あなたは自分に言い聞かせた。
しっかりしなさい。
今夜のことは、自分で決めたこと
でしょ?ちゃんと覚悟を決めて、
彼と「こういう関係」になったん
でしょ?
問いかけて、あなたは答えた。そう
よ、私が決めたの。私が望んだの。
すべて、私の意志でしたことなの。
だから、後悔なんかしていない。
なのに、彼と時を過ごしたホテルの
前で右と左に別れて、あなたは通り
のこちら側から、彼は向かい側から
タクシーを拾い、彼はおそらく明か
りの煌々と灯ったあななかな家に、
あなたは人気(ひとけ)のないま
っくらな家にもどってきて、玄関
のドアをあけ、後ろ手で閉めた瞬
間、それまで一度も感じだことの
なかった不穏な感情に、きつく、
全身を締めつけられるような気持
ちになっている。ダークグレイで
ブルーで、びりびりと悶々ともや
もやが漣然一体となった、柔らかい
のにその芯は固く、優しいのに暴力
的な、
名づけようのないこの感情にあえて
名前を与えるとすれば、喪失感だ
ろうか。と、思いながら、あなたは
再び自問する。
もしもこれが喪失感であるならば、
いったい私は何を失ったというの?
家族思いの優しい夫。かれこれ十五
年以上も連れ添ってきた。絵を書く
のが大好きで得意なひとり娘は今年、
幼稚園にあがったばかりだ。
それらのなかのどれも、私は失って
いない、と、あなたは強く思う。
それどころか、私は今夜―――
彼を得たのだ、と、胸をふるわせる。
情事の名残りなのだろうか、頭と
体の一部が、まだ、痺れたように
なっている。
彼はあなたと同じ業界で働いてい
る人、好きになってはいけないと、
最初から、わかり過ぎるほどわか
っていて、それでも好きになって
しまった人だ。
とにもかくにも、あなたは今夜、
恋を獲得した。確かに、得た。
得たはずなのに、すべてを失って
しまったかのような、漠として
とらえどころのない、空恐ろしいい
ほどの喪失感・・・・・。
しっかりしなさい。あなたは、得た
のよ。何も失ってはいないの。
夫は先週から地方へ出張している。
娘はきのうから週末にかけて、夫
の両親の家に泊まりがけで遊びに
出かけている。
あなたは、会社が退けたあと、彼
と待ち合わせて、銀座で食事をし、
バーでお酒を飲み、ホテルのベット
の上でさまざま温度の涙を流した
あと、誰もいない空っぽの家に
戻ってきた。
彼は今頃――
あなたは思う、彼はどんな家にも
どっているのだろう。
そんな表情をして彼は「ただいま」
と言ったのだろう。私を抱いた両腕
で、今は奥さんの肩を抱いているのか。
ああ、なんて、嫌な想像なんだろう。
なんて嫌な女。あなたは眉間にシワ
を寄せる、こんな嫌な想像をしている
私、大嫌い。
喉の渇きを癒すために、冷蔵庫をあ
けようとする。その手が止まる。
止まったまま、動かなくなる。冷蔵
庫をあけようとする。その手が止まる。
止まったまま、動かなくなる。
冷蔵庫の扉にハート型のマグネット
で留められている、一枚の紙片が目
に飛び込んできたからだ。太めの
クレヨンで描かれた、あなたの顔。
母の日の翌日に、娘が幼稚園から
持ち帰ってきた作品。似顔絵のすぐ
そばには「だいすきなママ」と
覚えたての拙い文字が並んでいる。
まん丸でやんちゃなその文字を目
にした時、あなたの両目からもく
もくと涙があふれ出す。
どうして泣くの?
いったい何が悲しいの?
しっかりしなさい。
今夜のことは、自分で決めたこと
でしょ?ちゃんと覚悟を決めて、
彼と「こういう関係」になったん
でしょ?
問いかけて、あなたは答えた。そう
よ、私が決めたの。私が望んだの。
すべて、私の意志でしたことなの。
だから、後悔なんかしていない。
なのに、彼と時を過ごしたホテルの
前で右と左に別れて、あなたは通り
のこちら側から、彼は向かい側から
タクシーを拾い、彼はおそらく明か
りの煌々と灯ったあななかな家に、
あなたは人気(ひとけ)のないま
っくらな家にもどってきて、玄関
のドアをあけ、後ろ手で閉めた瞬
間、それまで一度も感じだことの
なかった不穏な感情に、きつく、
全身を締めつけられるような気持
ちになっている。ダークグレイで
ブルーで、びりびりと悶々ともや
もやが漣然一体となった、柔らかい
のにその芯は固く、優しいのに暴力
的な、
名づけようのないこの感情にあえて
名前を与えるとすれば、喪失感だ
ろうか。と、思いながら、あなたは
再び自問する。
もしもこれが喪失感であるならば、
いったい私は何を失ったというの?
家族思いの優しい夫。かれこれ十五
年以上も連れ添ってきた。絵を書く
のが大好きで得意なひとり娘は今年、
幼稚園にあがったばかりだ。
それらのなかのどれも、私は失って
いない、と、あなたは強く思う。
それどころか、私は今夜―――
彼を得たのだ、と、胸をふるわせる。
情事の名残りなのだろうか、頭と
体の一部が、まだ、痺れたように
なっている。
彼はあなたと同じ業界で働いてい
る人、好きになってはいけないと、
最初から、わかり過ぎるほどわか
っていて、それでも好きになって
しまった人だ。
とにもかくにも、あなたは今夜、
恋を獲得した。確かに、得た。
得たはずなのに、すべてを失って
しまったかのような、漠として
とらえどころのない、空恐ろしいい
ほどの喪失感・・・・・。
しっかりしなさい。あなたは、得た
のよ。何も失ってはいないの。
夫は先週から地方へ出張している。
娘はきのうから週末にかけて、夫
の両親の家に泊まりがけで遊びに
出かけている。
あなたは、会社が退けたあと、彼
と待ち合わせて、銀座で食事をし、
バーでお酒を飲み、ホテルのベット
の上でさまざま温度の涙を流した
あと、誰もいない空っぽの家に
戻ってきた。
彼は今頃――
あなたは思う、彼はどんな家にも
どっているのだろう。
そんな表情をして彼は「ただいま」
と言ったのだろう。私を抱いた両腕
で、今は奥さんの肩を抱いているのか。
ああ、なんて、嫌な想像なんだろう。
なんて嫌な女。あなたは眉間にシワ
を寄せる、こんな嫌な想像をしている
私、大嫌い。
喉の渇きを癒すために、冷蔵庫をあ
けようとする。その手が止まる。
止まったまま、動かなくなる。冷蔵
庫をあけようとする。その手が止まる。
止まったまま、動かなくなる。
冷蔵庫の扉にハート型のマグネット
で留められている、一枚の紙片が目
に飛び込んできたからだ。太めの
クレヨンで描かれた、あなたの顔。
母の日の翌日に、娘が幼稚園から
持ち帰ってきた作品。似顔絵のすぐ
そばには「だいすきなママ」と
覚えたての拙い文字が並んでいる。
まん丸でやんちゃなその文字を目
にした時、あなたの両目からもく
もくと涙があふれ出す。
どうして泣くの?
いったい何が悲しいの?