犯人探しではありません。犯罪史上に類のない連続殺人事件の犯人を逮捕する決定的なチャンスが2回あった、というのを知って、思わず身を乗り出した、という話題です。「牧逸馬の世界怪奇実話」(島田荘司・編 光文社文庫)所収の「切り裂きジャック」からお届けします。是非最後までお付き合いください。
前段として、事件のあらましに、簡単に触れておきます。
事件の現場は、ロンドンのイーストサイドと呼ばれる地区です。貧しい人々が密集して暮らし、治安が悪く、夜にはわずかな稼ぎを求めて体を売る女性たちが多く出没していました。
最初の被害者が出たのは、1888年8月で、それから3ヶ月のうちに殺害された5人の女性はすべて街娼で、のちに「切り裂きジャック」と呼ばれることになる男の犯行が確実だとされています。この通称は、犯人を名乗る男が、警察宛の犯行声明で使用した名前に由来します。
犯行の手口は、殺害した女性の肉体を切り裂き、内臓を取り出して奪う、などという残虐極まりないものでした。
犯人は左利きで、ある程度の医学知識を持っていたことは確実だ、というのが死体を検分した警察医の推定です。また、現場から逃げる犯人の目撃証言などから、背が高く、細身で、帽子をかぶり、丈長の真っ黒なコートを身につけている、との犯人像も浮かび上がっていました。当時のイラストレイテッド・ロンドン・ニュース紙の挿絵で、犯人とおぼしき男(左)と自警団員です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/f6/cb734147f90b70fb9f97f871a06ba37e.jpg)
ロンドン警視庁も威信をかけて、全力で捜査をします。犯行直後の現場に、警官がたまたま通りかかったケースもありましたが、混乱にまぎれて取り逃がしていました。
それでは本題に入ります。まずは、最初のチャンスです。
一連の事件がロンドン中を震撼させる中、実は、ロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)は、ロシア政府からある情報を得ていました。それは、数年前、モスクワで今回と同じ手口の事件が頻発し、犯人として逮捕された男についてのものです。被害者はいずれも街娼で、切開手術のような暴虐が加えられていました。男は精神病者と判明し、病院に収容されていましたが、その年の春、脱走し、行方不明になっているというのです。相当優秀な外科医で、英国留学の経験もあるので、ロンドンへ潜入している可能性がある、というので人相書も送られてきていました。この男が、ロンドンの事件の犯人との断定はできないものの、極めて有力な情報であったことは間違いありません。人相書も含めて、捜査に当たる警察官に情報が行き渡っていれば、巡回、尋問などで容疑者と接触する機会は十分にあったはずです。でも、残念ながら情報は活かされませんでした。
さて、これぞ本当に決定的なチャンスだった、というハイライト部分に話を進めます。
なんと、犯人はたった一度だけ、一人の人間にじっくり顔を見られ、言葉まで交わしていました。逮捕寸前まで至った経過です。
イーストサイド地区のバーナー街44番地に、マシュー・パッカーという男が営む小さな果物屋がありました。狭い土間の空間は果物だらけなので、客は入れません。そこで、表の戸を閉め切り、開けた小さな窓から接客や商品の受け渡しをしていました。
9月30日、土曜日の深夜11時半頃のことです。店じまいをしようとしていたところへ、窓のむこうに男女2人が立ちました。女は店主も顔見知りのエリザベス・ストライドで、なうての不良少女でしたから、男は「客」に違いありません。店主は、その男の印象的な風貌、服装を後日、逐一警察に申し立てています。それによれば、年齢30歳前後、身長5フィート7インチ、肩幅広く、敏捷な顔つきだったといいます。長い黒い外套に焦茶色のフェルト帽をかぶっていました。男は、きびきびした横柄な早口でこう言いました。「おい。そこの葡萄を半ポンドくれ。3ペンスだな」(同前)
2人が店の近くの社会党倶楽部の構内に消えていくのが目撃されて、20分経つか経たないうちに、その中庭でエリザベスの惨殺死体が発見されました。かたわらにはパッカーが売った葡萄の紙袋と葡萄の種や皮が散乱していました。男が彼女と談笑して商取引が終了後、犯行に及んだことは明らかです。5人とされる被害者の3人目でした。これだけ犯人がじっくり目撃されたのですから、捜査上の大きな進展には違いありません。そして、パッカー自身が関わる最も決定的な瞬間が訪れます。
10月2日といいますから、事件から2日しか経っていない月曜日の正午頃のことです。パッカーは、あの夜の男が店の前を通行しているのを認めました。目に焼き付いた映像と、異様に長い黒の外套に見誤りはありません。白昼です。大声をあげて近隣の住民や通行人に協力を求めて取り押さえ、警察に通報することは簡単にできるはずでした。でも、彼はできませんでした。のちに警察の係官に、その男と目が合った時のことを陳述しています。「それは何事か脅かすような、じつに気味の悪い目つきでした。正直に申しますと、わたしは、はっと不意に打たれて、意気地がないようですが、あまりにびっくりしてどうにも足が動きませんでした」(同前)というのです。悪運の強い犯人は、決定的なチャンスを逃れ、時の流れの闇に消えていきました。
いかがでしたか?う~ん、果物屋のオヤジさんにあと一歩の勇気があればねぇ。それでは次回をお楽しみに。