★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
           毎週金曜日更新

第616回 周到な江戸遷都大作戦

2025-02-21 | エッセイ
 幕末、薩長を中心とした倒幕勢力にとっては、遷都が大きな課題でした。京に都を置いたままでは、古いしがらみが抜けず、自分たちが主導権を取れません。そこで、とりあえず大坂(当時の表記)への遷都がほぼ決まっていました。それが、江戸へ、となったいきさつを以前記事にしました(文末にリンクを貼っています)。それから少しあと、NHKの「歴史探偵」という番組が江戸遷都を、たまたま取り上げたのです(2022年10月26日放映)。それを見て、江戸遷都という大作戦を、明治政府がいかに周到、巧妙に実行したかを知り、ひときわ興味を惹かれました。番組内容に沿ってご案内します。最後までよろしくお付き合いください。

 江戸遷都のためには、天皇に江戸に住まい続けていただく必要があるのですが、これが実に大変なのです。14世紀以来、天皇は、ずっと御所住まいで、外出は極めて稀です。そのことを指す「行幸(ぎょうこう)」という専用の言葉があるくらいですから。
 そこで明治政府が考えたのは、二段構えで、江戸への行幸を実施するというものでした。まずは1回目の行幸です。宮廷を納得、安心させるために持ち出した前例が、文久3(1863)年に行われた上賀茂神社への攘夷祈願の行幸で、それは、なんと237年ぶりでした。
 今回の行幸は、「苦しんでいる東日本を救うため」(番組から)が目的とされ、明治元(1868)年9月20日、天皇の乗った鳳輦(ほうれん)は、3300名の従者を引き連れ、東海道で江戸に向かいました。そこには、ただの移動にはさせない大久保利通を中心とした政府の戦略がありました。
 「外国では君主が国中を歩き、国民を撫育する」(番組から)という知識が、大久保にはありました。なので、今回の行幸では、天皇にできるだけ人々と触れ合ってもらって、親しみを持ってもらおうと画策したのです。現に、名古屋の熱田では、天皇は稲刈りをご覧になり、農民にお菓子を配っています。また、神奈川の大磯では、地引網漁を見学されました。その時には、フンドシ1枚の漁師が獲れた魚を直接天皇に差し出す、という(政府には嬉しい)ハプニングもありました。

 そして、同年10月13日、いよいよ江戸城入りです。行幸出発の4か月前には、上野で新政府軍と彰義隊との激戦(上野戦争)があったばかりです。新政府に反発を抱く人々もおり、はたして江戸で天皇が歓迎されるか、明治政府も不安を抱えていました。
 そこで打った手が、江戸の人々に酒を振る舞う、というものでした。京都から持って来た2斗2升入り7樽分の酒(「天酒」と呼ばれます)を、3000樽に分けて、江戸の人々に振る舞ったのです。その様子を描いた錦絵です。

 味も、有り難みもだいぶ薄れていたと思うのですが、人たちは大喜びで、飲んで騒いだといいます。約2か月滞在し、12月には京都に戻られ(還幸)ました。こうして、第1回目の行幸は大成功に終わりました。行ったきりになるのでは、と心配していた京の人たちも、ひとますホッとしたことでしょう。京都の各町内には、菊の御紋入りの「御土器(おんかわらけ)」ー皿を贈るなど、人々への対策も抜かりはありませんでした。

 そんな気分が抜けやらぬ翌明治2年正月、二度目の江戸行幸が発表されました。今回は、皇后、太政官を帯同しての行幸です。これはいよいよ江戸へ都が移ると感じた京の人々は、寺社などへ押しかけ行幸反対の声を上げます。あわてた政府が引っ張り出したのが、すっかり政府に取り込まれていた元公家の岩倉具視です。「岩倉公実記」という彼の一代記には、その時、京の人々に向けて発したメッセージが記録されています。
 「(江戸行幸を)「遷都をするかのように思っているものも少なからずいる」が「決して江戸に遷都してこの都府(京都)を廃されることは万々これなきはずなり」(番組から要約)
 どれほど効果があったのかはわかりませんが、予定通り行幸は実施され、同年3月28日、江戸城改め東京城に入城しました。江戸入りを伝える錦絵(番組から)です。

 それ以来、天皇は代々、皇居にお住まいで、天皇による遷都の宣旨とか、定めた法律はなく、東京は「事実上の」首都として機能してきました。

 番組の終わりで、代々、京都に残って商売を続けている商家の主人の一言が紹介されました。「天皇は ちょっと出かけてきます言うて行かはったんでしょ。いつ帰って来はってもええようにしっかり留守番しています」ヒネリの効いた、いかにも京都人らしい言葉です。

 いかがでしたか?関西出身で、東京での便利な生活を楽しんでいる身には、ちょっぴり複雑な思いもあります。でも、大事を起こすに当たっての周到さ、戦略性、そして人心収攬に長けた明治の政治家のスゴさをあらためて思い知りました。なお、冒頭でご紹介した記事は、<第450回 投書が決めた江戸遷都>です。是非とも合わせてご覧ください。それでは次回をお楽しみに。

