Nonsection Radical

撮影と本の空間

「死の街」と「ひばくなう(^ ・・)」

2012年05月15日 | Weblog
ツイッターで断片的につぶやいていたのは、感覚的なものなのでハッキリした言葉で言い表すことが難しいと思い、詳しく書くのはやめようと思ったけれど、自分で頭を整理するためにも出来るだけ取りまとめてみたいと思った。
これから書く事は、だれか特定の個人を示して、ああだこうだということではない。
今の世の中にかなりウップンがたまってきており、それが暴走する危険性が高まってきている気がして、この社会の行く末が恐ろしくなったという話だ。
これが日本人の特質であるなどとは言えはしないのだろうが、これまでも幾度か繰り返してきた暴走は決してなかった事にはできないし、どうも同質の問題をいつも抱えながら同様な振る舞いをいつもしているように思えるので、こういうことを繰り返してきたんだ我々は、とは言えるのではないだろうか。
それは、社会的に不満や不安、イライラ、怒りなど、現実的に対処出来ない事柄が続いていると、何かのきっかけでとんでもない方向へ暴走して爆発し、その後、憑き物がとれたようにさっぱりして、暴走したことなどは、それを是とし、サラリと流し去る事が繰り返されてきた事を言う。
問題の本質がどうしようもない場合、その問題から他へ転化し、本来の問題を忘れて、あたかも転化したものが事の本質であるかに勘違いして、”ウップンばらし”のごとく攻撃的暴発をすることがこれまで繰り返されてきた。
それが、東北大地震をはじめとする震災、原発事故の対応において、1年が過ぎても何の解決方向も見いだせず、そのうえ夏の電力不足予想など、社会的不安を感じる状況が重なり、閉塞感に包まれた世の中がますます重苦しく国民にのしかかってきている今の状況が、かなり危険な雰囲気を感じさせることにゾッとした。

あの「死の街」”発言”の時に、どのような反応があったか覚えているだろうか?
「死の街」という言葉尻”しか”問題にせず、「不謹慎だ」「ひどい」「福島の人の心を傷つけた」と発言したとされる人物をバッシングしたではないか。
そして「死の街」と表現された街を作り出した根本的原因に関してなんら”バッシング”に相当するような反応を示さなかったではないか。
菅下ろしにしてもそうだ。
安直な反応でバッシングして、その先に関してはあまり興味を示さず、忘れた頃に「検証」によって当時の内容を知り、手遅れの時間を噛み締めるだけであった。
問題にしたのは「言葉尻」だけ、その背景を想像もせずにただ言葉狩りのように暴走し、発言者を消し去る事でウップンを晴らしたかのように終幕した。
もちろん「死の街」はそのままの状態である。
事故発生者の東京電力は、いまでも言葉を濁し、責任から逃れようとし、国民から強い”反感”を直接受けていない事をイイ事に自社主導で事故対応を進めようとしている。
それに対しては、なんと手ぬるい反応なんだろう。

そして最近は上杉隆氏のツイッターにおける「ひばくなう(^ ・・)」発言に対してだ。
最初この話題を知った時に、誰かの行動に対して上杉氏が「ひばくなう(^ ・・)」とからかったのかと思った。
その事に対して、他の人が「不謹慎だ」「ひどい」「福島の人の心を傷つけた」(どこかで聞いた言葉だ)と批難したのかと思った。
で、ツイッターをさかのぼってみると、どうやら上杉氏が福島の原発の近くまで行き、放射線測定器での数値を画像で送り、その際に「ひばくなう(^ ・・)」としたためたのだ。
つまり自分が放射線に曝されていますよと現場報告したわけだ。
これは揶揄?面白発言?
自らを高い放射線に曝してタチの悪いギャグ?
このように言うと、そんな場所に行くのは”自己責任”で勝手だろうという人がいるが、そういう人は立場で人の命を推し量っているわけだ。
現地に住んでいる人の命は尊く、自ら行く人のはそうではない?
現地に残された動物は殺処分されても尊くない?
尊きものに区別をつける?

では、どのように報告すればよいのだろうか?
某有料放送局のようにかしこまって発言すれば済んだ問題なのか?
画像の数値は鮮明ではないけれど、4870CPMではないかと思う。
これも正確な数値はわからないが、40マイクロシーベルト/hぐらいではないかと思われる。
つまりそれぐらいの放射能に自らが曝されている状態をヤバイなあと思っているような顔文字もつけて「ひばくなう」とやったわけだ。
もちろん”ひばく”しているのは上杉氏自身である。
自らの状況を自らが適切と思い表現した言葉が「ひばくなう(^ ・・)」だ。
「不謹慎だ」「ひどい」「福島の人の心を傷つけた」言葉なのか?
いつものパターンで言葉だけが一人歩きし、ただただその言葉尻だけをとらえて、またいつものバッシングではないと言い切れるのか?
この国にはびこる言葉は「不謹慎」。
不謹慎なことも考えられないほど追いつめられている。
そのことに気がつきもしないアタマで新たな事をどうやってこれからの社会を生み出せると思っているのか?
まるで戦争中みたいに、ただただ頭を低くして耐え忍び「非国民」とか「国賊」とか平気で口にする空気になるのが「自由」なのだろうか?

その社会状況が恐ろしいと感じたのだ。
かなり社会的閉塞感が強くなっている。
それがどこかに暴走して暴発する危険性を感じたのだ。
それぞれの人は、上杉発言に対して憤りを感じているつもりなのかもしれない。
しかしその根底に何があるか考えた事はあるか?
何かをきっかけに”ウップンばらし”をしようという心理が働いていないのか?
これまでそういう事を繰り返してきた事を頭の片隅にでもおいているか?
事の本質は何かを考えようとしているか?
ただ言葉の上に言葉が重なり、本質的問題とは関係なくモノゴトが誰の方向するものでもないところへ向かってはいないか?

福島で事故が起こり、それに対しての東電や政府、マスコミの対応に初めてと言っていいぐらい国民がものを言う自由を行使し、少しは新しい”民主主義”というものが生まれるのかと期待もしたのだけれど、一方で誰かの発言をきっかけに全体主義的に、ひとつのとらえ方、ひとつの振る舞い、ひとつの価値観しか「許せない」不自由さを発揮するのは、どうしても”あの時代”を想像してしまうのだ。




京都府八幡市橋本中ノ町
コメント
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