、一般的には日本初の屋上庭園と言われているあれですね。
(知る限り、1910年にすでに存在していた、
軍艦島の旧14号棟の屋上が一番古いと思うのですが)
そうですか、彫塑館もアスファルト塗りなのですか。
行った事がないので、是非次回谷中へ行った際には、訪れてみようと思います。
離れているところにいる人間には、
「好きなモノがなくなったから行きたくない」というわがままが通用しますが、
地元に住んでいる人にとっては、なくなろうが変わろうが、
その変化をじんまりと受け止めなくてはいけないところが、
つらい所だと思います。
故郷は、迷った時とか病んだ時に、回復してくれる場所だと思いますが、
そこに記憶の風景がないと、効果も随分薄れてしまうと思います。
『病院史』は昭和41年頃の発行と思いますが,図が書かれた時期が気になります.
(筆無精さん)>昭和33年頃(かすかな記憶)に大規模な区画整理をやったので、若干現在と通りの配置が違うと思いますが、…
・図も通りの配置が古いので昭和33年頃以前.
・図の「煙突」が1本という推測が当たっていれば昭和22年以前.
・図中の文字はおそらく旧字.ただし,左から右への横書きが戦後風.
・図の標題は,活字の雰囲気が新しく,また旧字「圖」ではない.
(ねこちゃん)>食事は、歩ける子は子供用の食堂で大きなテーブルを囲んで、看護婦さんと一緒に食べました。
尖った「玄関」がある新館1階「附添人食堂」左に「看護婦食堂」がありますが,2~4階にも食堂があり,1階「炊事場,配膳室」と料理用エレベーターでつながっていたのかもしれません.
(アナログさん)>平面図の感じは明治の避病院的な感じ…建物がぎっしり群れを成したような感じ…
図はまさに「建物配置」図ですね.建物と建物の間の中庭(?)がとても広いように感じますが,空中写真では建物は密集しているように見えます.
・正面は「車寄,廣間」とホテル風.
・全体的に,「病室」南側に窓,北側が廊下.2~4階建てでエレベーターなし(?)
・縦方向の廊下は,左から「い,ろ,は,に,ほ,と號廊下」
「へ」が見当たりません.△敷地上部で「坂下ル」とあるのは,土地自体が真っ平らではなく,緩やかに傾斜しているからでしょう.
・横方向の廊下は,下から「東側廊下,表廊下,中央廊下,西側廊下,渡(?)廊下」
・△頂点にある1室は「霊(靈)安室」に見えます.
(や)>下はアスファルト様の黒だったような気もします.
材質は不明で,工業的にはコールタールかもしれません.
誰か有識者とやらがそう発言したのをマスコミが受け売りしたのでしょう。
朝倉さんご本人もそう思っておられないのでは、と思います。
そうですか。軍艦島の旧14号棟は煉瓦造りですか?
1910年ごろといえば、このころの鉄筋コンクリは横浜の三井物産ぐらいですよね。
煉瓦だとすると防水が大変だったでしょうね。
でもまあ外国の暑い国では石造でやっていたわけだから不可能ではないですね。
軍艦島には行ってみたいんですが、いま立ち入り禁止ですよね。残念です。
空中写真もそうですが、昭和10年及び昭和15年の淀橋、大久保の地形図に描かれた上面も同じように密集しています。
おっしゃるように車寄せがあり、ロビ-があり、ホテルっぽい感じもしますが、このころのある程度の大きさの病院には車よせがあるようです。旧大塚病院や旧順天堂病院等にはかなりはっきりした形のスロ-プのある立派な車寄せがあったのを記憶しています。
ただ豊多磨の場合、車寄せのある旧本館には外来がないのでよりホテル的に見えるのかもしれません。
ホテルというつもりでみると、この外観は意外に洒落て見えるかもしれませんね。
逆に高級なクラシカルホテルも伝染病病院というつもりでみると不気味な外観に見えるでしょうね。
確かにエレベ-タ-らしきものは見当たりませんね。
頂点にあるのは確かに霊安室のようですが、そもそもこの棟は一般病棟のように見えませんか?
付添い人食堂というのがあるでしょう。隔離病棟に付添い人食堂は危険でしょう。
それにこの棟だけ廊下の両側が病室ですね。
この一般病棟と思しき棟の右どなりの4室こそ、隔離病棟側の霊安室のようですね。廊下の突き当たりから裏口に続いていますね。行く途中の廊下から汚物焼却場にもつながっていますね。
汚物焼却場の中に火葬用の炉もあったのではないでしょうか。
ただ、一般病棟らしき棟の入り口のとなりに、隔離病棟の裏口がある感じですね。これは非常に抵抗を感じますね。
それから、車寄せの左は廊下、ろ廊下間の中庭に動物舎というのがありますね。試験動物用のものと思われますが、病室の窓から見えるような位置にありますね。これもなんだか抵抗を感じます。
旧大塚病院にもありましたが、裏手の病室からは見えないような位置にありましたよ。
工業用コールタール!
コメント欄に記入した軍艦島の壁面に残る迷彩塗装ですが、
アスファルトではなくコールタールだったのを思い出しました。
ありがとうございます。
▼アナログさんへ
軍艦島の旧14号等は、煉瓦造りではなく、
木造(柱梁)とコンクリ(床面)の合体建築だったそうです。
5階建てで、陸屋根の屋上に庭園があったことは、
軍艦島の経営会社、三菱の記録にも、
「屋上ハ花卉ノ栽培場ニ充ツ」と残っているそうです。
※花卉(かき):花や草
横浜の三井物産もご存知ですね。
軍艦島のサイトを立ち上げる時に画像が必要で見学に行きました。
1911年築の日本で最古&現存のRCビルというわりには、
とても綺麗だったのを憶えています。
ところで現存最古の屋上庭園は、
1915年 (大正四年) 築の秋田商会ビルとしか知りませんが、
もっと古い現存庭園もあるのでしょうか?