第615回 超人的脱出マジックの話

2025-02-14 | エッセイ
 中高生の頃、初代・引田天功(1934ー79)のカードやコインを使ったテーブルマジックをテレビで楽しんでいました。やがて、大掛かりな「脱出」マジックを手掛けるようになりました。ロープとか鎖でぐるぐる巻きにされて、ジェットコースターやら、時限爆薬が仕掛けられた火煙塔などからの脱出を、ハラハラ、ドキドキ(そして、ちょっとワクワク)見たものです。ある時、日頃の訓練ぶりや、脱出劇の準備の様子が放映されました。ロープを巻き付けたり、錠を掛けるのは彼のスタッフ達です。目の前でポイと鍵を捨てたりするのですが、合鍵の隠し所がポイントかな、などと舞台裏を垣間見た気分でした。それでも、危険な技に挑むための日頃の修練、肉体の鍛錬ぶりには、さすがプロ、と感心したものです。
 そんなことを思い出したのは、寺山修司(演劇集団「天井桟敷」主宰者、詩人)の「不思議図書館」(角川文庫)が、魔術師ハリー・フーディーニの超人的な脱出芸を取り上げていたからです。本書に拠り、もっぱら大道で披露していたワザのスゴさと、彼の人生をご紹介することにしました。最後までよろしくお付き合い下さい。

 まずは、ワザの数々です。
 ある時、フーディーニは、警察官立ち合いのもとで、全裸で手首、足首を縛られ身動きできないようにされました。でも、わずか8分で抜け出して、観衆の度肝を抜きました。その鮮やかな手口から人々は彼を「エスケープ・アーティスト(脱出芸術家)」と呼んだほどです。
 ロンドンでは、彼を縛りたいという申し出が殺到し、絶対逃げ出せない拘束衣を考案したという男や、彼のために特製の檻を作ったと称する職人までが現れました。しかし、どんな拘束状況からも見事に脱出してみせたのです。そして、ますます難易度の高いワザに挑みます。こんな写真が残っています(同書から)

 1906年の冬、アメリカ巡業の折、彼は2個の手枷をつけたまま、デトロイトの橋の上から、氷のように冷たい川に飛び込みました。そして、指がかじかんで動かなくなるより早く、ほんの数秒で手枷から脱出してみせました。また、ニューヨークでは、手を縛らせ、200ポンド(約90キロ)のおもり付きの箱で川底に沈められました。「「こんどばかりは、フーディーニも絶体絶命さ」と言われたが、やはり、いつのまにか脱出して、川をのぞきこんでいる群衆の中にまじって、まわりの野次馬たちをアッといわせたものである。」(同前)
 こうなると真似する連中が出没し、フーディーニのワザは益々エスカレートします。弾頭がセットされた大砲の砲口に縛り付けられ、20分用の導火線に火がつけられました。失敗すれば木っ端微塵のところ、見事13分で脱出し、数千人の観衆に投げキッスをしたといいます。また、15分後に列車が通過する線路に縛り付けられ、ギリギリ間一髪で脱出する芸にまで挑戦しました。

 フーディーニをここまで突き動かしたものは何だったのか?寺山は、彼の人生、脱出を芸としたきっかけなどへと筆を進めます。
 フーディーニの出自は、その脱出ワザと同じく謎に包まれています。本人は、アメリカ生まれのアメリカ人と称していました。でも、フーディーニの最初の伝記を書いたウィリアム・グレシャムの調査によると、1874年に、ハンガリーのブダペストの貧しい家庭で生まれています。父親が殺人犯であり、一族がユダヤ人であったことから、出自を偽っていたのだろうと言われています。
 彼が「脱出」のアイディアを得たきっかけはカナダの精神病院であった、と寺山は別の伝記(「フーディーニの時代」(ダグ・ヘニング))を引用しています。
 「カナダの地方巡業で知り合ったスディヴ博士に病院内を案内されたフーディーニは、壁に詰め物をした病室に導かれ、弾力のある床に横たわっている拘束着の患者が自由になろうとして、七転八倒しているのを見た。フーディーニは、その患者のことが、いつまでも忘れられなかった。拘束着、精神病、詰め物をした病室ーーそして、ふいにそこから抜け出していく患者の悪夢」(同前)

 それにしても、、、と私などは考えます。アイディアは、精神病院で得たとしても、それを、芸として完成させるための人並み外れた努力、工夫へと駆り立てたものは何だったのだろうかと。
 寺山は、文芸評論家エドモンド・ウィルソンがフーディーニについて書いた「ある種の人間の能力が、彼自身の肉体の限界を超えるときの奇蹟」を引用した上で、「等身大の人間たちの日常的な現実を異化して見せることによって、フーディーニは「超人」たろうとしつづけた、という訳だ」を引用して、一文を締めくくっています。

 いかがでしたか?彼の人生を理解するには、「超人」がキーワードだと気付きました。暗い出自を、自分の肉体と知恵と工夫で振り払って、常人が到達できない世界を目指すのが、彼の生き方だったのですね。でも彼は、日々の現実には裏切られ続け、一生貧乏暮らしに明け暮れました。貧しい生活からの「脱出」はならなかった、というのが皮肉で、ちょっぴり哀しいです。
 それでは次回をお楽しみに。

第614回 切り裂きジャック事件余聞

2025-02-07 | エッセイ
 犯人探しではありません。犯罪史上に類のない連続殺人事件の犯人を逮捕する決定的なチャンスが2回あった、というのを知って、思わず身を乗り出した、という話題です。「牧逸馬の世界怪奇実話」(島田荘司・編 光文社文庫)所収の「切り裂きジャック」からお届けします。是非最後までお付き合いください。

