Nonsection Radical

撮影と本の空間

もっと毒を、もっと悪を

2011年10月16日 | Weblog
姪っ子が合同書展に出品したとかで、京都・建仁寺まで老母を連れて行ってきた。
京都の大学書道部の有志によるものらしい。
建仁寺へも書道展へも行くのは初めてで、そもそも書道というのがわからない。
漢字も読めないし、崩した字も読めない。
どう理解するべきか姪っ子にアレコレ教えてもらった。
書道は美術なのだという。
書道は表現なのだという。

まず、一番「字」が上手だといわれているのはどれ?と訊き、
一番下手なのはどれ?と訊いた。
それで理解出来た(苦笑)。

実物を50点以上も目にしていると、なんとなく見えてくるものがあって、アンケートを書いてくれというので「みんな、心がキレイ過ぎ!」と記入。
姪っ子にも老母とともに、もっと邪悪な心を持ちなさいと説教し困らせた。
その中で、同志社の麻里ちゃんと京大(京都産業大学の略ではあらず)の萠ちゃんのは、毒と悪とが上手い具合に織り交ぜられて良かった。
ちょうど萠ちゃんが通りかかったので、声をかけて感想を言うと、最初はピンと来なかったようだが、説明すると感想を理解してくれた。
もともとそういう気持ちを込めてしたためたようで、意図した通りの出来ばえだったようなのだ。
オヤジというのはハズカシさがなくなるので、こうして平気で無謀な感想を吐く事が出来て便利なのだが、相手には迷惑なんだろうなぁ。


和歌山市西高松2丁目
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冬に着る服が

2011年10月14日 | Weblog
朝晩は半袖でいると寒さを感じるようになった。
朝出かける時には薄手の長袖ジャケットを着るようになったが、その下は半袖だ。
その年寄り臭い黄土色(死語)のジャケットも10年ものだ。
他に持っていないのだ。
だいたい着るものは10年単位で使用する。
流行などに左右されないのだ。
流行を追わないのだ。
流行に無頓着なのではない。
上着に求める機能はひとつだけで、ポケットが大きいという事だけ。
そこに、時にはデジカメ、本、時には札束を無造作に入れて歩ける事が重要なのだ。
当然、ポケットが縦や斜めに切ってあるのは論外で、正しく水平に口が切られていなければならない。
それは取り出しやすさと、落下しにくいからだ。
そういう点で最近の流行のジャケットがポケットが最小で、スタイル重視なだけで使いにくい。
ポケットが必要なためだけにジャケットを着る事も多いので、薄手の軽いものを昔から利用してきた。
一番便利だったのは中国の人民服で、機能的でポケットも大きく安かった。
しかし近代化とともに人民服など着る人もいなくなったようで、観光みやげの類いで中華街などで時々見かけるだけとなった。
次に目を付けたのはミリタリージャケット。
これは今でも利用しているが、若い人が流行で着ているのとダブって一時着づらい事もあった。
それ以外の安くてとなると、ユニクロなどだが、すっかりスリムなカットになってしまい、実用性の乏しいものとなっている。
一方、実用的である「作業服」なのだが、実は作業服には胸ポケットがあっても、腹ポケットがないもの、あっても斜めカットのモノばかりで、おにぎりやペットボトルが入るような実用性はない。
それは機械にポケットが引っかかって事故を起こさないためなのだが、利用価値は低くなる。

その黄土色のジャケットの中味と同様、寄る年波には勝てず、それ口がすり切れてきた。
ユニクロか無印で買ったと思うのだが、現在はその手の実用品は売っていない。
ミリタリージャケットでははばかるような場所に行く場合に重宝していたのだけれど、新たに買う事が出来ないのは痛い。



近江八幡市永原町Part2
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文字という記録

2011年10月13日 | Weblog
家人が先日送った本多勝一著「アラビア遊牧民」を面白く読み終わったと言うので、次に「ニューギニア高地人」のリクエストに応えようとアマゾンを探した。
ついでに本多勝一シリーズを眺めていたら「中国の旅」という本があって、その「感想文」に中国のプロパガンダに乗せられたウンヌンというプロパガンダに乗せられた感想がたくさんある(笑)。