軍艦島の一般公開は今年の春の予定でしたが、1年は延期するようです。
ただ住宅棟エリアへは恐らく入れないんではないかと思います。
なんせ、かなり危険ですからね。
木骨石造(震災前の新橋駅や横浜駅、古河邸等)や木骨煉瓦造(東大の元馬屋他)というのは知られていると思いますが、木骨コンクリ-トというのは初めて知りました。それも5階建てはすごいですね。
1910年ごろは、今では考えられない建築基準だったのかも知れませんね。
清水の舞台とか城郭とか大仏殿とか、巨大木造建造物は何百年も前、近代以前からあるわけだから木骨が必ずしも弱いとは言えないかも知れません。
古河邸は大震災を持ちこたえていますしね。
ただ、5階建ては驚きですね。
横浜の三井物産は、RCのパイオニアだった遠藤の傑作ですよね。
明治建築とかの写真集に、木造や煉瓦のオンパレ-ドの中にいきなり斬新な姿は、初めてみると誤掲載ではないかと思うくらいですね。
私もどれが屋上庭園の元祖なのかはわかりません。
ただ、朝倉彫塑館に毎週のごとく通っていた時期があり、朝倉さんの普請道楽にはヒントになるものがあって、それを朝倉流にアレンジする傾向が強く感じられるので屋上庭園もまた同様との感じを受けました。
ただ、地下から電動で昇降する巨大ろくろは凄いです。 台東区立になってから危険とかで非公開になったのは残念です。
軍艦島、確かに危険でしょうね。
公開予定があるのはやはり人気があるんでしょうね。
豊多磨病院の病棟が、なぜ2階建てで密集した構造なのか疑問でした。
3階建てにすれば、もっとすっきりしたでしょう。
それはやはり、初期型震災復興建築であるからと思いました。初期型復興建築の特徴が極端に出た例でしょうね。
低層にして、RC、極端な耐震耐火ですね。
容量をとるために、必然的に敷地いっぱいに密集することになったんでしょう。
数年後には、のどもと過ぎれば熱さわすれる。だんだん建物は高層化していくようです。
豊多磨病院から1年後の旧大塚病院はすでに3階建てでした。かなり敷地に余裕があるにもかかわらずです。
日本銀行本店が2階建てで、地面にへばりついた感じなのは、辰野金吾が濃尾地震を経験したからだそうで、本人がそう発言したようです。
その辰野も、晩年には鉄骨煉瓦造り6階一部7階という(旧第一生命館)信じられない当時としては高層ビルを建てています。煉瓦でです。
おそらくこのころには、濃尾地震の経験よりも曽禰達蔵の海上火災ビル、SRC7階建てに煉瓦で対抗するほうが重要だったのかもしれません。
ただ、煉瓦第一生命もSRC海上火災ビルも震災には生き残りました。そした高度成長再開発にやぶれました。
歴史は繰り返すという感じがします。
明治23年だからニコライ堂や日銀本店よりも古いんですね。
日本で最初のエレベ-タ-付きだったそうで、これにちなんで11/10をエレベ-タ-の日としたんだそうですが。
これが大震災で真ん中辺から折れたんだそうで。
12階といえば当時としてはウルトラ超高層ですね。
高層は地震に弱いという見本になってしまったでしょうね。
耐震ということは全く配慮していなかったんだろうな-。
もし耐震を考えなくてもよかったとしたら、豊多磨病院も戸山の現国際協力医療センタ-とまではいかないまでも、12階ぐらいで、上層に隔離病室を置くような造りになっていたり、同潤会も西戸山のタワ-ガ-デンマンションのようになっていたのかな-(笑い)
などと考えてしまいました。お笑いですが。
どうせ地震を経験する前にとりこわされちゃいますもんね-、というのは結果論ですが。
教えて頂き、ありがとうございます。
軍艦島の木骨コンクリは、おそらく炭鉱技術の応用だったんだと思います。
当時の坑道内は、まだ坑木補強が基本の時代。
それで地下何百メートルもの地層を支える技術をもった炭鉱技術者にとって、
5階建てくらいの建築は、いわゆる朝飯まえだったんではないでしょうか。
もう一点は強烈な潮害対策のための、木の採用だと思います。
朝倉彫塑館の地下から電動で昇降する巨大ろくろ
というのは、聞いただけでも凄そうですね。
現在は見学不可というのが残念ですが。
浅草凌雲閣は、もし可能なら、行ってみたかった建物です。
wikiをみると、1階~8階まで世界各国の物産店がひしめいていたそうで、
きっとそのルックスとともに、B級感満載のビルだったんじゃないかと想像します。
エレベーターは呼称頻発で、翌年すぐに使用中止になっているようですね。
確かに大震災がなかったら、東京の高層ビルは、
もっと早く沢山建てられていたと思いますが、
逆に震災がくるのももっと遅かったら、
それはそれで大変だったかもしれませんね。
大正5年ごろですとRCの可能性はあるものの、技術的には当時の日本では前衛ですね。
ただ、軍艦島自体が半人工島という異例のもので技術的前衛の象徴のようなものですよね。
ちなみに多分オフィスビルとして最初のRC、三井物産が明治44年で、本格的SRCの海上火災ビルが大正7年で、軍艦島もRCを多用した高層ビルで固められていた感じかもしれませんね。
国際遺産にぜひ登録していただきたいですね。
写真で見ると凄すぎますね。
ひょうたん島の発想は、軍艦島がヒントなのではという気もしますね。
堤防のようなものには、かなり古くからRCは使われていたようですね。
明治26年の日銀本店の地中の基礎は、鉄筋なしの10メ-トル厚のコンクリだそうです。擬似岩盤とでもいうことになるのでしょうか。
東京駅も最初はRC2階建ての予定が、結局鉄骨煉瓦3階建てになったのは、設計者の辰野がRCに自信がなかったためらしいですね。
最近、信濃町の慶応病院辺に行ったのですが、妙に目立つ巨大な新館が看板建築のごとく通り沿いにたちはだかっているものの、すぐ裏手は昔ながらの慶応病院なのは、豊多磨病院の病棟郡と新本館の関係に良くにているようで、楽しい感じがしました。
建築家の方からは、
軍艦島の旧14号棟の作りが、不可能ではないかというお話があったのですね。
現存物件ではないのでもはや実際に確認することができないのが残念ですね。
たぶん炭鉱の坑道技術の応用ではないかと思います。
昭和になると坑道内は鉄骨アーチで支えますが、
大正以前は地下1000m以上の坑道を坑木で支えていました。
軍艦島の初期の建築は、坑内のそういった作業をしていた人たちが作ったとも言われています。
たぶん地下1000mの構造作業に比べれば、地上5階の作業は、