 前段として、事件のあらましに、簡単に触れておきます。
 事件の現場は、ロンドンのイーストサイドと呼ばれる地区です。貧しい人々が密集して暮らし、治安が悪く、夜にはわずかな稼ぎを求めて体を売る女性たちが多く出没していました。
 最初の被害者が出たのは、1888年8月で、それから3ヶ月のうちに殺害された5人の女性はすべて街娼で、のちに「切り裂きジャック」と呼ばれることになる男の犯行が確実だとされています。この通称は、犯人を名乗る男が、警察宛の犯行声明で使用した名前に由来します。
 犯行の手口は、殺害した女性の肉体を切り裂き、内臓を取り出して奪う、などという残虐極まりないものでした。
 犯人は左利きで、ある程度の医学知識を持っていたことは確実だ、というのが死体を検分した警察医の推定です。また、現場から逃げる犯人の目撃証言などから、背が高く、細身で、帽子をかぶり、丈長の真っ黒なコートを身につけている、との犯人像も浮かび上がっていました。当時のイラストレイテッド・ロンドン・ニュース紙の挿絵で、犯人とおぼしき男(左)と自警団員です。

 ロンドン警視庁も威信をかけて、全力で捜査をします。犯行直後の現場に、警官がたまたま通りかかったケースもありましたが、混乱にまぎれて取り逃がしていました。

 それでは本題に入ります。まずは、最初のチャンスです。
 一連の事件がロンドン中を震撼させる中、実は、ロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)は、ロシア政府からある情報を得ていました。それは、数年前、モスクワで今回と同じ手口の事件が頻発し、犯人として逮捕された男についてのものです。被害者はいずれも街娼で、切開手術のような暴虐が加えられていました。男は精神病者と判明し、病院に収容されていましたが、その年の春、脱走し、行方不明になっているというのです。相当優秀な外科医で、英国留学の経験もあるので、ロンドンへ潜入している可能性がある、というので人相書も送られてきていました。この男が、ロンドンの事件の犯人との断定はできないものの、極めて有力な情報であったことは間違いありません。人相書も含めて、捜査に当たる警察官に情報が行き渡っていれば、巡回、尋問などで容疑者と接触する機会は十分にあったはずです。でも、残念ながら情報は活かされませんでした。

 さて、これぞ本当に決定的なチャンスだった、というハイライト部分に話を進めます。
 なんと、犯人はたった一度だけ、一人の人間にじっくり顔を見られ、言葉まで交わしていました。逮捕寸前まで至った経過です。
 イーストサイド地区のバーナー街44番地に、マシュー・パッカーという男が営む小さな果物屋がありました。狭い土間の空間は果物だらけなので、客は入れません。そこで、表の戸を閉め切り、開けた小さな窓から接客や商品の受け渡しをしていました。
 9月30日、土曜日の深夜11時半頃のことです。店じまいをしようとしていたところへ、窓のむこうに男女2人が立ちました。女は店主も顔見知りのエリザベス・ストライドで、なうての不良少女でしたから、男は「客」に違いありません。店主は、その男の印象的な風貌、服装を後日、逐一警察に申し立てています。それによれば、年齢30歳前後、身長5フィート7インチ、肩幅広く、敏捷な顔つきだったといいます。長い黒い外套に焦茶色のフェルト帽をかぶっていました。男は、きびきびした横柄な早口でこう言いました。「おい。そこの葡萄を半ポンドくれ。3ペンスだな」(同前)

 2人が店の近くの社会党倶楽部の構内に消えていくのが目撃されて、20分経つか経たないうちに、その中庭でエリザベスの惨殺死体が発見されました。かたわらにはパッカーが売った葡萄の紙袋と葡萄の種や皮が散乱していました。男が彼女と談笑して商取引が終了後、犯行に及んだことは明らかです。5人とされる被害者の3人目でした。これだけ犯人がじっくり目撃されたのですから、捜査上の大きな進展には違いありません。そして、パッカー自身が関わる最も決定的な瞬間が訪れます。
 10月2日といいますから、事件から2日しか経っていない月曜日の正午頃のことです。パッカーは、あの夜の男が店の前を通行しているのを認めました。目に焼き付いた映像と、異様に長い黒の外套に見誤りはありません。白昼です。大声をあげて近隣の住民や通行人に協力を求めて取り押さえ、警察に通報することは簡単にできるはずでした。でも、彼はできませんでした。のちに警察の係官に、その男と目が合った時のことを陳述しています。「それは何事か脅かすような、じつに気味の悪い目つきでした。正直に申しますと、わたしは、はっと不意に打たれて、意気地がないようですが、あまりにびっくりしてどうにも足が動きませんでした」(同前)というのです。悪運の強い犯人は、決定的なチャンスを逃れ、時の流れの闇に消えていきました。

 いかがでしたか?う~ん、果物屋のオヤジさんにあと一歩の勇気があればねぇ。それでは次回をお楽しみに。

第613回 クイズで笑おう英語名文-2英語弁講座46

2025-01-31 | エッセイ
 続編をお届けします(文末に前回分へのリンクを貼っています)。クイズ形式で、英語の名言、迷言、ジョークをお楽しみいただこうという趣向です。「ひらめき!英語迷言教室」(右田邦雄 岩波ジュニア新書)をネタ元に、平易な英語の短文で、しっかり和訳も付けています。気軽に、推理力、ユーモアセンスなどをお試しください。なお、続編ですので、第8問からになります。

★第8問
" An archaeologist is the best husband a woman can have. The (   )she gets,
the more interest he takes in her. "
(考古学者は最善の夫である。妻が(   )になるほど、夫が興味を持つから。)
イギリスの推理作家アガサ・クリスティーの言葉です。

<答え>(  )内に入る言葉はほぼ想像が付きますね。" older "(歳をとるほど)です。アガサの夫は考古学者でしたから、一層笑えます。

★第9問
" An American believes more than anything else in the last four letters of that title.(   )
(アメリカ人は、何よりも<そのタイトルの最後の4文字>に信頼を置いている)
さて、その4文字とは? 
<答え>"American" の最後の4文字が、” i can’ " (私はできる)というオチで、いかにもアメリカン・ジョーク。4文字(four letter words)でアブない言葉を連想しませんでしたか?