発売当時(1971年だっけ?)の中国と言えば当然開放改革路線前で(苦笑)、現在の北朝鮮での取材と同様あご足付きか、案内(監視)付きであった。
それは本多氏自身が記している事であるし、読む方だってそんなのは前提として当たり前と受け取っていた。
まだ日中国交正常化前の話だ。
そういうお膳立てされ、制限された取材の中で、どれだけ取材対象に迫る事が出来るかを問題にしていた事は著者自身が記していた事であるし、読む方もその行間を読み解く努力が当然必要とされた。
この本は事実確認をするために行った「旅」ではないのだ。
当時中国がどういう国であるか一般人は知らなかったし、それを知りたいという意欲もあった(人もいた)。
そうやって中国に興味を持ち、このような本を読み、その上で実際に中国に行って肌で知る、という事をしたいと思った(人もいた)のだ。

ルポ(ルタージュ)という手法で書かれたこの本を、事実か創作かと論議すること自体がルポというものを理解していない証拠なのだが、ひとつの話として理解し、時には実際に中国へ行ったりして、自分の目と耳と肌で確認していく事で、その度に自分の意識が上書きされていくというものだろう。
その事に躊躇していては歴史の流れの中で生きている意味がないではないか。
また、そういうことをせずに、ああだこうだと言っても、自分の身から出た考えにならないだろうに。

ある意味、40年も前の中国人の声を記して残してあるというのは重要なものなのだ。
当時の中国人民はどのように思い、どのように語ったかの記録なのである。
それを現在の視点でプロパガンダに乗せられて宣伝しているだけだというのは浅はかだと思う。
もうちょっと歴史的背景を頭のすみに置いて、この本を読んでいけば、別の中国の姿も見えてこよう。
そういう視点がない「感想」が多いのも、読者が出版当時の事を知らない若い人が多く、当時としては常識的なモノの見方が現在ではされなくなってしまったという事なのだろう。
実は、その点が一番驚いたのである。




魚津市火の宮町 Part2
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ブックサーフィン

2011年10月12日 | Weblog
昨日読み終わった本は新潮社の発行だった。
そして今読んでいる本も新潮社だ。
そういう事もあるんだと思ったけど、よく考えれば理由もあった、
本のチェックはネットでする事がなく、ほとんど活字からなのだが、それも出版社発行のPR誌からの情報が大きい。
そのPR誌を購読しているのが数社あって、PR誌を読んで面白い話が出ているものを購読している。
そこには当然出版される本の情報が出ているので、まずその本を買う。
文庫本の場合、本の最後の方に別の本の紹介解説が出ていたりするので、気になった本を探して買う事になる。
当然読んだ本が面白ければ、同じ作者の別の本を買う。
そうやって次から次へと同じ出版社の本を買う事になる。
上手く出来た話だ。

しかし、上手くないのは、こういうブックサーフィンをすると、新たな出会いが少なくなるのだ。
PR誌を読んでいない出版社の本とは、出会いも始まらない。
最近は、本屋に行っても、目がショボショボして、面白そうな本を探す根気がない。
なんか恋愛の出会いを語っているような感じだな(笑)。
なるべく普段は観察しない棚を見るようにはしているのだけど、見なれない背表紙に集中力が働かない事も多い。

と言うわけで、やはり出会いを提供してくれるPR誌や紹介解説が大切になってくるんだね。
ところが、最近は本屋さんに行ってもPR誌を置いていないところばかりで、定期購読しているもの以外のPR誌を手にする機会が少ない。
PR誌にも好き嫌い、良し悪しがあって、内容を確かめずに定期購読する気にもならないんだよね。
面白いと思ったら何年も定期購読するけど、1度は目を通しても次には読まないのもある。
紹介の仕方や、連載されている話、作者など、いろいろな理由が重なって好き嫌いが出るみたいだ。
でも、気に入ればそこからブックサーフィンが始まるんだから、本の紹介ってのは大切なんだよね。