たいしたことなかったんではないでしょうか。
ご存知のように軍艦島での最初のRC建築は、
大正5年の30号棟アパートと言われているので、
それ以前に建てられた旧14号棟がもしRCだったとしたら、
日本最古のRCアパートが大正5年という説も覆る事になり、
おもしろいことになりそうですね。
> ひょうたん島の発想は、軍艦島がヒントなのではという気もしますね。
だと面白いですね。
軍艦島の隣にある中ノ島が、少しひょろ長いものの、
大小のこぶが2つあるひょうたん島のような形をしてるんです。
http://www.gunkanjima-odyssey.com/GS22-01-12_2.htm
とても興味深い島です。
また軍艦島の堤防は実はRCではないらしいです。
http://www.gunkanjima-odyssey.com/GS22-02-01.htm
天草石を天川(あまかわ)と呼ばれる接着剤で接合した作りだそうです。
現在は周囲をコンクリートで固めてありますが、
殆どはこの天草石の擁壁のまわりを塗り固めたものだそうで、
場所によっては鉄筋が入っているものの、
地盤からしっかりと施工したものじゃないそうです。
実際、大きな台風が来るたびに、
巨大なサイズのコンクリのブロックが海に落ちてしまいます。
日本銀行の地中基礎が、鉄筋なしの10m厚のコンクリートに作られたのが明治26年ですか。
かなり前ですね。
軍艦島で、地下にコンクリで人工地盤的な強度を作り出すのは昭和に入ってからだと聞くので、
そういったことからも、実は軍艦島はコンクリとRCに関しては、
先進的ではなかったんではないかと思います。
慶応大学病院の裏手の研究棟のあたりは面白いですね。
天川ですか。知りませんでした。ありがとうございます。
例の知り合いの建築家とも電話で再度議論してみたところ、そいつも天川については知りませんでした。
彼は軍艦島に行ったことはあるようですが、やはり頭は現代建築家なので現代的な意味合での強度ということにどうしても考えが行き着くようです。
つっつくとちょうどオオツキ教授のような感じになりますが、「おまえさんも天川については知らなかったろ。浅草の12階だって地震が来るまでは立ってたわけだぞ、あ-ん!」と言ってやったら、「そりゃまあそうだ。」と冷静になり「俺も昔のことはようわからん。」となりました。徒然草様に宜しくとのことでした。
ただ、問題の14号棟はまちがいなく5階ですか?
3階建てならなんとなく可能のように思われますが。
それとも、昔の高さの3階建ては現代の5階建てクラスに相当するので、高さは3階相当で、内容が5階、特殊な木組み(おっしゃるように炭鉱坑道の応用等)で、基本構造を木造として外壁をコンクリの壁で覆う構造であれば可能。というのが私の仮説なのですが。
高ささえまもれば、階層は多くてもその分だけ木組みは多くなりかえって強度は確保しやすくなるのではないでしょうか。
住宅であれば、工場他に比べて耐荷重は遥かに少ないので十分可能のように思われます。
コンクリで覆うのは、耐火、耐潮害でしょうね。
明治の木骨煉瓦や木骨石も、耐火が目的のようです。
高さは平屋や2階建て、屋根裏3階ぐらいだったようです。
火事は江戸の華だったようですが時は明治となり、そうも言っていられなくなったのでしょう。
ただ、耐震性能はひくかったようです。
ほんとですね。中ノ島はひょうたんにややにていますね。
人工島部分は昭和ですか。
人工島といえば、ベネチアが大親分ですね。
木組みで支えられているそうですね。水中や地中では木のほうがコンクリよりも遥かに経年変化が少ない場合があるようですね。
そういえば、大正ごろまで建築基礎のくいは木製だったようです。
豊多磨病院跡地に行ってみました。
地面を穿り返していて、基礎と思われるフ-チングがごろごろしていました。
もしかして、同潤会のとよく似ていたので、旧のものかな?とも思いました。
看護学院は敷地いっぱいに立っていなかったでしょう。部分的に旧基礎がのこっていた可能性もありますね。
西戸山小の門の前にある小さな庭園に梅が咲いていて、風情がありました。そのなかに塔の基礎のようなものがあったのですが、かなり古そうなものです。
あれ、なんだかご存知ですか?
http://www.o-project.jp/Gunkanjima-old14.htm
最初にコメントでお話させて頂いた様に、コンクリは床面のみです。
写真をご覧になって頂くとおわかりかと思いますが、
壁面は木造がメインではないでしょうか。
ただ施工時の記録があるわけではなく、写真から判断したそうなので、
アナログさんがご覧になって、どう思われるでしょうか。
それにしても不思議なルックスですね。
下の写真には丁度堤防部分も写り込んでいますが、これが天川接合による天草石の岸壁です。
現在、堤防の島内側には何カ所もコンクリートが剥落した部分がありますが、
その殆どの場所から天草石の堤防が露出しているので、
今も内部はこのままではないかと思います。
鉄筋を入れる事なく、ただ上塗りしただけのコンクリなので、
大きな台風が来るたびに、表面のコンクリがよく剥落します。
お知り合いの建築家の方も、ご存知ないようでしたら、
ご参考になるのではないでしょうか。
また軍艦島は、明治期に既に人工島として、ほぼ現在の形になっています。
http://www.gunkanjima-odyssey.com/GS22-02-02.htm
一つ前のコメントでの地下に人工地盤を造る話は、
建物単位で地下階を設け、そこにコンクリを敷く試みが昭和に入ってからという話でした。
説目不足で申し訳けありません。
ちなみに離島建築で地下階を設置したのも、軍艦島がはじめてのようです。
豊多摩病院に旧基礎らしきものがあったということで、これは興味深いですね。
でも、それも含めて全部なくなり、新しい建物が建つと思うと、
これだけ皆さんの話題に上っただけに、残念な気もします。
> 西戸山小の門前の塔基礎のようなもの。
これはわかりませんね。
私は戸山の人間ではないので、その存在も知りませんが、
コメントに書き込んで頂いた皆さんの方が、ご存知ではないでしょうか。
絶句しました。
筆無精さんからはじめて豊多磨病院の写真を拝見した時とはまた全然ちがった驚きです。
下見板の壁面の5階建て、しかも平屋根!
私、勝手に想像してました。そうですね。床がコンクリとのお話でした。失礼いたしました。
木造5階建て!