★第10問
" Don't worry, if plan A doesn't work, there are 25 more letters in the (  ). "
(心配するな。もしプランAがダメでも、(  )には、まだ25文字もあるから)
<答え>プランA、プランB などという言い方もかなり日本語に入ってきました。常に代替案を用意しておきなさい、という教訓です。Aがダメなら、B,、それもダメならC・・・・というわけで、(  )に入るのは、” alphabet ”(アルファベット)です。

★第11問
”I changed my password everywhere to (         ).  That way when I forget it, it always
reminds me , "Your password is incorrect."
(すべてのところでのパスワードを(   )に変えたんだ。そうしておくと、忘れても、「あなたのパスワードは間違ってる」と教えてくれるから)
さあ、この万能のパスワードって、どんなのでしょう?
<答え>" incorrect ” です。間違って入力しても、あなたのパスワードは、" incorrect ”
だと、誤りの指摘ではなく、パスワードそのものを教えてくれる、というワケです。

★第12問
"  There are (   )kinds of people in this world;
those who can count and those who can't. "
(世の中には(  )種類の人間がいる。countできる人とそうでない人と)
(  )内に入る数字を当ててください。
<答え>「2種類」じゃないんですね。”count ” には「数える」のほかに「(人などを)頼りにする」との意味があります。各々ができる、できないから、正解は「4」です。

★第13問
”I don't know who my grandfather was, I am much more concerned to know 
what his (    )will be. ”
(私の祖父が誰かは知らない。彼の(  )が、どんな人物になるかに重大な関心がある)
リンカーン大統領の言葉です。
<答え>(   )に入るのは、grandson(孫)、つまりリンカーン自身のことなんですね。先祖、家柄などに関係なく、自分がどんな人物になるかが重要だ、との決意表明です。
"Will be "と未来形で、目は将来を見つめています。

★第14問
The optimist sees the whole; pessimist sees the hole.
(楽観主義者は全体を見る。悲観主義者は穴を見る)
これって何の話でしょう。wholeとholeで韻を踏んでるのがシャレてますが・・・
<答え>ドーナッツのことなんですね、穴に注目して、損した気分になってる悲観主義者を笑いのめすオチです。

 出来のほどはいかがでしたか?なお、前回へのリンクは、<第594回>です。是非お立ち寄りください。それでは次回をお楽しみに。

第612回 ブラジルー2つの謎話

2025-01-24 | エッセイ
 ブラジルは、日本からだと地球の裏側にあたる遠い国です。でも、サッカーの強豪ですし、サンバ・カーニバルの熱狂ぶりには(テレビで見るだけですが)圧倒されます。また、長年の移民によって日系の人々も多く、親しみを感じます。今回取り上げます「ハゲとビキニとサンバの国」(井上章一 新潮新書)の著者は、京都出身の建築学者、風俗史家です。ブラジルに、計5回、延べ4ヶ月滞在した経験も踏まえたあれこれを、タイトル通りの軽いノリで綴っています。ちょっと大げさかも知れませんが、「謎」をキーワードに2つの話題をご紹介します。どうぞお気楽に最後までお付き合いください。

★ボボ・ブラジルの謎★
 1960年代、プロレスは絶大な人気を誇るスポーツでした。力道山、ジャイアント馬場などの活躍を、テレビで、手に汗を握りながらご覧になった中高年の方は(私も含めて)多いはず。ルー・テーズとかミル・マスカラスほどの華やかさはないものの、たびたび来日し、愛嬌のある悪役(ヒール)ぶりで結構人気があったのが、ボボ・ブラジルです。同書からの画像です。

 で、著者がまず取り上げるのは、ファーストネーム(?)の「ボボ」です。「わざわざ活字にするのは、やや気もひける。しかし、心を鬼にして書ききろう。」(同書から)と「決意して」書いています。私も「心を鬼にして」その決意を共有しました。
 それは、「ぼぼ」というのが、山口から九州あたりの方言で、女性の大切な部分を指す言葉に通じる、ということです。博多の会場では、男たちが堂々と「ぼぼ」コールを送っていたといいます。さぞ、日頃のウサも晴れたことでしょう。九州のある会場では、別の名前でリングに上がったとも伝えられます。「きっと教育委員会あたりがねじ込んだに違いない」などと酒の席の話題として、盛り上がったことだろうと著者は想像しています。
 著者が、日本びいきのブラジル人と、ボボ・ブラジルを話題にした時のことです。その名前を出した瞬間に、そのブラジル人は不快感をあらわにしました。ブラジルの公用語であるポルトガル語で、「ボボ=bobo」というのは、「馬鹿」とか「うすのろ」を意味するからです。名付けたのは、アメリカのマット界です。アメリカ・ミシガン州出身である彼に、あえて「ブラジル」と南米の国名を冠したことと合わせ、「そのいやらしさ、むごさに、われわれは想いをよせたことがあるだろうか。ブラジル人がいだくだろうせつなさを、少しでも考えたことがあるか」(同)との著者の厳しい言葉が胸に刺さりました。

