8月12日の日経に、『国立大「強化」の議論始動』と云うタイトルのコラムが在った。議論をする事は大事であり必要な事なので、一見良い事に聞こえるのだが、本文を読んでみると、まだまだ道のりが長い感がする。
本文の中に、大変気になる記述が複数あった。一つ目が、「法人化により自由な環境で大学の個性を発揮した教育研究が進むはずだったが、必ずしもそうならなかった」とある。そしてその後に、「関係者の共通認識の欠如」「国立大学法人の制度原理が曖昧」と記載されている。
先ず最初の”個性を発揮した教育研究”が大変気になる文言なのだが、そもそも大学とは”個性を発揮した教育研究”を目指す所なのだろうか?そして何をもって”個性を発揮した教育研究”と云うのだろうか?因みに、アメリカの主要大学には奇抜な名称の学部や学科は無いが、日本の大学には奇抜な名称の学部や学科が多く、一体何を教えているのか、想像しがたい場合が少なくない。これを”個性を発揮した教育研究”と勘違いしているのではないだろうか?
元々、日本人は個性豊かな民族だと思っている。その人達を自由に活動させれば、その個性は芽吹いてくる。しかし、大学で何を教えるのか分からない様な学部生向けの学部や学科を作る事が必要だとは到底思えない。その為、「関係者の共通認識の欠如」「国立大学法人の制度原理が曖昧」と云う言葉が重い意味を持つ。
個人的な想像を踏まえて述べるが、国立大学が法人化した目的は、お金の使い方の自由度を増し、そして当然お金の収集についても、自由に行える様にする事であったと理解している。この一番大事な事の共通認識なしに、”個性を発揮した教育研究”を考えても答えは出てこない。
日本の大企業は、アメリカの大学には共同研究などでせっせをお金を献金しているが。日本の大学への献金額は少ないと聞く。具体的な数値データは持ち合わせていないが、これはほぼ間違いない事実であろう。そしてアメリカの大学では多くの寄付金を集めている。実際、日本の大学の研究設備は大変貧弱であると云われている。その為、多くの優秀な研究者がアメリカに渡り、充実した研究設備を活用して、より良い研究を行っている。そうであれば、この問題点の原因究明と、その解決策の検討と実施が、法人化を今後成功させる為のカギとなるバズである。この点を議論し改善しない限り、日本の大学の将来は暗いのだが...。
もう一つ大事な事として、大学の立地に関する理念・哲学が日本人の中で一致できるかどうかである。アメリカやイギリスなどのアングロサクソン系の国民は、高等教育は自然環境の中で行うベキと考えている。その為、両国の有名だ大学の殆どは、郊外の自然に囲まれた地域に広大なキャンパスを持っている。郊外と云うよりはかなり田舎なので、新たな建物などを作る場所も豊富にあり、大学が拡張し続けている。その点、日本人が目指したい方向は何処なのだろうか?
勉学に励む大事な時期に、都会の喧噪から離れて自然に囲まれた環境で人間性を高めていく事は大変大事である。特に都会の誘惑から離れて、勉学に集中する事は大変良い事である。都会での遊びは何時でも学べるが、勉強はこの年齢しか出来ないし、適している。しかし、日本人の考えは、一体どうなんだろうか?これについては、確固たる理念や哲学が無い為に、大人の都合で利便性の高い大都市に集中している。幕末から明治に掛けて、様々な有志が海外で学んできたが、この文化を取り入れた人は居ない。もしその時期に、早稲田や慶応、または東大等の国立大学を田舎に作っていたら、今の日本の大学のあり方は大きく変わっていただろう。
本文の中に、大変気になる記述が複数あった。一つ目が、「法人化により自由な環境で大学の個性を発揮した教育研究が進むはずだったが、必ずしもそうならなかった」とある。そしてその後に、「関係者の共通認識の欠如」「国立大学法人の制度原理が曖昧」と記載されている。
先ず最初の”個性を発揮した教育研究”が大変気になる文言なのだが、そもそも大学とは”個性を発揮した教育研究”を目指す所なのだろうか?そして何をもって”個性を発揮した教育研究”と云うのだろうか?因みに、アメリカの主要大学には奇抜な名称の学部や学科は無いが、日本の大学には奇抜な名称の学部や学科が多く、一体何を教えているのか、想像しがたい場合が少なくない。これを”個性を発揮した教育研究”と勘違いしているのではないだろうか?
元々、日本人は個性豊かな民族だと思っている。その人達を自由に活動させれば、その個性は芽吹いてくる。しかし、大学で何を教えるのか分からない様な学部生向けの学部や学科を作る事が必要だとは到底思えない。その為、「関係者の共通認識の欠如」「国立大学法人の制度原理が曖昧」と云う言葉が重い意味を持つ。
個人的な想像を踏まえて述べるが、国立大学が法人化した目的は、お金の使い方の自由度を増し、そして当然お金の収集についても、自由に行える様にする事であったと理解している。この一番大事な事の共通認識なしに、”個性を発揮した教育研究”を考えても答えは出てこない。
日本の大企業は、アメリカの大学には共同研究などでせっせをお金を献金しているが。日本の大学への献金額は少ないと聞く。具体的な数値データは持ち合わせていないが、これはほぼ間違いない事実であろう。そしてアメリカの大学では多くの寄付金を集めている。実際、日本の大学の研究設備は大変貧弱であると云われている。その為、多くの優秀な研究者がアメリカに渡り、充実した研究設備を活用して、より良い研究を行っている。そうであれば、この問題点の原因究明と、その解決策の検討と実施が、法人化を今後成功させる為のカギとなるバズである。この点を議論し改善しない限り、日本の大学の将来は暗いのだが...。
もう一つ大事な事として、大学の立地に関する理念・哲学が日本人の中で一致できるかどうかである。アメリカやイギリスなどのアングロサクソン系の国民は、高等教育は自然環境の中で行うベキと考えている。その為、両国の有名だ大学の殆どは、郊外の自然に囲まれた地域に広大なキャンパスを持っている。郊外と云うよりはかなり田舎なので、新たな建物などを作る場所も豊富にあり、大学が拡張し続けている。その点、日本人が目指したい方向は何処なのだろうか?
勉学に励む大事な時期に、都会の喧噪から離れて自然に囲まれた環境で人間性を高めていく事は大変大事である。特に都会の誘惑から離れて、勉学に集中する事は大変良い事である。都会での遊びは何時でも学べるが、勉強はこの年齢しか出来ないし、適している。しかし、日本人の考えは、一体どうなんだろうか?これについては、確固たる理念や哲学が無い為に、大人の都合で利便性の高い大都市に集中している。幕末から明治に掛けて、様々な有志が海外で学んできたが、この文化を取り入れた人は居ない。もしその時期に、早稲田や慶応、または東大等の国立大学を田舎に作っていたら、今の日本の大学のあり方は大きく変わっていただろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます