
進歩のない者は決して勝たない。
負けて目覚めることが最上の
道だ。
日本は進歩ということを
軽んじ過ぎた。
私的な潔癖や徳義にこだ
わって、
真の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める。
それ以外にどうして日本は
救われるか。
今日覚めしていつ救われるか。
俺たちはその先導になるのだ。
日本の新生にさきがけて散る。
まさに本望じゃないか。
/ 白洲磐 大尉の言葉
進歩のない者は決して勝たない。
負けて目覚めることが最上の
道だ。
日本は進歩ということを
軽んじ過ぎた。
私的な潔癖や徳義にこだ
わって、
真の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める。
それ以外にどうして日本は
救われるか。
今日覚めしていつ救われるか。
俺たちはその先導になるのだ。
日本の新生にさきがけて散る。
まさに本望じゃないか。
/ 白洲磐 大尉の言葉
【すぐれた人と凡庸な人の違い
は受け入れ姿勢の違いにある】
ある職業を喜んで、さらに心から、
受け入れた場合と、その同じ職業
をいやいやながら甘受した場合とで
は、実際に大きな違いがある。
すぐれた会計係と凡庸な会計係、
すぐれた大工と凡庸な大工との
違いはすべてこれである。
「自分のような人間でも、ひろっ
て使ってくれる会社があった。
嬉しい」といって働く人と
「本来はオレのような才能のある
人間が働くような職場ではないが、
しょうがない、勤めてやっている」
と考えて働く人と比べたらどうだ
ろうか。
仕事の取組み姿勢も、仕事のでき
ばえも違っていて当然のことでは
ないだろうか。
職業や職場に対するこうした意識
の違いは、新入社員のうちはあま
り大きな差にならない。
しかし五年、十年たつと取り返し
のつかないほど大きな差になる。
どんな仕事にも奥行があるもので、
一つのことをマスターするとまた
自分の知的収穫に刺激されて
次のことを覚えたり、試したく
なるというようにできている。
誰かが「仕事の報酬は仕事だ」
とうまいことをいっていたが、
そのとおりである。
やっているうちに面白くてたま
らなくなる。
こうやって楽しんで、そのうえ
月給をもらうのだから悪くない。
この人は二重に報酬をもらって
いることになる。
これをくりかえして何年もたつと、
当然明らかに違いがでてくる。
仕事を楽しんでいる人にはいつの
まにか豊富な知識や技術、経験が
身につく。
上司からも仲間からも頼られる
人間になっている。
仕事を心から喜んで受け入れた
結果である。
これに対して平凡なビジネスマン
はこんなふうにいう。「オレは月給
ぐらいの働きはしている」。「会社
の体制をもっと良くしてくれなきゃ
仕事がやりにくくて困る。おまけに
「オレはプロだ」などとうそぶく。
なにがプロなものか。他の仕事は
できないというだけのことではない
か。
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人は
相手の自分に似ているとこ
ろ 好きなところを
選択的に見て近づき
似てないところ 嫌いなとこ
ろを
選択的に見て 離れていく
どちらの時も相手は同じだ
ったのに
好きになるために自分をだまし
嫌いになるために自分をだまし
ている
恋をしないように努めることも
できるし
恋をするように自分をしむける
こともできる
そのことがわかっていて
どうして
才能を
見つけてくれる人に、
人は動かされる。
自分の部下を「あいつはダメだ」と
言う上司は、人を動かすことが
できません。
上司の仕事は、自分の部下がダメ
かダメでないかを判断することで
はありません。
ほかの人がダメだと言ったとして
も、その部下の才能を何か見つけ
てあげるのが仕事です。
これは、プライベートでも、恋愛
関係でも、まったく同じです。
人間は自分の才能を見つけてくれ
てもらう喜びが、やる気になりま
す。
その見つけられた才能を使う喜び
が、人を動かしていくのです。
咲けば必ず散るのが花の
運命だ。
美しければ美しいいほど、
散るのはさぞ辛いことだろ
う、と思うのが人の心だが、
花の心は、どうやらそうで
もないらしい。
堂々と花ひらく薔薇。散る
ことを前提としていながら、
こんなにもいさぎよく、明
るく、美しい。
これまでの自分の生き方は
散ることを怖れて、咲くこと
をためらっていなかっただろう
か?
散ると決まったわけでは
ないときにも、一歩が踏み
出せないことがあったので
はないだろうか?