★選挙投票率100%の謎★
 ブラジルをはじめ南米の国々では、ラテンの血が騒ぐのでしょうか、冒頭でも触れましたカーニバルなどの祭りは熱く盛り上がります。だから、というわけでもないのですが、政治への関心は低そうに見えます。ところが、本書によれば、ブラジルの選挙投票率はほぼ100%だというのです。もちろん、いくつかの「仕掛け」があります。
 まず、投票をしない人は罰せられます。2~3千円程度の罰金を納めなければなりません。投票日に用事があって選挙に行けない人は、行けない理由を書いた書類を事前に役所に提出しないと罰金が課せられます。それなら投票所に足を運ぼうか、という気にさせられるわけです。
 もう一つの仕掛けが、押しボタンによる投票方式です。ブラジルの人たちの識字率は、日本ほど高くありません。読み書きできない人が、そこそこいます。そこで、投票所には、立候補者の顔写真と氏名を番号順に並べたボードが置いてあります。字のわからない人は、気にいった候補者の数字のボタンを押せばよいのです。中には顔の好みや、数字の好みでボタンを押す投票者がいても不思議ではありません。ですから、立候補者たちも、何番が割り当てられるかに神経をとがらせ、舞台裏ではいろんな駆け引きが行われている、との噂を著者は耳にしています。
 テレビでの政見放送、選挙カーによる政見、名前の売り込みは、日本と同じです。ただし、先ほどの押しボタン方式ですから、選挙戦も終盤になると、テレビであれ、選挙カーであれ、各候補者は、自分の押しボタンの番号をやたら連呼します。
「8番、8番、8番をお願いします。8番です、8番。ぜひとも8番へ」のような具合です。
 日本では、騒音への配慮から、候補者名の連呼を避ける静かな選挙が主流になりつつあります。でも、さすがブラジル。ラテンのノリで、熱い血が騒ぎ、選挙もお祭りの一つとして楽しんじゃおう、という気分なのでしょうね。

 いかがでしたか?ブラジルという国を、ちょっぴり身近に感じていただけたなら幸いです。それでは次回をお楽しみに。

第611回 伊丹十三の欧州ウンチク話

2025-01-17 | エッセイ
 俳優、映画監督にとどまらず、多くの分野で才能を発揮、活躍されたのが、伊丹十三さん(1933-97年、以下「氏」)です。

 私にとっては、何よりもエッセイストです。ともすれば、俗で自慢っぽくなりがちな話題を、わかりやすく、イヤミなく伝えるワザが魅力でした。当ブログでも過去2回取り上げました(文末にリンクを貼っています)。今回は、「ヨーロッパ退屈日記」(新潮文庫)から、ヨーロッパの社会、風俗などについてのウンチク話をご紹介します。どうぞ気軽にお付き合いください。

★フランスで開催されるル・マン24時間と呼ばれる耐久カーレースがあります。ベンツ、フェラーリ、ポルシェなど世界の名だたるメーカーが全力をあげて建造した車に、超一流のレーサーが乗り込んで競う過酷なレースです。同レースも含めて世界的なレースで活躍した英国人のスターリング・モスという偉大なレーサーがいました。氏によれば、彼は、普段は自転車に乗っていた、というのです。彼とその愛車(車のほう)です。

「街を走っている自動車は、あれは自動車ではなくて、単なる足だ。どうせ足なら自転車のほうが健康にいい」(同書から)
「見識ではありませんか」との氏の評に、私は「イキだね」とも付け加えたくなりました。

★お次は、スペインの映画館で上映される外国映画の話題です。それらの映画はすべて「吹き替え」だというのです。字が読めない人が多い、という事情もあります。もうひとつの大きな理由は、この国がカトリックの強い国である、ということです。例えば、結婚していない恋人同士が、映画の中で一つのベッドで寝ることは許されません。
 そんな場合は、「1時間前に結婚したなんて、ほんとに夢みたいだね」とか、「お兄さまと一緒に寝るの、子供の時から随分久しぶりだわ」のように、セリフをまったく変えてしまうのです。随分乱暴なやり方で、話の辻褄をどう合わせるんだろう、とは余計な心配でしょうか。ラテンのノリで、気にしない、気にしない、と言われそうです。

★イギリスBBCに即興劇があります。俳優が即興でセリフをやりとりしていくうちに意外なドラマができあがる、というものです。ゆっくり進行している間はいいのですが、話題がとんでもない方向へ急速に発展し始めると、俳優の頭の回転が追いつかず、相手の言うことを繰り返すだけになるというのです。同書からの引用例です。
「きみは一体イギリスの人口問題をどう思っているんだ」
「ぼくが、イギリスの人口問題をどう思っているかって」
「そうさ、イギリスの人口の半分は犬と猫なんだぜ」
「まさか!イギリスの人口の半分が犬と猫だなんて」
「本当だとも。統計局へ行って調べて見給え」
「統計局へ行って調べる?」と、まだまだ続きますが、この辺にしておきましょう。
 氏は「どうでもいい会話」に応用することをススメます。相手の長い饒舌を、時折「イエス」などの相槌を入れて聞かされるより、いかにも熱心に聞いているとの印象(あくまで印象です)を与えられる有効なやり方だ、というのです。なるほど、こりゃ使える、と感心しました。

★小さい頃、左ハンドルといえば外車のことで、たまに見かければ、「おっ、カッコいい」なんて憧れたものです。でも左側通行の我が国では、右前方、つまり対向車線側が見通せませんから、追い越しはリスクを伴います。氏の友人は、雨の横浜バイパスで、前の車を追い越そうとして、中央ラインを超えたところで、対向車と正面衝突し、亡くなりました。その原因は左ハンドル車だったことだろう、と氏は推測しています。
 日本と同じ少数派の左側通行のイギリスでは、どんな対策を講じているのでしょうか?ロンドン近郊に増えつつある高速道路では、左ハンドル車を通行禁止にしました。一般道は「自己責任で」通行可というのが、いかにもオトナの国らしいルールです。