骨なし煉瓦積みの12階もあったのだから、木造5階建ても本当にあったのだから、本当にあったものをもとに考察するのが当然の筋でした。
大変失礼いたしました。
木造5階建ては建ててはいけない、という話があるのみで、技術的に建てられないという話はどこにもないのもまた事実です。
1910年ごろには、建ててはいけないということすらなかったのかも。
逆に技術的に可能であれば、何でもやってよかったのかも知れませんね。
なんだかぞくぞくしてきました。
木造にコンクリ-ト製の床だって、全く不思議ではありませんよね。そういえば、私の家も2x4の木造ですが、2階の床にはコンクリを入れています。仕事上防振が必要なためです。
清水の舞台だの、奈良の大仏殿等あんな巨大木造が今でも健在なんだから、5階木造も可能でないはずがないというほうが、そもそも木造国日本の技術を見る立場として当たり前という感じがしてきました。
私なりに、周囲の人間も巻き込んで考えあぐんでみます。
そういえば、本郷に総3階の木造巨大下宿があります。大震災をくぐりぬけたようです。
旧職場近くには、かなり大きな2x4の3階建てマンションがあり、RCと見まごうばかりでした。今も昔も木造の強度は馬鹿にならないものと思われます。
またロマンが一つ増えました。ありがとうございます。
水道橋近くの、文京区立元町公園をご存知ですか。
昭和5年竣工で、分離派風の意匠をもつ傾斜地をたくみに利用した小さな公園ですが、ほとんど手が加えられておらず、奇跡的に竣工時の原型をとどめています。
実は、私最近この公園をあらためて見ることにより、豊多磨病院や、同潤会初期型等に見られる意匠と同等のものを、まとまった形で見たような感じを強く受けました。
写真をアップしたいのですが、銀カメしかなく、やり方がわからないので、そのうちにということで。
機会がありましたら、徒然草さまも生でご覧になることをおすすめいたします。
隣地には廃校となった元町小学校が放置物件として現存します。これは昭和6年ごろのものと思われます。
同じく近傍にある昭和第一高校や桜影高校も同じころの建物で、今となっては貴重な穴場でしょう。
元町小学校は長くないかもしれません。
公園は、周辺住民が重文にすべく運動しているようですが、下手に修復されようものなら雰囲気が半減してしまいます。
時の経過がつくりだした魔法の彩色は、けっして現代の技術では再現困難と、いつもながらかんじる次第です。
特に長崎の外海側は地震がない地域なので、資本力と技術力にまかせて、
ある意味「調子に乗った」のかもしれないと思います。
軍艦島には、この木造からコンクリやRCのへ移行期の建物が結構残っているので、
建築的な視点で見ると、その辺はかなり面白いのではないでしょうか。
外観は頑強なRCながら、外廊下の雰囲気はまるで長屋造りという、
日給社宅と呼ばれる建物なんかはとても面白いと思います。
http://www.gunkanjima-odyssey.com/GS22-04-03.htm
また初期RCの鉄筋には、炭鉱施設で使うワイヤーロープが使われていたり、
対岸から採って来た砂をコンクリに混入しているため、
壁面に大量の貝が散りばめられていたり、と
いまでは考えられないようなことがなにげに行われているのは、
様々な試行錯誤の名残かとも思います。
文京区立元町公園は、隣地の廃校や高校とともに、興味を引かれました。
春になったら是非訪れてみようと思います。
やはり20年代は特殊な時代だし、あの時代ならではのデザインがとても好きです。
浅草の常磐座とか、とても好きな建物でしたが、なくなってしまったのは残念です。
分離派のお話が出たので一つ。2年位前の検見川無線送信所。
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/c/a80aca56fe5bdfb072860c36abb887ca
建築の話は全く書いていませんが、お暇だったらどうぞ。
日給社宅、面白いですね。
機能本位の究極の姿の建物が林立する島とでもいうことになるのでしょうか。
使えるものはなんでも導入してしまえ、といった技術的強引さもすさまじいものを感じます。
この島に潜入する方法が無いわけではないと聞きますが、命がけの、それこそクライマ-的な覚悟が必要のようですね。
検見川無線送信所、分離派の見本的な物件のようですね。
すばらしい写真ですね。
文化財指定の動きもあるようですね。
私、正直のところ、分離派、表現派、この辺をあまり厳密に区別して見たことはなく、なんとなくこの時代のモザイク的な感じととらえていたのですが、送信所は入り口の階段辺に強く気配を感じますね。
文京区小日向に、半年弱前に火事になり現在廃墟となっている精華寮(旧台湾総督府立留学生寮)の建物の色や屋上に頭をもたげる階段塔屋の感じが良く似ています。精華寮は3階建なので、違うんだけれどもシルエットが良く似ていて、頭をニュともたげた塔屋がたまらないチャ-ムポイントです。昭和2年の竣工で、まるで引き上げ者の寮のような感じに存在し、火事になるまで40人ほど人が住んでいたようです。
元町公園、ぜひご覧下さい。サイトも多く、写真は見られますが現物に勝るものはありません。文京区が馬鹿な計画を立てていて、その運命は楽観できないようですが、どうやら小学校に公園を隣接させる震災復興形式として唯一原型をとどめる物件のようで、隣接の旧元町小学校廃校校舎とともに、保存の強く望まれてている物件です。
廃校校舎は昭和6年ではなく、2年竣工の間違いでした。豊多磨病院と同じ歳ですね。
隣にある昭和第一高校の本館裏の一見新しいような煉瓦タイル張りの3階は、実は戦前の焼けビルを修復したものです。プロポ-ションを良く見るとわかりますが、よく見ないとわかりません。その昔は中央大学の法科大学院の建物でした。本当に楽しい場所です。
少し気になったのですが、偶然拝見しました戸山アパ-トと給水塔のペ-ジに、はにわじい様のコメントで、社会保険福祉病院の場所にあった、煉瓦造り廃墟の件がありましたが、あれ、もしかして教育大光学研究所(陸科研の一棟)のことかなあ?
