自分だけを連れて、自分と
一緒に旅に出る。
彼は去年、ある願をかけて回り、
それがかなったので、今回は
お礼参りをしているという。
逆参りといって、愛媛を出発
して徳島に着くというコース
だ。逆参りは、道順などわか
りにくい。旅慣れた人なのだ
ろう。
「今日で一ヶ月半ぐらいになる
んかなあ。あともう少しやね。
四国の山の中を歩いていると、
自然と音しかせえへんから、
それが、ええんです」
お遍路さんには、人々がこと
さら親切にしてくれるので、
旅もしやすいという。二十七
歳になるという若者に、職業
を尋ねると、
「旅人です」と言って笑った
“旅人の荷物のなかに
「心」という軽くて重いものを見ており“
たった一日会えないその時間
が二日ほどにも長く感じられ
たり、デートの時間の五時間
がわずか一時間にしか感じら
れなかったり、
恋の時間は心に正直です。
切なさとか未練とか、ときめ
きとか狂おしさとか、すべて
それはゆったりとした時間
の流れがつくりだすものです。
ふだん、どんなに急いで歩いて
いるかは、きものを着た日にふと
わかる。
食べ方だとか、座ったときの姿勢
とか、小さな仕草のひとつひとつ
が、少し丁寧になっていく。
そう、これはきっと、生き方が
見えてしまう服。
いくら若く美しくても、
しっくり馴染むとは限らないし、
逆に、どうしてもかなわない
80歳のおばさまもいる。
それが、なぜかうれしい。
きものがもっと似合うようになる
ために、
もっときちんと生きようと思った。
あれから、十二年という歳月が
流れた。
あの日、あの夜、闇の底を生き
物のように流れる河のほかには
何もない、
閉散とした駅のプラットホーム
に、おそらく永遠に取り戻すこ
とのできない何かを置き忘れた
まま、わたしはもうすぐ、三十
五歳になろうとしている。
こうして、スピードを上げながら
西へ西へ向かう新幹線の中でひと
り、遠ざかってゆく景色を眺めて
ると、記憶の虚空(こくう)から、
はらはらとこぼれ落ちてくるのは
あの年の記憶だけだ。あの年その
ものが、わたしにとって八番目の
曜日であり、十三番目の月だった
のかもしれない。
今はもう、痛みは感じない。そこ
にはひと粒の涙も、ひとかけらの
悲しみ宿っていない。あのひとの
記憶は愛よりも優しく、水よりも
透明な結晶となって、わたしの心
の海に沈んでいる。
この十二年のあいだに、わたしは
いくつかの恋をした。
出会いがあって、相手を求め、求
められ、愛しいと感じ、結ばれた。
二十七の時には、結婚もした。
不幸にも、夫に好きな人ができ
てしまったため、その結婚はた
った二年で壊れてしまったけれ
ど、それでも二年間、わたしは
とても幸せだった。
ただ、どんなに深い幸せを感じ、
それに酔い痴れている時でも、
わたしの躰の中に一ヶ所だけ、
ぴたりと扉の閉じられた、小
部屋のような領域があった。
扉を無理矢理こじあけると、
そこには光も酸素もなく、
植物も動物も死に絶えた、
凍てついた土地がだけが
広がっている。
だからうっかりドアをあけた4
人たちは、酸素と息苦しさに
身を縮め、わたしから去って
いく。離婚の本当の原因は、
もしかしたらわたしの方に
あったのかもしれない。
こんな言い方が許されるな
らば、わたしは誰かに躰を
赦(ゆる)しても、心を救
したことはなかった。
京セラ会長の稲盛和夫さんは、
「リーダーの仕事は部下を動機
づけることにある。また、誰より
も先頭に立って旗を振ることが
できなかったら務まりません。
そして、部下がリーダーの言葉
に鼓舞されるためには、何より
もリーダーが自分を慎み、自分
の能力や権限を私物化しないこ
とが寛容です。
そういう人に率いられた組織は
伸びます」と語る。
西郷隆盛も自分を偏愛すること
を戒めてこう言っている。
「己を愛することは善(よ)か
らぬことの第一なり。修行ので
きぬも、事の成らぬも、過ちを
改むることのできぬも、功に
伐り驕慢の生ずるも、みな自ら
愛するがためならば、決して
己を愛せぬものなり」
誰でも、自分ほどかわいい者は
いないはずです。でも、それ
は人の上に立つことはできませ
んし、真の友も得ることはでき
ません。
トルストイは、「人と会うとき、
相手が自分にどんなふうに役
立つかを考えないで、
自分がどんなふうに相手に
奉仕できるかを考るがよい」
と言っていますが、少しでも
人のことを先に考えられる
人になりたいものです。
本物に触れることは、本質を
見極めるトレーニングになります。
旅に出ましょう。美術館に出かけ
ましょう。
誰かに会いに行きましょう。
何かを直接見るために、家を出ま
しょう。時間をかけて、足を
運びましょう。
「実際に実物を見る」という意識を
もち続けるのは、たいそう大事な
ことです。
メディアの発達で本物に触れなく
ても情報は手に入るようになりま
したがそれは概略。
インターネットのデーターが正し
いとは限らないし、テレビで映る
ものがすべてとは限らないのです。
だいたいの姿であり、儚いサムネイル
です。
「忙しいから、だいたいわかればいい」
というインスタントな発想は、貧しく
寂しいものです。
僕はインターネットを否定しません。
新しいメディアだと興味を持ってい
るし、必要な道具だとして利用して
います。
本物に触れず、外から学びをインス
タントなものだけに頼っていたら、
そもそも自分の持っていた感覚が、
少しずつダメになっていく気すら
します。
僕の鞄には、いつだってメモと
鉛筆。本物を見たとき、ホンモノの
言葉に出会ったとき、いつでもメモ
を取れる状態にしておきたいのです。
大事なことだから忘れないという
のは嘘で、直観やひらめきは書き
留めなければこぼれ落ちていき
ます。
本物を見て、自分の手で記した
「本物だけのメモ」が増えれば、
どんなサイトよりも心強い、
あなたの情報源となるはずです。
※サムネイル:
多数の画像を一覧表示す
るために、本来のサイズより大幅に縮
小された画像データのIT語のこと。