Nonsection Radical

撮影と本の空間

他人の批評

2013年04月24日 | Weblog
今はシロート批評の時代だ。
一因には、”クロート”批評家のそれが物足りなかったり、的外れであったりと思う人が「私はこう思う」と発言出来る環境が出来た事にある。
ネットには食べ物やグッズ、製品、本などに関する”批評”がたくさんある。
それはそれで有用なのだろうが、批評する人の立ち位置がわからず、何を基準に批評しているのかわからない事が多い。
それぞれにそれぞれの嗜好と思考があり、独自の基準で批評しているのだが、各自は自分は”公正中立”の立場だと思っている人が多い。
そこで評価が分かれた場合、”友好的な”やり取りがあればイイのだが、やはり”公正中立”ではないので、独自の意見をぶつかり合わすか、お互い無視を決め込む。
「ふ~ん、そういう見方もあるのかぁ」と思えればイイのだけど、そこまで”公正中立”ではなさそうだ。
それ以前に、理解不足であるだろうと思わせる取り上げ方もあるのだが、それを指摘するのはルールに反するかのように指摘しない。
指摘しても、まあ納得はしてくれない。

そういう”時代”に批評をどのように有効活用するべきかは、それこそ批評の数ほど方法はあるだろう。
たとえば、評価を鵜呑みにして、食事をしに行ったら思ったほどではなかった、と批評する人もいる。
その批評が、他人の批評に対する批評なのか、自分で感じた事での批評なのかは判断出来ない批評だったりするから厄介だ。
味の嗜好など千差万別だし本来公正なものなどないのだが、各自はどこかにあると規定する基準で公正に判断しているつもりになりがちだ。
そもそも自分の嗜好を自覚して吟味しているのかも不明だ。
satoboなどは、美味い、不味い、美味くない、不味くない、美味しいわけではないが食べたい、などの基準を設けているのだが、これが他人に通用するとは思っていない。
甘いのが好きな人嫌いな人、辛いのが平気な人苦手な人、酸っぱい、苦いを噛み締める人、しない人、それぞれだから。

またモノに関しても同様で、使い方も違えば、好みも違う。
使いにくいけど好きという人もいれば、ブスだけど好きという人もいれば、イケメンじゃなければ絶対イヤと言う人もいる。
そういう世界で批評、あるいは評価をするという事はどうすればイイのだろうね。
それぞれが好き嫌いを主張するだけでは批評にはなり得ない。
でも批評するのは、自分の好き嫌いを誰かにわかってもらいたいと思う行為でもあるし。
そういう世界で批評は成り立っているんだとは感じて欲しいけどねぇ。




中野ふれあいロード北商店会 東京都中野区


大橋通り商店街 奈良県御所市
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