ウィキペディアにて『垂仁天皇』を開いて、『皇居』の欄を視て見ますと、
『日本書紀』には都は纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)で、『古事記』には師木玉垣宮(しきのたまがきのみや)になっています。
どうして違うのでしょうか?その下の『事績』(日本書紀の編年に拠る)の欄の2行目に、
『垂仁天皇元年1月即位。翌2年2月に狭穂姫(日子坐王の娘)を立后、10月、纏向に遷都した。』となっています。
これは、師木の玉垣宮を纏向の珠城宮に移動したことになります。
即ち、九州久留米市城島の『大善寺玉垂宮』を奈良飛鳥の『珠城宮』へ遷都したと理解できます。
と謂うことで、崇神天皇が治めた九州王朝は垂仁天皇の即位2年の10月に奈良飛鳥王朝に移動になったものと考えられます。
垂仁天皇はその後、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめみこと)の箸墓古墳を改めて作ったものと考えられます。
そして、此の時点からが本当の意味での飛鳥大和王朝の始まりと考える事ができます。
天皇を迎えるため天族(海族)の同胞は、何世代もの間近隣諸国の豪族と友好血縁を深め、次々と親族を増やしていたものと想われます。
四道将軍の派遣によって、周辺の敵が居なくなり安全が確保されるようになった事と、大規模古墳の築造に見られるように近畿の経済の豊かさが増した事も挙げられましょう。
と謂うことになりますと、磐井の乱の解釈が違ってまいります。
第10代崇神天皇は(此の時まで生きられて居たかどうかは疑問譜が残りますが、)第11代垂仁天皇と伴に、一族ほか巫女(オホタタネコ)や高官・職人等、様々な人たちを大勢従えて奈良飛鳥の地へやって来ました。
しかし、八女・久留米・朝倉等北部九州に残った親族も大勢いたものと思われます。残った人々は九州が聖地(本家)の意識があったものと思われます。それで、第12代景行天皇や第14代仲哀天皇が九州を長期間うろついたのも理解できます。
後世、第26代継体天皇はその地を攻めたのです。
20年もの間、飛鳥の地に這入れなかった訳が解明されました。
そして、筑紫の君葛子が『屯倉』の返還だけで許されたのも理解できます。 また、岩戸山古墳が破壊されなかった訳も頷けます。
大和に居た、九州から来た人々は、継体天皇を決して許さなかったものと考えられます。
大胆な想像ですが、磐井の乱の『磐井』とは『斎(いわい)』の事で、息長氏の事を指しているとも考えられます。
息長氏(継体天皇)が息長氏(斎=いわい)を滅ぼした事になります。
磐井の乱の本当の真相は、飛鳥朝廷での単なる天皇の跡目争いだったのかも知れません。