煉瓦色の2階建てでした。私の記憶では昭和54年ごろ何度か見てますが、その時はまだ新しい廃墟で、完膚なきまで破壊されている状況ではありませんでした。かなり綺麗だったように思うのです。実家に写真がないかどうかさがして見ますが。
一見煉瓦に見えますが、RCの煉瓦タイル張りで、大正10年の竣工とのことです。ロイドライトがスクラッチタイルを日本に導入する前ですから、仕上げ煉瓦タイルをはったようで、煉瓦造りのように見えますが、控え柱的な構造が見られず、造りはRCに間違いありません。煉瓦色はこれ以外なかったように思うのです。
昭和54年ごろには、タワ-マンションのところにまだ団地棟が並んでいた時代だったと思います。
廃墟状態の長期間放置の間に、何があってもおかしくないような感じがします。
廃墟は、なぜかガラスが殆ど割れていたりするのは、やはり人が入って何かやらかすからと思われます。
人が住み着いてしまう場合もありうるでしょう。
夜中に寒いとかで室内で焚き火でもやって火事になり、周辺住民が110番通報したときには内部は全焼に近く、焼けビルの姿になったのかもしれないなどと想像しました。
当該建物と思しき光学研究所は、タワ-ガ-デンマンション建設用地が更地になったとき、山手線の車内から見えていた記憶がありますが、あれよあれよという間にマンションがたちはだかり、見えなくなりました。
私は取り壊されたものと思い、以後あの辺には行きませんでしたが、昭和末期まであったのですね。
近くに再開発があると、おそらくあの建物も犠牲になったろうなとか思いその辺には行かなくなってしまうのですが、忘れたころに行ってみると、あった-!なんてこと、たまにありますね。
私が一番面白いと思ったのは、
機能だけでなく意匠も結構考えていたんではないかと思われる点です。
報国寮と呼ばれる島内最大の建物。
http://www.gunkanjima-odyssey.com/GS22-04-05.htm
サイトにもアップしてありますが、
いわゆる日本家屋の縁側をRCの高層ビルに取り込み、
見事に融合させた建物なんではないかと思います。
戦後RC建築に意識的に日本的な意匠が取り入れられるようになる正確な年代はわかりませんが、
丹下健三の香川県庁などをはじめ昭和30年代の後半だとすると、
報国寮はかなり先駆的な建物だったんではないかと思います。
ただ軍艦島の島内は、確かに極めて危険だと思います。
事実、以前部屋へ入ったとたん、梁のコンクリートが目の前でドサっと落ちたこともありました。
精華寮、そして元町公園界隈と、
春になったら見学が楽しみな所が沢山できました。
ありがとうございます。
勿論、意匠も物凄く考えられていたんだと思います。
島民は、離れ島で暮らすという、ただでさえ違和感のあることを長期間体験するわけですから、人口密度の高さゆえの高層住宅という、内地では当時まだなかっつた空間に居住するという極端な違和感を軽減する配慮を、考えられる限り行った結果の内外装なのだろうと思います。
少し違うのかもしれませんが、これもある意味での人間工学とでもいうことになるのでしょうか。
軍艦島建築が、内地のかなり後の建築に影響をあたえたのか、それとも、内地の戦後の集合住宅等は、結果的に軍艦島建築の道をたどったのか、という点が興味深いように思います。
内地ではあまり必要でなかった配慮が、人工密集の島ではぜひ必要なものだった。それが後の内地の首都圏の人口密集の結果、かつての人工密集の島と同じ考え方での都市計画や建築形式を生み出したんでしょうか。
ただ、昔の人には今の人にない遊び心があり、現代都市の建築郡のように無味な感じにならないところは、やはり軍艦島建築も極めて進歩的ではあるが、近代建築なんだろうな、と思います。
離れ島ゆえに、ある意味で治外法権的で、破天荒なこともできた一面もあったろうし、流行を含めた時代のグラデ-ション(何とか様式とか、何とか派とか)にしばられることもなく、独自の路線でありえたこともてつだっているのか、とも思います。
コンクリ-トが目の前でサッと落ちた、というのは、もしかして歓迎の儀式でしょうか?
それともピラミッド等の「ファラオの呪い」のごとく、入るな!みたいなサインだったら怖いですね。
もしくは、危険だから注意せよ的な善意のサインなのかなあ?
> それとも、内地の戦後の集合住宅等は、結果的に軍艦島建築の道をたどったのか、
> という点が興味深いように思います。
確かに興味深いと思います。
もし軍艦島の建築が後のRCアパートに多大な影響を及ぼしていたら、
RCアパートの先駆として、もっと取り上げられているのではないかと思います。
おそらく参考程度はあったとしても、
大都市での集合住宅の発展は軍艦島とは別の流れで、
たまたま結果が同じ方向を向いていた、
と考えるほうが妥当なんじゃないでしょうか。
コンクリートの崩落が、ファラオの呪いのようなものだったら、恐いですね。
いまのところ同行したメンバーや関係者は、
誰も死んでいませんが。(笑
実際は、落ちて納得のヒビの入り様です。
大都市集合住宅の発展とは別の流れと私も思います。
しかし、見事に現代の都市型マンション郡そのもののシルエットで、テロに見舞われた現代都市という感じさえします。
私はまだ行ったことがないのでライブ感は実感できないのですが、いまどきの再開発地などの一角に軍艦島の一連の写真をかさねますと、ウ-ンとうなりたくなります。つまり、殆ど昔という感じがしないのです。
夏目漱石が、留学中のロンドンで地下鉄に乗り、この流れは必ず日本にも来ると思い、病気を悪化させたとの話がありますが。まあ当時はSLだったそうで、地下蒸気は考えただけですさまじいですが。
14号棟等ができたころ、まだジョサイアコンドルはいたわけだから、5階建て下見板を彼が見たらなんていうでしょうか?
内地では、近代的集合住宅のル-ツを同潤会や文化アパ-トメントに置くようですが、形式として現代のマンションの殆どには、あまりそれらの影響の片鱗をみいだすことは少ないように思います。軍艦島建築こそ現代集合住宅のル-ツと言えそうですね。
軍艦島建築の耐震版がそのまま現代集合住宅という感じさえします。
「見事に現代の都市型マンション郡そのもののシルエット」
「つまり、殆ど昔という感じがしない」
という印象をお持ちのようですね。
私も最初に軍艦島の建物を観た時からなぜか古さを感じなくて、
なんでかな?といつも思っていました。
軍艦島のライブ感。
画像を見ていつも思うのは、コンクリートの「厚さ」が伝わらないなぁ~ってことです。
写真集やウェブ上のどの写真からも、それは伝わってきません。
とにかく建物が「ぼってり」「どっしり」「ずっしり」の印象で、
これは現在の都市部の建物は勿論、歴史的な建物や、
RCむき出しということで、安藤忠雄氏の建築などと比べても、
全然違う印象です。
ジョサイアコンドル。
ちょっとwikiでみましたが、三菱の2代総統、岩崎弥之助邸を手がけていますね。
もしかしたら軍艦島も観てるんではないかと思いました。
ちなみに軍艦島の最初のRCアパートは別名グラバー邸と呼ばれていたそうです。
ご存知グラバー邸のグラバーですが、
アパートの建築にグラバーの連れて来た設計技師が関わっていたという話があるものの、
詳細はわからないそうです。
「軍艦島建築こそ現代集合住宅のル-ツと言えそうですね」
私もそう思うんですが、実際それほど取りざたされていないのが、
不思議に思います。
著名建築家の建物は、確かに綺麗だし凄いんですが、
高島平団地のような光景の方が、時代を象徴する光景ではあると思います。
> あれ、もしかして教育大光学研究所(陸科研の一棟)のことかなあ?
