一羽のオウムがエサをさがし
ながら道に迷い、奥山へまぎれ
こみました。
日が暮れてあたりが暗くなって
きて、我が家の方向さえわから
ず途方にくれていたとき、奥山
の鳥や獣が出てきて、
「オウム君、君は道を間違えたの
だ。今からでは帰れない。明日送
ってあげるから、今夜はボクたち
のねぐらへおいでよ」と親切に案
内し、
「ここに木の実があるから、お腹
いっぱい食べなさい。ここにはお
いしい湧き水あるよ」と教え、
そのうえオウムが寂しくてはいけ
ないからと皆でオウムのまわりを
囲むようにして寝てくれました。
オウムは安心して、ぐっすり休む
ことができ、翌朝、無事に古巣に
もどることができました。
それから数日たったある日、懐か
しい奥山のほうを見ると、親切な
鳥や獣たちの住む山あたりから色
濃い煙が立ち上っています。
いまや全山が火事になっているで
はありせんか。すぐさまオウムは
谷川に舞い降りて、全身を濡らし
て飛び立ちました。
火事の上で身をふって、2〜3滴
の水を落としこれを休みなく繰り
返していました。
このとき、このありさまを谷川の
ほとりの木の上で、さっきから見
ていた他の鳥たちが、あざ笑うよ
うに言いました。
「君のもって行くその僅か2〜3
滴の水であの大山火事が消えると
思うのか。骨折り損のくたびれも
うけとは、そういうことだ」
このときオウムは、
「私のもって行く水は僅かです。
あの大火事は消えないかもしれま
せん。でもあの火の中に、私にこ
のうえなく親切にし、助けてくれた
友だちが、いま苦しんでいるかと思
うと私は止めることはできません。
私は、水を運びます」
と言って、せっせと水運びをつづけ
ました。
すると、一天にわかにかき曇り、大
雨がザアーッと降り出し、さしもの
大火事も忽ち消えてしまいました。
「雑宝蔵経」
という仏教説法
この説法は、人間なら、つまりあな
たならどうするだろうという問いかけ
を、オウムの行動を通しています。
いまの世の中では、主役のオウムを
“バカなオウム=人間”と嘲笑う鳥
たちのほうが“利口な鳥=利口な
人々“であり、賢明な生き方であり、
圧倒的な多数派だろうと思います。
ある大病院で看護婦をしている女性
が、本当は朝、午後、夜勤と3交換
制で看護婦不足の中で、時間を超え
て、熱心に病室を巡回して一晩中、
見守ってあげて、他の看護婦さんか
ら、非難・中傷の対象となりました。
彼女の行為が、看護婦さん全体の労働
条件改善闘争のさまだげになる、彼女
ひとりががんばってもすべての患者さん
を救えるわけではないからはじまって、
彼女ひとりがいい娘になろうとしている
とか・・・・。
このときお寺で説法を受けた話です。
『悟りとは、小さくてもいい
自分の花を咲かせることだ』
どんな小さな花でもいい
誰のものでもない
独自の花を咲かせることだ
他の人々からどう嘲笑われて
も、認められなくても、無駄
骨になってもいい。
その看護婦さん独自の、小さい
ながらも世にも美しい花を、い
つまでも咲かせつづけてほしい。
そして、その小さな花が、やがて
世の中いっぱいに咲きひろがること
を願いながら・・・。