北原みのり著「毒婦。」の事をつれづれなるままに考えるのだけど、わからないというのが今の感想。
たとえば何かに関して意見を持つとか、まとまった考えが出来るにはどれぐらいの情報とか知識が必要なんだろう。
少なくとも読んだその一冊とか、数冊では、それで自分の意見とするには不足だろう。
まずはその著者のこれまでのものすべて、そして著作のおしまいに掲載されている参考文献をすべて読むぐらいでないと、その著者の言いたい事はわからないだろうし、ベースになる知識も備える事が出来ないだろう。
まあそれで数十冊か100冊オーバーぐらいか。
それから同様の他者の文献も当たり、反論するものにも当然目を通す事になる。
そうやって、どのような状況でどのような事が論じられ、それぞれの主張、反論、正しい事、間違っている事をピックアップできて、初めて自分の立ち位置がおぼろげながら見えてくるのではないのか。
もちろん世の中は刻々と変化していくので、継続的に注視していく必要がある。
まあそれぐらいで1000冊ぐらいか?
それぐらいして「自分は”今”こう思うんだけど・・・」程度の認識が出来るだろうか。
それも次々に読みこなしていく文献によって、変化し、転向し、認識を新たにし、確信していくのだろう。
ところがそのような最低限度の事もしていないような話を平気でネットで繰り広げる人がいるようだ。
すぐに底が見え、非論理的で、感情的でありながら、それを自分では気がついてもいないような、すぐに反論されて恥をさらすようなレトリックを”披露”し、「ハッキリ言って、あなたハズカシいんですけど」と言いたくなる”論”を執拗に繰り返す(つまりちっとも進化していない)。
そんなものが飛び込んできた身にもなって欲しいよ。
面と向かってなら「バカ」と言ってやれば済むのだが、文字だとそれも理解出来ないようだ。
元々言いたいだけなのだから。
さすがに声で「バカ」と言ってやると多少は通じるのだ。
文字にしてエラソーな事を書くのなら、自分が何を知らないかを理解し、それをいかに隠して賢く見せるかぐらい努力が必要なのだ。
そうじゃないと「無知の恥」になってしまうのだ。
有馬温泉 路地を歩く2
たとえば何かに関して意見を持つとか、まとまった考えが出来るにはどれぐらいの情報とか知識が必要なんだろう。
少なくとも読んだその一冊とか、数冊では、それで自分の意見とするには不足だろう。
まずはその著者のこれまでのものすべて、そして著作のおしまいに掲載されている参考文献をすべて読むぐらいでないと、その著者の言いたい事はわからないだろうし、ベースになる知識も備える事が出来ないだろう。
まあそれで数十冊か100冊オーバーぐらいか。
それから同様の他者の文献も当たり、反論するものにも当然目を通す事になる。
そうやって、どのような状況でどのような事が論じられ、それぞれの主張、反論、正しい事、間違っている事をピックアップできて、初めて自分の立ち位置がおぼろげながら見えてくるのではないのか。
もちろん世の中は刻々と変化していくので、継続的に注視していく必要がある。
まあそれぐらいで1000冊ぐらいか?
それぐらいして「自分は”今”こう思うんだけど・・・」程度の認識が出来るだろうか。
それも次々に読みこなしていく文献によって、変化し、転向し、認識を新たにし、確信していくのだろう。
ところがそのような最低限度の事もしていないような話を平気でネットで繰り広げる人がいるようだ。
すぐに底が見え、非論理的で、感情的でありながら、それを自分では気がついてもいないような、すぐに反論されて恥をさらすようなレトリックを”披露”し、「ハッキリ言って、あなたハズカシいんですけど」と言いたくなる”論”を執拗に繰り返す(つまりちっとも進化していない)。
そんなものが飛び込んできた身にもなって欲しいよ。
面と向かってなら「バカ」と言ってやれば済むのだが、文字だとそれも理解出来ないようだ。
元々言いたいだけなのだから。
さすがに声で「バカ」と言ってやると多少は通じるのだ。
文字にしてエラソーな事を書くのなら、自分が何を知らないかを理解し、それをいかに隠して賢く見せるかぐらい努力が必要なのだ。
そうじゃないと「無知の恥」になってしまうのだ。
有馬温泉 路地を歩く2