花は生きている、これからは
違う生き方を選んでいきたい。
『ためらひもなく花季(はなど
き)となる黄薔薇
何を怖れつつ吾は生き来し』
「堪忍は無事長久の基」という
のがあります。
私たちは、どうも修行が足りない
のか、何かおもしろいことが
あると、老いも若きも、「アタマ
にきた」と、すぐ怒りだして
います。
雨に洗われた若竹は青々として
いて、伸びやかなうえに、い
かにもしなやかでいいものです。
若竹は竹の子が出たかと思う
と、メキメキと大きく高く
伸びて驚くばかりです。
ところが、竹笛などを作るとき
は、この若竹は絶対に使いま
せん。
何年も霜をくぐり、雪に耐え、
霧に濡れ、みぞれに打たれ、
いわば風雪に耐え抜いた竹
を選び抜いて作るのです。
若竹は見た目のは伸びがあり、
美しいのですが、竹の質が
粗く、細工は楽ですが、ひび
割れしたり、虫が食いやすい
のです。
そのうえ、最も大切な音色が
まったく違うのですから不思
議なものです。
みなんさんも竹笛を見たこと
ことがあるでしょうか、青々
とした若竹はなかったでしょう。
音色のよい、重量感のある竹
笛・・・・
そうです。風雪に耐え抜いた竹
のように、私たちも、すぐ腹を
立てないで、“無事長久の基”
である堪忍竹になりたいもの
です。
小さなことにいちいち腹を
立て怒りをぶちまけるのは
もうヤメにしましょう。
気にくわないことが起こっ
たとしてもグッとこらえて、
相手を思いやれる心を自分
の中に育てていこうでは
ありませんか。
そしてひとたび口を開けば、
説得力のある充実した話を
したいものです。
目を開けると、窓の外には、く
すんだ大阪の空が広がっていた
けれど、彼に抱かれて目を閉じ
れば、わたしは容易に「原色
の世界」に飛び込んでゆくこと
ができた。
けれども、旅には始まりと、終
わりがある。
恋も同じだ。
情事はもちろんのこと。
そう、つまるところ、人生も
同じなのだ。
それは始まって、必ず終わる。
例外はない。
正しい選択が、
キミを成功に導く。
間違った選択が、
君を幸せに導く。
正しい選択には、
理由がある。
間違った選択には、
意味がある。
正しい選択は、
君がする。
間違った選択は、
神さまがする。
正しい選択は、しばらしい。
まちがった選択は、
もっとすばらしい。
私たちはつい、今のあるがまま
のすべてが、ずっと未来まで続
くような錯覚を持ってしまいま
す。
でも一寸先はわからないのです。
二百年も眠りつづけていた島原
の普賢岳が、ある日、突然火を
噴くように、七十年も続いた
ソビエトの共産主義が、突如と
して崩壊したように、
明日何が起こるかわからない
のです。一寸先は闇です。
常に、世の中のすべては移り
変わっています。私たちが
生まれた瞬間から、老いと
死に向って毎日変わっていく
ように。
それを仏教では「無常」という
言葉であらわしています。
この世に起こるすべてのことは
移り変わる、一時も同じ状態
はないということです。
心もまた無常です。
人と人との関わり、交わり、愛
もまた無常です。
結婚式で、日本古来の神式であれ、
お寺での仏式であれ、キリスト
教のチャペルの式であれ、
どの場合も、神や仏の前で、
新郎新婦は夫婦の愛の永遠に
変わらぬことを誓います。
それでも、夫婦の愛が決して
永遠でないことを、年々、世
界的に増加していく離婚の数
が示しています。
結婚式での誓いは
「変わりません」というより、
「変わりやすい私たちの愛だ
からこそ、どうか、神や仏に
よって、守り、育て、つづけ
させてください」
と祈るべきだと思います。
愛しあっている時は、いつか
自分が裏切られるなど、人は
思いません。
まして自分がこんなに今愛して
いる相手に飽きがきたり、情熱
を感じなくなったりする日が
来るなど想像もつきません。
ところが気がついた時、相手に
別な愛人が出来ていたり、
自分が今の恋人や夫以上に心
惹かれる人が出来ていたり
するのです。
それほど人間の心は不確か
なものなのです。
だからこそ人は愛に誓約や
契約を求め、その証人をつくり
たがります。
それで結婚式や神父や僧侶や
神主に立ち会ってもらい、た
くさんの友人に参列してもら
って証人になってもらうので
す。
でも、そんなことがいかに
虚しいか私たちはもうさんざ
ん愛の破局を見たり経験した
り知っています。
愛もまた無常ということも、
孤独と同じくらいに知って
いましょう。