> 煉瓦色の2階建てでした。
「完膚なきまでに破壊されていたレンガ廃墟」は、ご指摘の光学研究所のレンガ物件よりも、さらに東側の空き地部分にぽつりとあったものでした…。
破壊がひどくてすでにほとんど建物としての体裁をなしていませんでした。
写真がうちにあるはずなのですが…。
私もちょっと探してみたいと思います。
なお、ご指摘の光学研究所の建物は昭和53年の筑波大移転までは使われていた模様で、病院建築のために取り壊しが始まる直前までかなり綺麗(?)な状態の廃墟だったように覚えております。
ちなみに光学研究所のレンガ建物とは、この写真のものですよね?
http://www.jasco.co.jp/Japanese/company-inf/history/
https://nihonkoken.co.jp/company/history.html
そういわれると白黒の写真にそういう感じを受けます。
軍艦島特有の建築基準があったのかもしれませんね。
第一生命館や、旧証券取引所、旧明大本館等に感じられたややゲルマニア系(シュペ-アイズムと勝手によんでますが)的な雰囲気に、ずっしり、どっしり感を感じた記憶がありますが、確かに写真ではつたわりにくく、カラ-写真ではほとんどだめですね。
ただ、それらもぼってり感まではなかったように思います。
意匠的表現ではぼってり感は出ないんでしょう。
明らかに素材感で、使われているコンクリの量が多いのかもしれませんね。
なにしろ、カ-ボンマネ-にあかせて、ふんだんにコンクリ-トが使えたのかも。
ジョサイアコンドルといえば、辰野金吾、曽根達蔵等明治の建築家たちを育てた人物として知られているようですが、どうも古典的な様式建築を好み本国では仕事がなく、日本に出稼ぎにきたようなことでもあるようで、うそか本当か本人は日本画家になることを真剣に考えたこともあるという変り種らしいですね。
三菱1号館、3号館他、現存品ではおっしゃるように岩崎邸、古河邸、ニコライ堂等を手がけています。
三菱系の建物を多く手がけており、おっしゃるように軍艦島も見ている可能性もあるかも知れません。
ただ、彼はSRCはてがけなかったようです。
古典派の若き英人建築家は、案外祖国の文明一点張りの姿を憂いていたふしがあり、そういう意味では漱石が英国で感じたようなことを、コンドルが日本の軍艦島に感じたとすれば面白いことであり、それはそれで軍艦島の文明的新しさの証明のような気もします。グラバ-が連れて行った外人建築家、コンドルだったら面白いですね。
はにわじい様のコメント誘導ありがとうございました。
コメントいたします。
空中写真、すばらしいですね。
豊多磨病院の特殊な形を再度実感しますが、上から見るとお茶の水の旧明大本館、似てますね、ぐちゃっ!と群れた感じが。
狭い中庭が甲板みたいだったのを思い出します。
軍艦みたいな雰囲気の建物でした。あくまで外観の雰囲気がですが。
旧明大本館は実際に見た事がありますが、
アナログさんもおっしゃるように、
軍艦島のRC建築に比べると、装飾的かつ軽やかな印象です。
(あくまでも比較ですが)
もっと無骨でもっと荒削りで、何というか、
コンクリの塊、という感じです。
> 使われているコンクリの量が多いのかもしれません
だと思います。
ジョサイアコンドル:
三菱1号館、3号館なども手掛けているのですね。
> グラバ-が連れて行った外人建築家、コンドルだったら面白いですね。
面白いと思います。
ちなみに上記コメントで、30号棟のことを「グラバー邸」と書きましたが、
「グラバーハウス」の間違いです。
「グラバー邸」はあくまでも、長崎市内の大浦天主堂の上にある、あれだけですね。
危険といっても、テロがあるわけではないし、大地震がおこれば新宿都庁辺のほうがよほど危険かもしれません。
日本の炭鉱はいつごろから始まったのかを知りませんが、銀山とか銅山とかなら近代よりも遥か昔からあったわけで、日本における坑道技術は独自のものがあったものと思われます。それを明治以降に全て捨て去って欧米のまねをするほど日本人は馬鹿でないと思います。近代以前からの技術の蓄積が軍艦島に十二分に投じられていたに違いないと思います。
5階以上の木造建築は、明治以前に温泉宿等にけっこうあったという説を最近聞きました。まあ現物も写真もないけれども本当らしい。
地形をうまく利用して、岩盤によりかかったような構造にしたりするなどの工夫もあったようです。
日本の木造建築、とくに近代以前のものには信じられないようなものが数多くあったようですよ。
14号棟が木造ということに驚くのは、近代史ぼけのようなものですね。けっして日本の技術というものは欧米の真似が主流ではないと感じました。
耐震
RCの場合、低層の2階建てにして基礎は4階相当のものにするというやりかたが、震災復興初期にあったようです。百人町の旧都立衛生研究所(旧陸科研)、戸山の旧陸軍郡医学校防疫研究室(実は731部隊、100部隊等の研究本部)が、2階建ての大型ですが安っぽい感じの建物でしたが、取り壊した時に4階相当の基礎が出てきたそうです。言わずとしれた豊多磨病院も同様と思います。(先日それらしきものを見たことはお話しましたが、どうもしもびなくて写真を撮り損ねました。)
どうやら内容の危険な建物はこの方式がおおかったように思います。電話局や変電所等にも同様の傾向があったみたいです。お金と資材を節約して堅牢化を図る工夫のようです。
お金と資材がふんだんに使える状況で、大規模にしなければならないという稀な状況が軍艦島だったのかも。
ぼってり、どっしり、ずっしり感をぜひこの目で見てみたいです。
は昔からあったんですね。
そう考えると、軍艦島の「金には糸目はつけねぇ」的な発想は、
やはり特殊事例のような気がします。
軍艦島を実際にご覧になることにご興味がありましたら、
メイルを頂ければと思います。
ruinsdiary@mail.goo.ne.jp
ご紹介頂いた元町公園の見学に先日行ってまいりましたので、
