わたくしの説で、ひとつ気に罹りますのが、崇神天皇の没した年であります。
わたくしは、崇神の誕生を、宇那比姫命(卑弥呼)の誕生を基準に、西暦222年頃と仮定しましたが、『古事記』では没年干支は『戊寅』(つちのえとら)年に亡くなった。と記入されており、此れを信用した研究者に依ると西暦258年か、その60年後の318年の没であろうか。が検討されております。
単純に258年説に当て嵌めますと、36歳で亡くなった事になります。
318年説に当て嵌めますと、96歳で亡くなった事になります。
『崇神天皇』は開花10年に生まれ、崇神68年12月5日の崩御とされています。
わたくしの『崇神』の誕生の計算は、『開花』が17歳の頃に『崇神』が誕生したと仮定して西暦222年を導いていますが、開花10年に崇神が誕生したのが本当であれば、7歳繰り上げて西暦215年の誕生と謂う事になります。此れを258年説に当て嵌めて考えますと43歳で亡くなった事になります。しかし、開花の崩御は開花60年4月9日とされ、一般的な即位の形態(前王が崩御の後に皇太子が即位する)をとれば、崇神の即位は50歳である事になります。
318年説に当て嵌めると103歳で亡くなった事に為り、崇神68年没を当て嵌めれば118歳の生涯となり、如何考えても計算が合いません。
開花から崇神へは禅譲が在った。と考えれば、時間軸は合いますが、崇神68年没が邪魔をします。仮に、二倍暦で考えますと、崇神34年没になり、9~10歳で即位した事になります。此れだと納得が行きます。
改めて二倍暦を使って孝元(孝霊18年生~孝元57年11月12日没116歳)・開花(孝元七年生~開花60年4月9日没の110歳)・崇神(開花10年生~崇神68年12月5日没の118歳)
(以上ウィキペディアに拠ります。)の生存年齢を検討してみる事に致します。
わたくしの説では、『孝霊』は居なかった事になっていますので、孝元の部分の約58歳で考えますと、二分の壱の29歳で没と仮定します。
『開花』は110歳の半分の55歳の生涯。と仮定して考えれば、父である孝元が17歳の時に開花が生まれ西暦205年頃(伊香賀色謎=下照姫21歳)、開花が12歳の時に孝元が亡くなり即位(西暦217年頃)、21歳年上である、父孝元の妻の伊香賀色謎(玉依姫33歳)を見初め結婚。開花15~16歳位(西暦220年頃)(玉依姫命35~36歳)で崇神を生み、『開花』は即位後(60年の半分)30年4月9日(西暦247年)にて崩御(開花は12歳で即位して、その後30年生きたので42歳の生涯)。その時崇神が27歳で、即位する事になり(西暦247年頃)、此の頃より以前から後継を巡って高木神・和邇氏(彦坐王=彦湯産隅命=景行天皇)と政争が起きており、交戦状態に陥ったものと考えられ、西暦247年に宇那比姫(宇奈岐日女)が助けを求めて、その後亡くなります。
その後、『彦坐王』外、大勢の『和邇氏』とその支持者が(『安本美典氏』が述べられています)『地名』と伴に狗呉の居ない新天地(近畿)に渡って往った。ものと思われます。
此れは『魏』から『倭の大目』として遣って来た『張政』一行が調停に中り、高木神・和邇氏(彦坐王=彦湯産隅命=景行天皇)一族が『倭』(北部九州)から『大彦命』が居る近畿纏向へ移動する事で決着し、崇神紀12年(半分の6年後の崇神33歳の頃)(西暦253年)人民から『御肇国天皇』と褒め称えられます。と記入していますので、騒乱は治まり、平穏太平が訪れたものと思われます。
此の調停員の中に『天之御影神=高躬結び神』が、息子(日高彦彦穂穂出見尊)の嫁(息長水依比賣)と伴に通訳を兼ねて居たと想われ、『天之御影神=高躬結び神』は、須佐之男が連れて来た新羅人との交渉を行ったものと考えられます。
天孫族は遣り過ぎた『須佐之男王』を『倭王』から追放する事で事態の収拾を諮り、治まったものと考えられます。
『天之御影神=高躬結び神』の来る以前は、天孫族以前から居た『句呉』の『王』と考えられ、『狗古智卑狗』(隈氏)が考えられます。
