Nonsection Radical

撮影と本の空間

身の丈から遊びへ

2016年08月16日 | Weblog
コメントを書いていてふと思い立ったので。
バブルが弾けたと言われたときに、今後はこの”不景気”といわれる状態が日常になるのだから、それに合わせた生活をしなければならない、なんてことを書いた覚えがあり、実際に二度と好景気など来なくてずっと不景気だと言われ続けている。
もちろん不景気なのではなく、日常なのだが、こういう日常で暮らしていくうちに好景気こそ悪だと思うような振る舞いが感じられる。
バブル=悪 という決算
中身のない好景気だったから弾けたといわれるが、中身のある好景気など高度成長期だけで、実際中国など成長が止まったら不景気風が吹いている。
実際の経済状況に合わせた生活を行なえば、当然経済は伸びないし、必要なものは日常のものだけになる。
それでいてものが売れるようになるには・・・と考えるのは無理がある。
そこでアベノミクスなんだけど(笑)、無理無理小バブル状態を作って、その間に企業が新しいものやサービスを開発し、新たな成長を・・・と目論んだのだけど、肝心の新しいものが何も生まれず、既存の古いものだけが生き延びる手助けにしかならなかったわけで。
だからアベノミクスの数年で世間が何か変わったかというと何も変わらず、むしろ守りの姿勢が強くなった結果、新しいことへの”反発”が強くなり、”違うこと”へのバッシングがネットなどで繰り広げられている。
流行語大賞(死語)で言えば「顰蹙」であろうか。
そんなところに好景気など生まれはしないのは当たり前。
標語で言えば「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」の世界か。
だけどね、経験から言うと、そんなことをしていても何もイイことはないわけで、むしろ無駄な振る舞いこそ身のため、世のためになるのが第三次産業中心の世の中なんじゃないのかね。
そんなことを言っても先立つものが・・・となるけど、「お金は後からついてくる」というコトバもあるぐらいで、お金は結果であるのがバブルの経験からも言えるわけですよ。
だってバブルに中身がなかったのに、なぜ好景気だったかといえば、人々が”踊らされて”(ジュリアナのことではないけど)ある意味”文化”という実態のないものにお金をつぎ込んで(実際は遊びに)、それでお金が回った結果だったんだから。
その遊びの実態なんてものは何もなくて、ただただ毎日忙しく働いて、鬱憤を晴らすように遊んでいただけで、それに呼応する新しい遊びをみんなが生み出してきた結果があの好景気(の一部)だったわけですよ。
当然ながら当時の風潮をバッシングする声は強かったんだけど、そんなものを吹き飛ばすようにみんな遊んでいたんだよね。
当時よりももっと第三次産業への依存が強まっているにもかかわらず、相変わらず「モノづくり」への回帰を叫んでいるのは、ハッキリ言って時代錯誤でしかない。
だって成長は止まっているんだよ。
おまけに新しいものを作り出せないんだよ。
既存のものを相変わらず作ったって仕方ないじゃない。
そんな中で身を縮めて暮らしていく先に何があるというのかね。
流行などというのは中身のないバブルそのものなんだけど、流行を否定する人は多くないでしょ。
だったら流行を作り出してお金を回すのが得策なんじゃないのかね。
特に各地でプチ流行など作り出せば、コガネが回って現状にマッチすると思うんだけど。
それには現在の風潮である「違うことを叩く」というのをやめないと。
違うことがたくさん出てきて、その中からそれぞれが好みにあったものを選んで、大企業が儲かるわけではないけれど小さなお金の流れが出てきて・・・というようなことが身の丈にあった”成長戦略”になるんじゃないのかねぇ。
大きなバブルなんて二度と来ないんだから。

他人の違う振る舞いを叩いていては新しいものは何も生まれない。



二の橋商店街
東京都狛江市岩戸北4丁目
撮影 2016年7月27日 水曜日 13時00分
コメント
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