かつて(日本では昭和40年代頃まで)、港に接岸できず、沖合に停泊している大型貨物船の荷は、艀(はしけ)(=小型の貨物艇)に移し替えて陸揚げされました。貨物船の船内で、その厳しい肉体労働に従事する人たちは「沖仲仕(おきなかし)」と呼ばれました(現在は、港の整備、大型クレーンの導入などで仕事の内容も変わり、「港湾労働者」などの呼称が一般的のようです)。
さて、私が敬愛する書評家・岡崎武志氏の「読書の腕前」(光文社知恵の森文庫)の中に「「沖仲仕の哲学者」の生涯」という文章があり、感銘を受けました。思想内容ではなく、興味深いエピソード中心にお伝えします。最後まで気軽にお付き合いください。
沖仲仕も含めた様々な厳しい仕事に従事しながら、独学で壮大な哲学的世界を構築したのは、エリック・ホッファー(1902-1983年)というドイツ系移民でニューヨーク生まれのアメリカ人です。
1971年に「波止場日記」の邦訳(みずず書房)が出た時には、開高健、鶴見良行などの目利きが書評を書いており、また、知の巨人・立花隆は、「「20世紀を代表する哲人(哲学者ではない)」と書いている」(本書から)とあります。
で、岡崎氏がホッファーに多大な関心を寄せるきっかけとなったのが、亡くなって20年後の2003年に邦訳が出版された「エリック・ホッファー自伝 構想された真実」(中本義彦訳 作品社)だというのです。出版された時には、朝日新聞の「天声人語」が取り上げ、研究本も出るなど、大きな反響を呼び、一大ブームを巻き起こしたといいます。
前置きが長くなりました。ホッファーのドラマチックな人生、生き方を、お約束通りエピソード中心でご紹介します。図書館で読書、研究にふける彼の姿と自伝の表紙です。
エリックが5歳の時、母親が彼を抱いたまま階段から落ち、それがもとで母親は2年後に死亡、その年、7歳でエリックは視力を失います。不思議なことに、15歳で視力を回復しました。ここまでが、自伝でわずか3ページだといいます。「ここまでですでに大事(おおごと)だが、後にまだまだ波瀾が続くため、端折っているわけだ。しかし、記述に悲劇としての悲しみや恨みつらみはまったくない。」(同前)そして、話は、彼の若い頃、そして、その後に移ります。
18歳から40歳近くまで、沖仲仕をはじめとして、農業関係の手伝い、炭鉱、砂金取り、皿洗い、レストランの従業員など様々な職を転々としながら、彼は全米を放浪します。その背景として、岡崎氏は自伝からこんなエピソードを拾っています。母親が亡くなって、エリックの世話をしていたマーサという女性が、彼に言います。「将来のことなんか心配することないのよ、エリック。お前の寿命は40歳までなんだから」(同前)。事実、彼の家族はみな短命で、父親は50歳で亡くなっています。将来の心配をする必要がない、と言われたのを覚えていて、あれこれ悩まず「私は旅人のように生きることができた」(同前)というのです。
そんな肉体労働と放浪の合間を縫って、図書館へ通って読書し、数学、化学、物理、地理などの大学の教科書をマスターします。猛烈な勉強ぶりです。7歳で目が見えなくなるまでに、英語とドイツ語を一通りマスターしていたといいますから、もともと人並み外れた頭脳があったとはいえ、スゴイです。
それを示すエピソードです。彼がレストランで給仕をしていた時、客としてきていた柑橘(かんきつ)類の専門学者が、ドイツ語の本の読解に呻吟している様子です。「何かお手伝いしましょうか」と声をかけ、ドイツ語の手助けをした上、レモンの病気の解決策まで考え出しました。その学者からは、研究室に来て、共同研究をしようと持ちかけられましたが、放浪生活が性に合っている、と断ったといいます。いかにも彼らしいです。
岡崎氏は書きます。「彼は本からだけでなく、日々の労働するなかで、そこで働く人や働くことそのものからも学んでいく。彼が働く現場は社会の最底辺で、働く人々も社会不適応者が多いのだが、彼はそういう「弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えているのだ」という真理に行き着く。それが以後、信念となる。」と。
その信念を、「大衆運動」という作品にまとめ、出版したのは、49歳の時です。先の立花隆によれば、バートランド・ラッセル、ハンナ・アーレントなど内外の知識人のほか、当時のアイゼンハワー大統領からも激賞されたといいます。
それでも沖仲仕の仕事を続け、腰を据えて、大学で政治学を教えるようになるのは、なんと62歳の時。「人間、一生勉強だ」を地でいく凄まじい生き方でした。
いかがでしたか?私は、エリックよりうんと恵まれた環境にありながら、大学で学問に打ち込んだ覚えはありません。その後は、関心の赴くままの読書、細々と英語の勉強を続けている程度です。少しは彼を見倣って、まだまだ続けなければ、と決意を新たにしたことでした。それでは次回をお楽しみに。