近々アップできればと思っています。
また豊多摩病院跡地ですが、どうやら現在発掘調査が行われているようです。
縄文から弥生にかけての住居跡が見つかっているそうですが、
現場の人に話をきいたところ、
豊多摩病院および看護学校の基礎工事の際に、
そうとうダメージを与えてしまったようです。
私は都立新宿看護専門学校の最後の学生でした。寮に住んでおりました。
歴史などちょっと興味のあった私は、学校の図書室にあった「地図」が気になり当時自分なりに調べておりました。学校の前身(土地だけですが)の豊多摩病院のことです。
古地図だったと思うのです。あのあたりので、中央位に「豊玉病院」と記載してあり、額に入れられ壁に飾ってありました。豊玉病院と書いてあったような記憶がありますが、正式名称は「豊多摩病院」ならば地図上略してあったのかと。
古い教員に尋ねると「ここは病院跡だった」と教えてもらい、用務員にその職員だった方があって記念誌のようなものを貸していただいたのです。たぶん病院が閉院になる際に発行された記念誌だったかと思います。なつかしく思い出します。
その冊子には何点か写真が掲載してありそのいくつかは、ここに紹介されていたものと同じだったと思います。私が卒業したのはもう20年以上前で、現在もこうやってネットで見ることができることに感激しています。
閉校後、都庁が新宿移転する間の何かの借り庁舎で使用されたのは知っていました。寮は早くに建て替えられたのも知っていましたが、もう出向くこともなく、現在立替えのための発掘調査などしているらしいのはしりませんでした。近所の戸山辺りで人骨が出たりしているので、何がしか出てくるかもしれませんね。
学校は豊多摩病院をほうふつさせるものは全くなく、昭和のごくありきたりな学校の建物でした。校舎を出ると渡り廊下があり、体育館とテニスコート2つ分程度の校庭、そして図書館、寮がありました。
体育館は学生当時、地区の選挙投票場として使われていました。ひょっとしたら最近まで使っていたのかもしれませんね。
寮は6階建で2人部屋、廊下を挟んで両側のズラッと並ぶ作りで、相当な人数を収容できそうでしたが、入学時から全寮制ではなかったので1学年50名位の人数で生活していました。空き部屋が多く(使わないフロアが何階かあった)、幽霊話はあったと思います。
学校の焼却施設は学校側の小滝橋側の三角地にありましたが、病院時代の霊安室は寮の裏門といっていたところ(柏木公園側)にあったのですね~。色々懐かしく思い出させていただきました。
みなさん豊多摩病院時代のお話はされますが、
看護学校時代のお話は聞いた事がなかったので、新鮮です。
実際記事にアップしているのも、
看護学校時代の建物ですしね。
土地名の豊多摩は、かつて豊玉と表記されていたんで、
豊玉病院でもいいんじゃなかと思います。
その後の発掘調査をしている時に、一度見た事がありますが、
軍医学校のように戦中のためのものではなく、
弥生時代とかの遺跡の発掘だったと思います。
「病院のその後」として、
発掘調査のこともいずれアップしようと思っていました。
グーグルアースでは学校の建物はまだありますが、別のサイトでは壊されている上空画像があったので、発掘調査はされているのでしょうね。でもさすが、公営の土地ですね。あんな一等地でも放置されていたとは!
今思うに、学校の敷地としてはそんなに広くはないので、多少四方を道路などでカットされたとしても豊多摩病院はいまでいう大病院ではない広さですね。後方の病室などとても狭いものだったのではないでしょうか? それを思うと今の患者さんた部屋は狭いの熱いの寒いのと文句言い過ぎな気がします(愚痴)。
学生当時、もっと街歩きなどすればよかったのですが、勉強とバイトと遊びで忙しく、お金のなかったし、散歩などする余裕がなかったことが悔やまれます。でも戸山の給水塔は知っていますよ。戸山団地の侘しい感じも当時すでにありました。
新宿看護学校は都の看護婦不足解消の養成施設として付属病院なしの珍しい学校でした。大久保病院では実習はできず(あそこは医師会の学校が実習に使っていた)墨東病院まで通っていました。1学年140名定数の看護学校としてはマンモス学校でした。授業料無料交通費支給制服貸与等恵まれた環境でした。そんな金食い学校は閉鎖の追い込まれるのは仕方なく、私達が最終募集学生で翌年開校された都立医療短大(荒川区)にやはり都立の放射線学校、リハビリ学校とともに吸収合併されました。今は看護学校も大学教育に移行されつつあり、他の都立の学校も順次閉校になっているようです。
私たちの同窓会名は「柏木会」といいます。もっとも機能していませんが。
寮生は夜中、遊びに出掛けて門を越えて帰るところを「ヒラリ、門越え」などと当時写真誌にスクープされたこともあったり、寮の近くの銭湯で出産の介助をしたなど武勇伝もあるんですよ。なつかしいです。
もともと全然知らなかった豊多摩病院、
さらにはその後進の看護学校のことなどは詳しく知る由もなく、
こうしてお話を伺う事で、記事にアップした建物に、
命が宿って行くようです。
豊多摩病院のお話が、コメントの中で盛り上がったように、
看護学校時代のことをお知りになる方が、
この記事とコメントに気づかれて、
お話が弾むといいですね。
小さい頃から豊多摩病院の正体が気になっていて
今ようやく詳しい情報に辿り着きました。
つい先日、両親が経営する飲食店で
店の常連客の方と家族とで
豊多摩病院の話をしていました。
その時の話をまとめると、
病院は火葬場も兼ねていたそうで
毎日のように遺体を燃やしていたとのことです。
主に身体の弱い子供が燃やされていたそうです。
少しオカルトチックな話になってしまうのですが、
病院の隣に公務員住宅に住む方の話によれば
毎日のように子供の足だけが、自分の目の前を走っていくそうです。しかも何足も…
父は現在56歳で、今までこの記事にコメントしてきた方達と同年代です。豊多摩病院に入院していた過去もあります。
ちなみに父子、西戸山中出身です!