直江津駅前通り
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挿入感

2011年10月11日 | Weblog
通勤電車でiPodを聴いていたら、隣の女性が肩を叩いたので振り向くと、「ボリュームを下げてくれませんか」と小声で言う。
「聞こえてました?」と訊くと頷くので、慌ててボリュームを下げた。

かなりボリュームを上げていたが、聴いていたのはトークであったのと、以前に音漏れを確かめるために確認した事があったのだが、ほとんど外部には聞こえない音である事がわかっていたので意外な申し入れであった。
しかし、キチンと伝えてくれたこの女性(隣で近すぎて顔がよく見えなかった=老眼 のだが、江川紹子似の=つまり好みというわけだ)に感謝した次第である。
となりですぐに寝てしまったので、音漏れが寝入りばなに気に障ったのだろう。

で、会社帰りに家電量販店に寄ってイヤホンを探した。
イヤホンというのは値段が高くなれば音が相応に良くなると言えるのだけど、予算要求が90兆円を超える御時世といっても、おいそれと増税するわけにもいかない。
つまり、そこそこの値段のものを選んだという事だ。

音漏れを防ぐためにアナル型・・・ではないな、カナル型のイヤホンを選んだ。
カナル型というのは耳の穴に差し込んで聴くタイプのものだ。
耳の穴に差し込むので音が音に漏れにくいという。
このタイプを初めて買った。
耳の穴の大きさに合わせてイヤーピースという「ふた」を大中小のサイズから選ぶのだけど、どういう感じで装着されればフィットした事になるのか説明書を読んでも書いていない。
耳の穴の大きさなど視た事もないし、人と比べた事もない。
舌で舐めれば人の耳の穴の大きさ(主にジョシ)は判断出来るけど、自分の耳は舐めれない(関西人はら抜きが標準語)。
そこで、人体の「末端」は比例するというので、一番小さなイヤーピースを装着して、我が耳に挿入した。

あたし、女子大生なんです。
はじめてアレを入れたんだけど
なんかよくわからないんです。
最初は痛いかもって、よくいうんですけど
挿入感や異物感はなかった・・・
ああ、いま入っているんだぁ、って頭の中では想像出来るんだけど
大きすぎるぅのか、ちっちゃいぃのかも初めてだからわからないんです。
だから、しばらくインサートしたままじっとしていたけど
これでイイのかわからないんです。
恐る恐る奥にゆっくり押し込んでみたり、
手前に引いてみたり、グリグリねじ込んでみたり。
でもスッゴクイイ感じにはならないんです。
相性が悪いのかもって・・・
あたしって浮気性?
でね、少し大きなアレに変えてみたの。
ユックリ入れてみたんだけど、痛くなかった。
でもやっぱりフィットしないの。
だからもう一つ大きなMサイズにしたの。
そうしたらクチュって音がして、あたしのあそこの内壁とイヤーピースがピッタリ張りついた感じがしたんです。
あっ、あたしってMだったんだって気がついたんです。
きっともっと大きなのを入れたら、あたしのあそこが壊れちゃうって怖くなって
それでやめちゃった。

で(笑)、さっそく音楽を聴いてみたけど、あんまり良い音に聴こえません。
音量はこれまでの半分で十分なので、外に音が漏れる事はないのだろうけど、クラシックやジャズだと平凡な音に聴こえ、楽器のある位置がわかりません。
歌謡曲だとそこそこ聴けるので、3000円ぐらいのだとそういう感じなんでしょう。
実は、以前にどのイヤホンがいいか調べたのですが、肝心の時にはそういう情報を持ち合わせていないのですね。
だから日をあらためて出直そうかと思ったけれど、わざわざ注意してくださった人がいるのだからと、テキトーに選んだのでした。
まあ難聴、耳鳴り、中耳炎の耳では、どんな音もまともには聴こえないのだろうからイイんじゃないのかな。




雑賀崎のワンコ
コメント (5)
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