「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。9

2011-12-06 | 古代史

最後に、初代神武天皇です。

 

古事記では、白檮(かし)原に住んで居て畝火山の北の方の白檮(かし)の尾根のほとりに埋葬された。事になっています。

 

橿原市にある畝傍山の北に位置する神武天皇陵をネット地図にて確認をしてみますと、そんなには違和感を生じません。

 

橿原(かしはら・かしはる)は香春(かはる)や香椎(かしい)とも似ていますが、どうも、これは違うようにも想えます。

 

しかし、地図にて福岡市香椎近辺を探りますと香椎原と謂う字がありました。橿日原(かしひはら)が橿原(かしはら)に変化したとも、あるいは逆に橿日が橿日原→橿原に変化したとも考えられますので、東征以前に神武天皇が此処に居たとも考える事が出来ます。

 

神武天皇は、『記・紀には詳しく経過が説明がなされており、矛盾点や疑問点が地名上では見出す事が出来ませんので、多分飛鳥で亡くなったものと想われます。

 

ただ一点、出発地である日向を、宮崎の日向と謂う風に考えるのが一般的ですが、福岡の西区から前原町にかけても日向川や日向峠の名前が認められます。近くには、高祖山や飯盛山が見受けられ、野方遺跡、吉武・高木遺跡も近くに在り、数多くの遺跡が見受けられます。

 

神武天皇の母は、玉依姫(たまよりひめ)で海神の娘(わたつみのむすめ)とされています。対岸の志賀之島には海神社(わたつみじんしゃ)の総本山があります。

 

神武天皇は日向(ひむか)吾田邑(あたむら)吾平津媛(あひらつひめ)と結婚して、手研耳命(たぎしみみのみこと)を生んだとされています。

 

この吾田邑(あたむら)は前原町の有田か室見川傍にある有田の事かも知れません。

 

これは、検討の余地が残ります。

 

そう謂えば、記・紀では、神武天皇はに向かって船出をして、速吸之門で一艘の小船の珍彦(椎根津彦)に出会います。そして筑紫の菟狭(うさ)に行きます。その後、筑紫の岡水門に寄り道をして、安芸の国を経て吉備の国へ向かうのですが、

 

神武天皇が宮崎の日向から出発したら、菟狭(うさ)への方角はへ向かう事となり、

疑問が残ります。

 

博多(日向)から出発すれば、東には速吸之門(関門海峡)があり、理に適います。

 

やはり、博多の日向が出発地と考えるのが自然のように想われます。そして、其れまでは香椎宮に住んでいたものと想われます。

 

神武天皇は博多出身の人と謂う事に考えられます。)

 

 

 

《追補》2024年2月22日

神武天皇=崇神天皇が、即位した場所は、磯城(久留米市荒木玉垂宮)から出陣して、佐賀県神崎の吉野ヶ里(高躬結び神一族の領地)を占領。その後は日の隈公園(西九州大学)近くの西郷『柏原』で即位滞在した。でありましょう。その後は背振山系を制圧し、糸島の瓊瓊杵尊由来の三雲を制圧、避難していた第2代天照大神向津姫=瀬織津姫を殺害。墓は朝倉山田の『長田大塚古墳』に造られたものと考えられます。

因みに、磯城(久留米市荒木)が、荒木村重の源元地と想われます。西郷隆盛(秋永氏流れ)も、神崎市西郷が源元と考えられます。

 

 

 

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