★本場フランスのレストランで、ワインをボトルで頼み、食事を終えて帰る時、ボトルに幾分か飲み残しておくのが不文律だ、というのです。イキがっているわけではなく、理由があります。それらの店には、ソムリエと呼ばれるワインの専門家がいます。ワイン庫の管理を任され、お客には、料理にあったワインをきめ細かくアドバイスしてくれます。あらゆる銘柄、産地、生産年などの知識を身につけるため、少年の頃からソムリエの下で、数多くのワインを味わい、記憶するという厳しい修行が課せられます。ただし、景気よくワインのボトルを開けてお勉強、というわけにはいきません。そこで飲み残しワインをじっくり味わい、その特徴を頭に叩き込んでいく、というわけです。優れたソムリエを代々育て、客もいつまでもいいワインを楽しめる・・・フランスらしいシャレた工夫、仕組みです。

 伊丹流ウンチク話の一端をお楽しみいただけましたか?冒頭でご紹介した過去記事は<第260回エッセイスト伊丹十三><第538回スパゲッティを正しく食す>です。合わせてご覧いただければ幸いです、それでは次回をお楽しみに。

第610回 「沖仲仕」の哲学者がいた

2025-01-10 | エッセイ
 かつて(日本では昭和40年代頃まで)、港に接岸できず、沖合に停泊している大型貨物船の荷は、艀(はしけ)(=小型の貨物艇)に移し替えて陸揚げされました。貨物船の船内で、その厳しい肉体労働に従事する人たちは「沖仲仕(おきなかし)」と呼ばれました(現在は、港の整備、大型クレーンの導入などで仕事の内容も変わり、「港湾労働者」などの呼称が一般的のようです)。
 さて、私が敬愛する書評家・岡崎武志氏の「読書の腕前」(光文社知恵の森文庫)の中に「「沖仲仕の哲学者」の生涯」という文章があり、感銘を受けました。思想内容ではなく、興味深いエピソード中心にお伝えします。最後まで気軽にお付き合いください。

 沖仲仕も含めた様々な厳しい仕事に従事しながら、独学で壮大な哲学的世界を構築したのは、エリック・ホッファー(1902-1983年)というドイツ系移民でニューヨーク生まれのアメリカ人です。
 1971年に「波止場日記」の邦訳(みずず書房)が出た時には、開高健、鶴見良行などの目利きが書評を書いており、また、知の巨人・立花隆は、「「20世紀を代表する哲人(哲学者ではない)」と書いている」(本書から)とあります。
 で、岡崎氏がホッファーに多大な関心を寄せるきっかけとなったのが、亡くなって20年後の2003年に邦訳が出版された「エリック・ホッファー自伝 構想された真実」(中本義彦訳 作品社)だというのです。出版された時には、朝日新聞の「天声人語」が取り上げ、研究本も出るなど、大きな反響を呼び、一大ブームを巻き起こしたといいます。

 前置きが長くなりました。ホッファーのドラマチックな人生、生き方を、お約束通りエピソード中心でご紹介します。図書館で読書、研究にふける彼の姿と自伝の表紙です。

 エリックが5歳の時、母親が彼を抱いたまま階段から落ち、それがもとで母親は2年後に死亡、その年、7歳でエリックは視力を失います。不思議なことに、15歳で視力を回復しました。ここまでが、自伝でわずか3ページだといいます。「ここまでですでに大事(おおごと)だが、後にまだまだ波瀾が続くため、端折っているわけだ。しかし、記述に悲劇としての悲しみや恨みつらみはまったくない。」(同前)そして、話は、彼の若い頃、そして、その後に移ります。

 18歳から40歳近くまで、沖仲仕をはじめとして、農業関係の手伝い、炭鉱、砂金取り、皿洗い、レストランの従業員など様々な職を転々としながら、彼は全米を放浪します。その背景として、岡崎氏は自伝からこんなエピソードを拾っています。母親が亡くなって、エリックの世話をしていたマーサという女性が、彼に言います。「将来のことなんか心配することないのよ、エリック。お前の寿命は40歳までなんだから」(同前)。事実、彼の家族はみな短命で、父親は50歳で亡くなっています。将来の心配をする必要がない、と言われたのを覚えていて、あれこれ悩まず「私は旅人のように生きることができた」(同前)というのです。
 そんな肉体労働と放浪の合間を縫って、図書館へ通って読書し、数学、化学、物理、地理などの大学の教科書をマスターします。猛烈な勉強ぶりです。7歳で目が見えなくなるまでに、英語とドイツ語を一通りマスターしていたといいますから、もともと人並み外れた頭脳があったとはいえ、スゴイです。
 それを示すエピソードです。彼がレストランで給仕をしていた時、客としてきていた柑橘(かんきつ)類の専門学者が、ドイツ語の本の読解に呻吟している様子です。「何かお手伝いしましょうか」と声をかけ、ドイツ語の手助けをした上、レモンの病気の解決策まで考え出しました。その学者からは、研究室に来て、共同研究をしようと持ちかけられましたが、放浪生活が性に合っている、と断ったといいます。いかにも彼らしいです。