わたくしには、『崇神』『玉依姫命』は『句呉』狗奴國(熊本県菊池市)の王(狗古智卑狗)を味方に付けて一緒に戦ったと考えています。『卑禰弓呼』(ひみここ)とは多分『崇神』と『玉依姫命』を指しているものと考えられます。
そう考えますと、247~248年の卑弥呼(宇那比姫)の死は『崇神』『玉依姫』に殺されたものと想う事も出来ます。
一方の近畿纏向に渡った『彦坐王』は、孝霊天皇=景行天皇として周辺に遠征し、天皇としての権威を示して豪族を従えていったのもと思われます。
こうして、倭と近畿纏向が分かれたものと考えられます。二倍暦説で考えますと、その後20年生きて『崇神』は61歳の生涯であった。(西暦281~282年没)と想像できますが、
古事記の『戊寅』(つちのえとら)を信じますと、258年説であれば38歳で崩御。318年説であれば98歳で崩御。何れも可能性がありますが318年説はちょっと不利です。、考えが迷われます。う~む。
『垂仁』が近畿纏向に往った理由と時期が、気になります。考察してみましょう。
『垂仁』は、『崇神』29年1月1日に生まれ『垂仁』99年7月14日に崩御した。とされ、二倍暦説で考えますと、『崇神』14年~15年頃(西暦235年)城島(師木)で生れて、何時即位したかは不明ですが、
日本書紀に依りますと、『垂仁』は、『崇神』48年4月に皇太子に為ったとあり、此れは『崇神』24年4月と考えられ、10歳の時(西暦245年)に皇太子に為っていると思われます。そして、『崇神』68年(辛卯)没の『辛卯』(かのとのう)に拘りますと西暦271年没(51歳)に考えられます。が、『崇神』68年を二倍暦説での34年と考えますと西暦255年(乙亥)(きのとのい)没(35歳)になります。
もし、258年説を採りますと(垂仁23歳)の時期に『玉依姫姫』(74歳)が亡く為って居た場合は、『垂仁』と母『御間城姫』(大彦命の娘)は纏向に居る父『大彦命』(彦坐王の伯父さんになる)を頼ったと考えられます。『大彦命』は甥の『彦坐王』を説き伏せ、『彦坐王』が春日に残して居た『狭穂姫命』(彦坐王の娘)を『垂仁』と婚姻を結ばせる事を条件に、近畿纏向へ受け入れたものと考えられます。
如何も、258年没。であれば歴史の解釈が納得できます。
ですから、『狭穂彦王の乱』にて『狭穂姫』が焼け死ぬ時、『垂仁』が『狭穂姫』に向かって「お前を失ったら自分(垂仁)は如何したら良いのでしょうか?」と訊ねます。『狭穂姫』は、『彦坐王=景行天皇』と『息長水依比賣命=天鈿女命』の間の子である『丹波道主命』が儲けた『四人の娘』を娶りなさい。と助言して亡くなります。
此れは、垂仁の当時の立場が推察されます。日田纏向には、彦坐王(孝霊天皇)=景行天皇が『大王』として権勢を有していたものと考えられます。
『垂仁』が、倭から近畿纏向への移動の理由は、疫病の流行と、其れによる風評に依る政情不安と熊本県菊池市の『狗呉王朝』の脅威であったと感じられます。城島(師木)の周りは狗呉人ばかりで、何時襲撃をされるか不安で、『崇神』は亡くなる時期には城島(師木)から政情の落ち着いていたと考えられます杵築へ移動しております(西暦253~254年頃)。(此処で、豊城入彦命・豊鍬入姫・大入杵命・八坂入彦命・渟名城入媛・十市瓊入媛命を儲けて育てています。)
『玉依姫』『下照姫』は、城島(師木)で孫の活目入日子(垂仁)と嫁の御間城姫と伴に居たものと思われますが、『崇神』の崩御の258年より以前に亡なって、『高良廟』貝塚古墳に埋葬されたのもと想われます。
『崇神』の崩御にて、危険を感じた23歳の『垂仁』は『御間城姫』と伴に纏向に渡ったと考えられます。北部九州(特に筑後)には、矢鱈『隈』(句呉と考えられます)の地名が多いのです。此れは、狗呉族が北部九州を席巻していたと考える事が出来ます。
『垂仁』は二倍暦説では即位後50年程生存しています。(西暦308年年頃の崩御73歳)
崇神は258年に亡くなり、38歳での一生を終えたと想えます。
『垂仁』はその後、孝霊(彦坐王)=景行天皇の後を継ぎ、近畿奈良纏向の『大王』になり、父『崇神』の墳墓を、奈良纏向(行燈山古墳)と杵築(小熊山古墳)に築いたものと考えられます。