「桜木さん」
突然名前を呼ばれて、どきっと
した。白地に紺のストライプの
入った、制服のブラウス、胸も
とに留めている店員の名札。
そこにあのひとの視線を感じて、
そのちょうど下にある心臓が、
トビウオのように跳ねた。
「この女の子、表情がどことなく、
桜木さんに似ていませんか」
そんなことを、あのひとは言った。
「えっ、そうですか、それは・・
・・・」
嬉しいです、という言葉は、喉の
あたりでもつれたままだった。絵
本の女の子の表情は、どこか淋し
げで、哀しそうにも見える。だ
からこそ、わたしはその絵本が、
好きだったのだけれど。
背伸びして、あのひとの広げた
ページを覗き込みながら、わたし
は言った。
「春になったらお花をたくさん
摘んできて、花束を作ってあげる。
雪がいっぱい積もったら、雪だるま
を作ってあげる。これって全部、
お姉ちゃんが小さな弟に、してあげ
たいことなんですね。原題も、すてき
なんですよ。『Do You Know What I’ll
Do?』っていうんです」
「いいね。なんだか深みのあるタイ
トルだな」
「ごめんなさい、あくまでも、わた
しの好みですから、とらわれないで
下さい。それに、絵本のよさって
理屈で説明できるものじゃないで
すよね。感じるものですから。
ハートで。頭じゃなくて、心で。
よかったらどうぞごゆっくり、読
んでらして下さい。わたしはそろ
そろ、持ち場に戻りますので」
「持ち場に戻ります」と言ってお
きながら、わたしはあのひとのそ
ばに、突っ立ったままだった。
その絵本の中にはね、わたしの
小さな弟が住んでいるの。この世
にはいないんだけど、でも、いるん
ですよ、そこに。
そんな、言葉にはならない、欠けて
尖った貝殻みたな想いを抱えて。
柔らかく、あのひとは言った。
「決めました。贈り物はこれにし
ます。この女の子が気に入りました」
「そうですか、ありがとうございます。
レジはあちらです」
わたしは店員らしく一礼し、あのひと
から離れていこうとした。
「こちらこそ、どうもありがとう」
わたしがうしろをふり返るのと、あの
ひとが立ちと返るのと、あのひとが
立ち止まったのは、ほぼ同時だった。
気がついたら、あのひとは再び、わた
しのすぐそばに立っていた。
「あ」
と、言ったきり、何も言えなく
なった。
あ、聞こえた。胸の奥で一匹の
鯉が、勢いよく跳ねる水音。
「あとひとつ、忘れ物しちゃい
ました」
そう言いながら、あのひとはま
っすぐに、わたしの目の前に右
手を差し出した。
ほとんど反射的に、わたしはその
手を握っていた。とても大きな手
のひら。この手はきっと、何かを
創っている手。そんなことを思っ
た記憶がある。あのひとは、わた
しの指をすべて包み込むようにし
て、ぎゅつと、握り返してきた。
みるみるうちに赤く染まってゆく、
わたしの頬。惜しみなく降り注が
れる、光のシャワーのような微笑
みを浴びて、まるでくしゃくしゃ
のハンカチになった気分。
これが忘れ物だなんて、握手が
忘れ物だなんて ・・・・。
気持ちが走り始めたのは、その
瞬間だった。
突然名前を呼ばれて、どきっと
した。白地に紺のストライプの
入った、制服のブラウス、胸も
とに留めている店員の名札。
そこにあのひとの視線を感じて、
そのちょうど下にある心臓が、
トビウオのように跳ねた。
「この女の子、表情がどことなく、
桜木さんに似ていませんか」
そんなことを、あのひとは言った。
「えっ、そうですか、それは・・
・・・」
嬉しいです、という言葉は、喉の
あたりでもつれたままだった。絵
本の女の子の表情は、どこか淋し
げで、哀しそうにも見える。だ
からこそ、わたしはその絵本が、
好きだったのだけれど。
背伸びして、あのひとの広げた
ページを覗き込みながら、わたし
は言った。
「春になったらお花をたくさん
摘んできて、花束を作ってあげる。
雪がいっぱい積もったら、雪だるま
を作ってあげる。これって全部、
お姉ちゃんが小さな弟に、してあげ
たいことなんですね。原題も、すてき
なんですよ。『Do You Know What I’ll
Do?』っていうんです」
「いいね。なんだか深みのあるタイ
トルだな」
「ごめんなさい、あくまでも、わた
しの好みですから、とらわれないで
下さい。それに、絵本のよさって
理屈で説明できるものじゃないで
すよね。感じるものですから。
ハートで。頭じゃなくて、心で。
よかったらどうぞごゆっくり、読
んでらして下さい。わたしはそろ
そろ、持ち場に戻りますので」
「持ち場に戻ります」と言ってお
きながら、わたしはあのひとのそ
ばに、突っ立ったままだった。
その絵本の中にはね、わたしの
小さな弟が住んでいるの。この世
にはいないんだけど、でも、いるん
ですよ、そこに。
そんな、言葉にはならない、欠けて
尖った貝殻みたな想いを抱えて。
柔らかく、あのひとは言った。
「決めました。贈り物はこれにし
ます。この女の子が気に入りました」
「そうですか、ありがとうございます。
レジはあちらです」
わたしは店員らしく一礼し、あのひと
から離れていこうとした。
「こちらこそ、どうもありがとう」
わたしがうしろをふり返るのと、あの
ひとが立ちと返るのと、あのひとが
立ち止まったのは、ほぼ同時だった。
気がついたら、あのひとは再び、わた
しのすぐそばに立っていた。
「あ」
と、言ったきり、何も言えなく
なった。
あ、聞こえた。胸の奥で一匹の
鯉が、勢いよく跳ねる水音。
「あとひとつ、忘れ物しちゃい
ました」
そう言いながら、あのひとはま
っすぐに、わたしの目の前に右
手を差し出した。
ほとんど反射的に、わたしはその
手を握っていた。とても大きな手
のひら。この手はきっと、何かを
創っている手。そんなことを思っ
た記憶がある。あのひとは、わた
しの指をすべて包み込むようにし
て、ぎゅつと、握り返してきた。
みるみるうちに赤く染まってゆく、
わたしの頬。惜しみなく降り注が
れる、光のシャワーのような微笑
みを浴びて、まるでくしゃくしゃ
のハンカチになった気分。
これが忘れ物だなんて、握手が
忘れ物だなんて ・・・・。
気持ちが走り始めたのは、その
瞬間だった。