「わたくしの説で、ひとつ気に罹りますのが、崇神天皇の没した年であります。」と述べて考察をしてきた訳ですが、一番の気懸かりは、初代卑弥呼(247~248年没)の後に13歳で二代目を継いだ『臺輿』(とよ)は、如何も『竹野姫』では無い。と考えられるのです。
『竹野姫』は209年頃の誕生であります。と述べていますので、此のお方は当然該当を外れます。
『崇神』(西暦220年生まれ)の子であります、杵築で生れた『豊鍬入姫命』が、西暦235年頃の生まれと考えられますので、時間軸と実績がぴったりと該当致します。
中国の史書であります梁書(636年完成)の『東夷伝』には『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命』と記され、
晋書(648年成立)の『東夷伝』にも、『立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢』と同様に述べて在りますが、魏書(280年~297年の成立)の『東夷伝』との整合をしますと、
『倭女王(臺与)』と伴に、その後、爵位を受けた『男王』とは、以前に述べた『竹野姫』と『開花天皇』では無く、杵築に居た13歳の『豊鍬入姫命』と、『狗呉』(こうご)と組んで『彦坐王』(和邇氏)を追放した『崇神天皇』=『卑禰弓呼』(ひみここ)の事であった。とも解釈されますが、
『崇神』は258年に亡くなっていると考えられ、此れが釈然と致しません。
爵位を受けたのは『崇神』が247年に即位してから生きている間(258年)でありましょうか?
張政が正始八年(247年頃)から266年まで倭に留まっており、その時、勝手に独断で爵位を授けたとも考えられます(魏は265年に晋に禅譲になっています)
が、爵位は『王』が与えるもので、張政が爵位を与えたとは考えられず、多分266年に帰国した時一緒に朝貢しており、「男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。」と記されています。
『西晋』の武帝司馬炎から拝受したものと考えるべきでしょう。
『崇神』は258年没で考えますと、『其後復立男王』とは、『垂仁』であると考えられますが、『垂仁』は、『崇神』の15歳頃(西暦235年頃)に生れ、24歳頃(西暦244年)に皇太子(垂仁10歳)になったと考えられますが、『崇神』が亡くなった時(西暦258年)は『垂仁』23歳で、直に即位し、喪に服し、翌年(西暦259年)2月に狭穂姫と結婚し、その10月に久留米から纏向に渡っています。此れは慌しく感じられ、喪が明けて直の時期の行動である。と感じられます。何かが起きています。
感じますのは(疫病は、253年頃には収まっています)狗呉族(狗古智卑狗)の叛乱を受けて、近畿纏向に渡って往ったと考えるべきでありましょう。
そうしますと、城島(師木)の『瑞垣宮』に居た王は『狗古智卑狗王』(隈氏)か、『開化天皇』で有ったと考えられ、晋書『立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢』に記された『男王』とは『狗古智卑狗王』(隈氏)か、『開化天皇』を指す事に為ると考えられます。
『狗古智卑狗王』か、『開化天皇』が爵位を受けたのであれば、『古田武彦』氏が主張されています、白村江の戦まで続く『九州王朝』(狗呉王朝)の初めての天皇を意味しているとも、捉えられます。
『豊鍬入姫命』は杵築市で二代目卑弥呼として生き、亡くなったものとも考えられますが、わたくしには、如何も久留米市~北野~田主丸周辺に多く在ります『豊比咩神社』が気に為ります。此れの解釈は『豊鍬入姫命』とも考えられる事になります。
筑後平野へ来ていたもの。と考えられます。
墳墓の場所が気になります。
《追補》
2015年5月11日の『崇神天皇は西暦258年10月に景行天皇に殺された。(倭の大乱第3幕)と考えられます。』の考察により、景行(彦坐王)は杵築にて、崇神を討伐した後、熊襲を討ち、その後高岡宮(鳥栖市弥生が丘~基山町と考えています)にて六年過ごして國乳別皇子ら三人の子を儲けて、倭(北部九州)平定を図ります。出身地(和邇氏)浮羽に最後の3日間を過ごして、其の時に高橋邑傍の赤司八幡宮に寄り、水沼(三潴)君の『猿大海』に多祁理比賣命を祀ることを命じたものと考えられます。田主丸町以真恵地区の息長氏(現在秋永氏が13軒有り)の隣の鹿狩(ろっかり)地区の磐鹿六雁命を連れて近畿纏向へ帰って行きます。(西暦265年頃)
西暦266年に爵位を授けられた『其後復立男王』とは『その後再び即位した男王』と解釈され、『狗古智卑狗王』ではなく、西暦251年頃近畿纏向に渡り、西暦258年に『崇神』の治める倭を統一した『景行(彦坐王)(長髄彦)』大王であった。と結論着けられます。