私の中国投資・出張・旅行日記

約30前に香港より当時広州への航空便が難しく、汽車にて中国本土広東省広州に入国し、光景にビックりしたのが始まりです。

大連水師営会見所-41

2008-08-03 17:00:39 | Weblog

水師営会見所     203高地陥落後1905年1月5日ロシア降伏、其の後乃木将軍とステッセル中将が会見した場所にて、皆様も良くご存知の場所です(しかし、この建物は1996年再建)。最初に訪れた時は整備されておらず、この時は良く整備され係員も配置され食堂も併設されておりました。過っては日本排斥の為、203高地とかこの様な場所は日本人立ち入り禁止にしておりました。この当時も203高地等は日本人団体のみ訪問を許可し、個人は訪問出来なかった。当時一部のタクシー運転手が個人でも訪問可能と称し通訳共々訪ねました。入り口への路ゲイト前で運転手が降り建物の裏で交渉し、勿論金銭が絡んでおります。入り口ゲイトバーが上り中に入り、ガレージスペースから上部に上がった所で警察・公安に呼ばれどうして個人が入ってきたのかと問われ青くなった事が有ります。写真は建物内左側の会見場所で当時の写真が掲示されております。    

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瀋陽繁華街のロシア式建築物-40

2008-08-03 16:30:55 | Weblog

旧ロシア式建物    瀋陽繁華街には今でもこのような様式の建物が多くあり(最近は多く取り壊している、写真は2001年)街の中では少し違う雰囲気を漂わせます。この地域は過去の中国の歴史を一部表わすような部分が多く有ります。この写真は向かいに位置するモダンな飲食店の道路に面する席より写した写真です。   

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瀋陽の世界遺産北陵-39

2008-08-03 16:08:52 | Weblog

世界遺産北陵     瀋陽市の北部に位置し清の大宗ホンタイジとその皇后の陵墓で1651年に完成されたと伝えられます。陵は大変大きく泰山路(当時はこの道路は地道であったが現在は大変整備された道路に変わりました)沿いにある北陵公園入り口にて入園料を払い入る。参道は長く(歩行困難な人には有料乗り物があります)両脇は公園になり大きな池もあります。写真は参道を歩き赤く塗られた大紅門をくぐると神道となり、その神道の両側に石で造られた石獣が並んでいる場所を写したものです。そのまま進めば陵墓の中心に出ます。陵墓は一番奥にあります。円形陵墓前には居留地があり極寒の地らしきオンドルの様な暖房施設が屋内に設備されていました。    

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本渓の硯-38

2008-08-03 12:36:38 | 中国旅・旅行・出張

瀋陽本渓の硯   瀋陽市内より汽車・自動車を乗り継ぎ当ブログ36番椎茸工場へ現地役人の案内にて途中立ち寄ったキノコ類・椎茸販売兼業硯類展示場にて撮影した商品見本です。大変立派な硯が並べられ私には購入出来るような値段ではありませんでした。この辺りは冬は大変寒く零下数十度の地域で当時期は一面トウモロコシ畑でした。現地で休憩時には蒸しトウモロコシ・その他トウモロコシ料理(実は白)が出されました。     

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満州事変発端の地-37

2008-08-03 12:06:25 | Weblog

奉天歴史博物館   中国では九・一八歴史博物館と称する博物館です。私は度々瀋陽を訪れておりましたが、2000年に当施設を訪問しました、大変大きなものです。満州事変発端の地、柳条湖に記念し建てられました。博物館は終戦後1991年に60周年を記念し、時の要人の署名が大きく建物に書かれております。館内には戦争歴史を物語る写真・遺品が展示され、その当時一部の部屋には日本人が入る事は禁じられておりました。その部屋は203高地にある施設と同じく問題映写がなされていたようです。しかし、多くの展示品は他のこのような施設に類似した物が多かったと記憶します。館内は私が訪れた時期6月、日本人は私1人中国人を含めその他の国の人は写真の如く見かけませんでした。其の後、当地の人にこの施設に就いて尋ねると見学をした人はありませんでした。    

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