 岡崎氏は書きます。「彼は本からだけでなく、日々の労働するなかで、そこで働く人や働くことそのものからも学んでいく。彼が働く現場は社会の最底辺で、働く人々も社会不適応者が多いのだが、彼はそういう「弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えているのだ」という真理に行き着く。それが以後、信念となる。」と。
 その信念を、「大衆運動」という作品にまとめ、出版したのは、49歳の時です。先の立花隆によれば、バートランド・ラッセル、ハンナ・アーレントなど内外の知識人のほか、当時のアイゼンハワー大統領からも激賞されたといいます。
 それでも沖仲仕の仕事を続け、腰を据えて、大学で政治学を教えるようになるのは、なんと62歳の時。「人間、一生勉強だ」を地でいく凄まじい生き方でした。

 いかがでしたか?私は、エリックよりうんと恵まれた環境にありながら、大学で学問に打ち込んだ覚えはありません。その後は、関心の赴くままの読書、細々と英語の勉強を続けている程度です。少しは彼を見倣って、まだまだ続けなければ、と決意を新たにしたことでした。それでは次回をお楽しみに。

第609回 高田文夫さんで初笑い2025

2025-01-03 | エッセイ
 新年の最初の記事ですので、恒例の(と自分で勝手に決めてる)初笑いネタをお届けします。

 笑いの世界で、多芸多才ぶりが際立つ高田文夫さんには、80~90年代を中心に、テレビ、ラジオで大いに笑い、楽しませてもらいました。歯切れよく、スピーディーなトーク、ぽんぽん飛び出すギャグが、何よりの魅力で、笑い転げたのを思い出します。現在も、「ラジオビバリー昼ズ」で元気なトークを展開しておられるのが何よりです。

 以前、当ブログで高田さんとビートたけしさんとの交友ぶりなどをお伝えしました(文末にリンクを貼っています)。今回は、高田さんの「楽屋の王様」(講談社文庫)がネタ元です。単行本は92年刊行で、いささか古いのはご容赦の上、業界の楽屋噺、裏話をお楽しみいただこうという趣向です。よろしくお付き合いください。なお、<  >内は、本書からの引用です。

★落語家・立川藤志楼(とうしろう)としても活動していた高田さんの師匠にあたる立川談志さんが、海外から帰国した時のことです。成田空港の税関を通る時、麻薬犬にいきなり噛まれました。すわ一大事、と出迎えの弟子たちが色めく中、係官がポケットをあらためると、なんとクサヤ(強い臭いの魚の干物)が出てきたのです。<麻薬犬はクサヤは知らなかったらしい。しかしなんでクサヤなんて持って歩いているのだろう。>

★談志師匠が地方での仕事が終わっても、なかなかギャラがもらえません。<「うーー、どうなってんだ?こんなものは?」と四角くサインを出した。>「気がつきませんで」と詫びがあって、かなり分厚い茶封筒が渡されました。嬉しそうにトイレに駆け込んで封を切る師匠。出てきたのは、なんと「リルケ詩集」でした。

★映画好きの円楽師匠(五代目)が、ひとりで映画館で映画を見ていました。スーッと横に座った外人男性、昼間から着物を着ていたので、ゲイと思ったのでしょう、手を握ってきました。失礼があってはいけないと思い、握り返す師匠。寄席の出番が近づきましたが、外人は手を離してくれません。<なんとかこれから仕事だからと説明しようとしたのだがうまく言えない。円楽師「マイ、ビジネス!!」 と何を勘違いしたのかその外人が嬉しそうにたずねた。「ハウマッチ!?>

★三遊亭小遊三の息子さんが面接試験を受けました。お父さんの名前(天野幸夫)を訊かれて<「あまのゆきお」「ゆきおの「ゆき」はどういう字かな?」セガレ数十秒考えたのち、「不幸の「幸」!!」><「それを言うなら幸福の「幸」だろ」とぼやく小遊三。>

★林家彦六師匠。もらったキムチをバカな弟子が何も知らずに洗って出しました。<「バカヤ~~ロ~~赤い辛いところはどうしたい~~ン」「洗い流しました」「それじゃ、なにかい。おめ~~は、麻婆豆腐あらうのか~~い!?」>

★ホラ吹き勢朝という落語家が、売れない仲間のR師匠についての噂話を高田さんに吹き込みました。それによると、Rは「海千山千」だというのです。<仕事がないから海の仕事でも、山の仕事でも千円で行くんですよ。これを我々は海千山千といいます」だと。>
 売れないながら、「呑む打つ買う」の三道楽にも励んでいるという。<どんな仕事も「呑む」、暇だから家で釘を「打つ」>そして、<「あの師匠、家でうさぎ飼ってんです。これが本当の呑む打つ飼う」だと。>

★もうひとつ貧乏話といきましょう。三遊亭円丈師匠の弟子で、三遊亭新潟という男がいました。家賃1万2千円の池袋のアパート住まいです。20部屋のうち、日本人は彼だけで、あとは、フィリピン、イラン、中国など多国籍。真冬もTシャツ1枚、せいぜい重ね着で過ごします。そんな彼が、冬はやっぱり「鍋もの」だ、というのです。<どんな鍋ものを作るのかきくと、お肉屋さんの裏でひろってきたトリのホネでスープをとり、そこに季節の野菜を入れるという。「今の季節の野菜は何だい?」「そうですね・・・セイタカアワダチ草ですか」だと。土手でつんでくるらしい。セイタカアワダチ草はどんな味がするのか私は知りなくもない。>こんな草です。

★高田さんの友人が、寄席のトイレでバッタリ林家三平師匠と連れションになりました。<三平師匠おしっこをしながら、「どーも加山雄三です」とギャグをとばした。>
 そんな師匠が病に倒れました。<もう危ない。医者が脈をとりながら確かめる為「師匠お名前は?お名前は?」「・・・加山雄三です・・・」最後のひと言までギャグだった。>