私に関しては、一年生の時は旧校舎、
二、三年生の時は仮校舎を使っていました。現在妹は新校舎に通っています。
小滝橋周辺は、何かと曰く付きの建物や場所が多いようですね、、
とても恐ろしいですが、機会があれば調べてみたいです。
最初はちょこっとアップした記事でしたが、
みなさんの書き込みで、とても凄い情報量の記事になってしまいました。
そしてしゃいにさんもまた、新しい情報をありがとうございます。
そうですか、火葬場も併設していたんですね。
小滝橋周辺は、かつて軍事施設が沢山あったので、
マイナスなイメージで捉えられがちですが、
江戸時代には大名の下屋敷があり、
歴史的には色々な時間が積み重なった、
とても興味深い場所だと思います。
コメントの中で、建物の堅牢性(4階建ての土台に2階建て)に関する記述がありましたが、豊玉病院を壊す時も、壁一つ壊すのに何回も鉄球を当てていたのを思い出しました。
この辺の建物を壊す時の東京都の常套句が”耐震性”なのですが、本当の耐震性はどうなんだろうと、調べてみました。
戸山アパートと同時期(後期)に建てられたアパート群が、たまたま神戸市に48棟あり(デザインも良く似ています)、阪神大震災後の状況がレポートになっていました。
4階建て:45棟(戸山アパートと同時期)
1棟のみが亀裂が入ったので、建て替え。
残り44棟は現在も健在です。
10階建て:3棟(高島平団地と同時期)
3棟全部が1階部分圧壊
現在、全て取り壊されています。
という事で、昔の建物の方が耐震性に余裕を持って建てられていた様です。聞いた話では、3倍の余裕を持って建てられていたそうで、関東大震災を考慮した結果だと思われます。
翻って、新しい耐震基準で建てられた10階建ては、阪神大震災を耐える事はできませんでした。1階部分が全て店舗だったので誰も居らず、被害者はほとんど出なかったのが不幸中の幸いでした。
少し前に、耐震偽装が問題となりましたが、逆の意味での耐震偽装(強度があるのに、無いとウソを言う)も横行しています。
”廃墟の方が耐震性がある。”これ以上の皮肉はありませんね...
ちなみに、特殊法人が出した件のレポート。PDFだったのですが、解像度が非常に悪く、解読するのに大変でした。読まれたくないのでしょうね...(笑)
最近では珍しいんではないかと思います。
東日本震災後、建物はやはり命を守る器だと思いました。
業者の方々も、その辺を理解して、取り組んで頂きたいものですね。
百人町にあった国立地震研究所の廃墟写真を偶然発見しました。遠い昔を想い出しました(T_T)
http://d.hatena.ne.jp/Pulin/20091224/1261581134
ほんと、ごぶさたでございます!
地震研究所の廃墟時代の写真!懐かしいです。
僕も写真はありませんが、道から見たのは覚えています。
最近は戸山界隈を訪れることもなくなってしまいましたが、
さらに変わってしまったんでしょうね。。。
また久しぶりに訪れてみたいです。
時が経つのも早いですね。
地震研究所の跡地は現在、百人町ふれあい公園
という芝生の広場です。
百人町3丁目の給水塔があったコーナーの
すぐ側ですね。
http://studioon.cocolog-nifty.com/blog/cat59184545/index.html
Google マップ
https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E7%94%BA%E3%81%B5%E3%82%8C%E3%81%82%E3%81%84%E5%85%AC%E5%9C%92/@35.7069702,139.6952244,19z/data=!4m2!3m1!1s0x60188d33d3ea81bb:0x14a5d4ef77c19009?hl=ja
一緒に行った大久保のガード横の店は、まだあるんでしょうかね。
北新宿~戸山はすっかり訪れなくなりましたが、
そういえば写真家の小林伸一郎さんって、
確かあの辺に事務所があったと思います。
http://sim.nilim.go.jp/Tsukuba/areas/10_4a/10_4a.htm
一番大きな写真は昭和21年なんで、戦後すぐの頃ですが、もうアパートがずら~っと完成してますね。また奥に見える塔は、その位置から第一給水塔だと思いますが、昭和21年に既に建設が行なわれていたのでしょうか。
写真を見る限りかなり完成に近いように見えますが、第一給水塔の竣工は昭和24年なので、少なくともこの状態から3年完成してないことになりますね。。。
地震研究所の玄関写真を見て、子供の頃の記憶が蘇りました。昭和42年頃、友達と3人、自転車で大通りから入ると、きれいな植え込みのある、真っ白な玄関がありました。午後3時頃だったので、誰もおらず、つまらなかったので、よく覚えています。(笑)
一方、地震研究所の裏側の実験室群には、よく入って遊んでいました。小さな実験室群は、塀がなく、公道から入れました。そこの、冷却水水槽とおぼしき所で、毎年おたまじゃくしを取ったのを、よく覚えています。
実は、今日まで、正面玄関も、実験室群も、何の組織かを全く知りませんでした。(正面玄関の方は、”建設省”と書いてあったのだけは覚えています。)
おかげで、記憶の糸が全て繋がりました。白い建物、壊されてしまったんですね...
蛇足ですが、地震研究所の隣の呉羽化学。自宅の戸山アパートから大久保駅に行く細い道すじにあったのですが、夜通ると、工場建屋内でスパークが明滅し、その光が、動く機械のシルエットを真っ暗な窓に映し出し、子供心に、とても怖い場所でした。昔の恐怖映画の定番です。(笑)
最近はめっきり戸山へ足を運ばなくなりましたが、きっといろいろと変わってしまったんでしょうね。
呉羽化学の、明滅する窓越しに写る機械のシルエットは、木枯らしに揺れる木のシルエットとともに、ホラー演出の定番ですね(笑)
今日、たまたまテレビ番組(テレ朝・スーパーJチャンネル)で戸山アパートが取り上げられており、昭和23年に入居した方が居ました。(給水塔の建設年からすると、最初の給水は棟ごとだったのかも知れません)
ところで、番組は、国立競技場の拡充で接収される霞ヶ丘アパートの住民のお話でした。(戸山アパートに全員移転)
できれば、撮影して頂きたいですが、今はお忙しいですよね...
以前書き込み頂いた内容を、かなり忘れてしまったもので、確認させて頂きたく思いました。
ちなみ私がブログ内で戸山アパートと表記しているものは、全て百人町アパートとして生まれ変わった、かつての戸山団地のことです。
また、霞ヶ丘アパートは、何度か撮影しておりますが、拙ブログにアップする「ノリ」とは少し違うと判断して、掲載しませんでした。
かろうじて「外苑マーケット」だけ、原宿団地の記事の一部でアップしています。
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/b6d2b4110bdb988efb379e8360de0ef4
私が住んでいたのは、現在の百人町にあった戸山アパートです。(豊多摩病院の近くの方です)
外苑マーケットの記事、ありましたね。あそこが霞ヶ丘アパートだったんですね。もう一度、拝見します。ありがとうございました。
百人町の方でよろしかったんですね!
了解しました。
霞ヶ丘は、だいぶ住民の方も減った様子ですが、
それでも、まだまだ住んでる方もいるようですね。
ずっと以前ですが、知人も住んでました。
まだ先になるとは思いますが、
いずれアップできればと思っています。