 存分に初笑いしていただけましたか?なお、冒頭でご案内した記事へのリンクは、<第480回 たけしの時代と高田文夫>です。併せてご覧いただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。

芦坊より新年のご挨拶2025

2025-01-01 | エッセイ
★「芦坊の書きたい放題」をご愛読いただいている皆様へ★

 新年あけましておめでとうございます。

 今年は、巳年です。干支のヘビにちなんでこんなデジタル年賀状を作ってみました。


 どこが「ヘビにちなむ」の? との疑問はもっともです。ご説明いたします。
 高さ20cmほどの木彫りの像で、ずいぶん前に、骨董市で手に入れました。背中を丸めて一生懸命にタテ笛を吹いている姿、表情が可愛くて、大切にしている一品(一人?)です。
 笛の先に「ヘビ」がいるとご想像ください。そう、この少年は、「ヘビ使い」という見立てです。生々しいヘビを登場させない工夫をご納得いただければ幸いです。

 本年も、楽しくてタメになる記事をお届けできるよう決意を新たにしています。新年最初の記事は、1月3日(金)にアップの予定です。引き続きご愛読ください。
 皆様のご健勝、ご多幸、ご活躍をお祈りいたしております。

 2025年 元旦  芦坊拝

第608回 笑い納め2024年

2024-12-27 | エッセイ
 いいことも、よくないこともあった(ような気がする)2024年も暮れようとしています
 笑い納めていただくのがなによりと、年末恒例(と私が勝手に決めている)の企画のお届けです。ネタ元は、「最後のちょっといい話」(戸板康二 文春文庫 1994年)で、今回でその利用は最後になります(文末に直近2年分へのリンクを貼っています)。引用は原文を基本とし、いささかお古い話題ですので、適宜、人物に関する情報と私なりのコメントを<  >内に付記しました。合わせてお楽しみください。

古今亭志ん生が大昔、いわゆる「なめくじ長屋」にいたころ、本麻の蚊帳というのを「三十円の品物ですが即金なら十円に致します」という口上で売りに来た。

 キチンと畳んであるのをつい確かめもせず、長火鉢の引き出しから紙幣を渡してしまった。さて開いたら、蚊帳の切れっぱしを畳み、赤い縁と環をつけて、見せかけだけのイカサマ。しまったと口惜しがったが、ふと気がついた。「うちに十円札があるはずはないんだ。あれは一枚五厘で売っていたおもちゃの紙幣だった」<まんま、落語の世界ですね>

保志<相撲取り(本名)>が大関に昇進した時、本姓ではもうおかしいので、四股名を考えようということになり、はじめ十勝の生まれなので、十勝海としたいと言ったら、九重親方が「だめだね、十勝では優勝できない」
 それで、北勝海になった次第。

里見弴<作家>という筆名は、電話帳を開いて、パッとあけたページが「さとみ」だった。そのページをトンと突いたのが、弴になった。三島由紀夫もやはり電話帳だった。私も電話帳を番号を調べる以外に引くことがある。私の場合は小説の犯人の名前を決めたあと、それと同姓同名の人がいてはいけないからだ。<こんな「便利な」利用法がありました>

★私の近くでは、義父の名前が山口一、フルネームで七画である。一方、私が時々便りを書く作家綱淵謙錠という姓名は、最も字画が多い。本名をそのまま筆名を使わずいるのは立派だと敬服するが、子供のころから、さぞ大変だったであろうと推測する。

★毎年、酒造組合が、酒にちなんだカルタを公募する。ある年、1等は「ツケの一声」というのだったが、審査員の田辺聖子のも、おぼえている。
「たたけよ酒屋開かれん」

★大正時代に初代柳家小せんという落語家がいました。本名鈴木万次郎というので、仲間から万公と呼ばれていました。それで表札に「鈴木万公」と書いて出したら、巡査に叱られたとのこと。

★戦前のこと。劇場に臨官席というのがあって、警官が見に来ました。上演台本もあらかじめ届けて検閲を受ける仕組だ。
 ある時「一度でいいから接吻してください」の「接吻」をカットといわれた。カットされたセリフは客席を大いに喜ばせたという。どうか、カットして読んでみてほしい。

司葉子上原謙と共演した映画がある。撮影が終わったあと、丁重な礼状を出した。そのあとで再会した時、上原が「あなた、私が嫌いですか」といったので、おどろいて、「なぜそんなことをおっしゃるんです」と反問したら、「封筒の宛名が、上原嫌でしたよ」
<「嫌」って、「女偏」の漢字なんですけど・・・>

★テレビの悪役の名人といわれる八名信夫が、九州自然野菜組合で発売しているキャベツの青汁のCMをたのまれ、スタジオではじめてその汁を飲んだら、青くさくてたまらない。思わず苦い顔をして「まずい!」といってしまった。これではCMにならないと、同席していた組合の幹部がしばらく相談して、こう決めた。とにかく一杯飲んで、「まずい!」といったあと、次に「もう一杯」というのである。<このCMは覚えています。現場での機転が産んだ「名作」だったのですね>

 笑い納めていただけたでしょうか?直近2年分の「笑い納め」記事は<2022年><2023年>です。
 なお、来たる年は、1月1日(水)に新年のご挨拶とミニ記事を、そして、1月3日(金)から通常の記事をアップの予定です。本年も「芦坊の書きたい放題」をご愛読いただきありがとうございました。2025年も引き続きのご愛読をお願い申し上げます。どうぞ良い年をお迎えください。

 芦坊拝