Nonsection Radical

撮影と本の空間

知らない事

2013年04月25日 | Weblog
ネットって知りたい情報しか見ないじゃないですか。
というか、知らない話と出会える機会が少ない。
だいたいいつも同じサイトを見て、興味のある関連の話を読み、そこからリンクされている話に飛び、そういう事では興味の対象外に出会えるチャンスは意外と少ない。
その点、新聞や雑誌は興味のある話以外にもいろいろ記事があって、知らない話に興味を引かれ、新たな興味の対象が増えたりする機会が多い。
そういう点で雑誌や新聞は重要なんだよね。
テレビはダメ。
あまりにも主流を扱いすぎる。
ラジオはまだ雑多な情報を提供してくれる。
でもやはり効率がイイのは文字媒体だ。
コラムやエッセイなどちょっとした事に様々な人を起用して、様々な話題を与えてくれる。
隅から隅まで読めば、イヤでも興味の対象外の話題にも触れる。

そして新たに興味を持った人の事をネットで調べる。
そういう点でネットは便利だ。
以前であれば、調べ物をするには図書館へ行って、対象に当たる事が効率的であったけど、どうも最近は市立図書館程度では人気のある本を中心に取り揃える傾向があり、調べ物には物足りない状況だ。

こんな事を考えるのも、最近はネットを見ても面白く感じないからだ。
いつも同じような所で、同じような内容に触れ、新たな刺激が得られないのだ。
そして新たな情報を探し出せなくなってきている。
検索のパターンが決まってしまったのだろう。
雑誌をペラペラめくって拾い読みしながら、知らない人の知らない話に出会う確率は、ネットよりも最近は多いと感じる。
また、知らない人の知らない本との出会いも、文字媒体からの方が多い。
この違いは、その媒体を創り出している人の数から来るものなのだろうか。
当然たくさんの人が関わっている媒体の方が話題は豊富だからね。
何か雑誌を買って来ようかなぁ。
暇だという事だ。




薬師あいロード商店街 東京都中野区


加茂大明神から代官町 奈良県御所市
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他人の批評

2013年04月24日 | Weblog
今はシロート批評の時代だ。
一因には、”クロート”批評家のそれが物足りなかったり、的外れであったりと思う人が「私はこう思う」と発言出来る環境が出来た事にある。
ネットには食べ物やグッズ、製品、本などに関する”批評”がたくさんある。
それはそれで有用なのだろうが、批評する人の立ち位置がわからず、何を基準に批評しているのかわからない事が多い。
それぞれにそれぞれの嗜好と思考があり、独自の基準で批評しているのだが、各自は自分は”公正中立”の立場だと思っている人が多い。
そこで評価が分かれた場合、”友好的な”やり取りがあればイイのだが、やはり”公正中立”ではないので、独自の意見をぶつかり合わすか、お互い無視を決め込む。
「ふ~ん、そういう見方もあるのかぁ」と思えればイイのだけど、そこまで”公正中立”ではなさそうだ。
それ以前に、理解不足であるだろうと思わせる取り上げ方もあるのだが、それを指摘するのはルールに反するかのように指摘しない。
指摘しても、まあ納得はしてくれない。

そういう”時代”に批評をどのように有効活用するべきかは、それこそ批評の数ほど方法はあるだろう。
たとえば、評価を鵜呑みにして、食事をしに行ったら思ったほどではなかった、と批評する人もいる。
その批評が、他人の批評に対する批評なのか、自分で感じた事での批評なのかは判断出来ない批評だったりするから厄介だ。
味の嗜好など千差万別だし本来公正なものなどないのだが、各自はどこかにあると規定する基準で公正に判断しているつもりになりがちだ。
そもそも自分の嗜好を自覚して吟味しているのかも不明だ。
satoboなどは、美味い、不味い、美味くない、不味くない、美味しいわけではないが食べたい、などの基準を設けているのだが、これが他人に通用するとは思っていない。
甘いのが好きな人嫌いな人、辛いのが平気な人苦手な人、酸っぱい、苦いを噛み締める人、しない人、それぞれだから。

またモノに関しても同様で、使い方も違えば、好みも違う。
使いにくいけど好きという人もいれば、ブスだけど好きという人もいれば、イケメンじゃなければ絶対イヤと言う人もいる。
そういう世界で批評、あるいは評価をするという事はどうすればイイのだろうね。
それぞれが好き嫌いを主張するだけでは批評にはなり得ない。
でも批評するのは、自分の好き嫌いを誰かにわかってもらいたいと思う行為でもあるし。
そういう世界で批評は成り立っているんだとは感じて欲しいけどねぇ。




中野ふれあいロード北商店会 東京都中野区


大橋通り商店街 奈良県御所市
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寝落ちしてしまったぁ

2013年04月23日 | Weblog
またしても風邪をひき、お布団で一休みしている間に寝てしまった。




中野サンモール商店街 東京都中野区


柳町から大橋通り3丁目 奈良県御所市
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小さな画面で

2013年04月22日 | Weblog
インターネットはパソコンのためにあるのではなく、もはや“スマホ”のためのものになりつつある。
実際、satoboの動画も半数がスマホなどの携帯端末から観られているようだ。
スマホであれば大きくても対角5インチサイズの画面だ。
スマホは持っていないので、このサイズの画面でインターネットをするというのがどういうものか想像がつかない。
ただどうしても細部の描写が欠けるであろうとは思う。
絵であれ写真であれ映像であれ、この絶対的小サイズの世界で観るということが、その対象に対して大きな影響を持つ事は想像出来る。
はたして製作者が意図した世界を体感出来るのだろうかと、ちょっと思ったりもする。
そうは言っても、現実にそういう世界になっているのだから、今後制作側も小サイズにマッチしたものを作り始めるのだろう。
小さな画面でも満足のいく表現というものが出来るかどうかわからないが、試行錯誤しながら進んで行くに違いない。
だけど、大画面のテレビで観る世界でも、小さな画面で観るスマホの世界でも、現行のパソコンで観る画面であっても、実体のあるものの実サイズとは別の世界である事が理解出来ていないと、ひどく矮小化されたイメージで実体をとらえてしまう恐れがある。
どのような機器で観たものであっても、実物のモナリザとは別のものだし、鎌倉の大仏のイメージは違ってくる。

一方、最初からデジタル画面で製作されたものというのも現在は多い。
映像関係はそうだろう。
そうなると本当の大きさとは、いったいどれなんだという事も問題になってくるだろう。
最初からデジタル機器の中で2次元で製作し、デジタル機器の中でだけ存在し、デジタル機器の中で鑑賞されるものに”実物大”という概念が存在するのだろうか。
そういう状況では、画面サイズの大きさがイメージに変化を及ぼすのだろうか。
スマホが普及して行く事で、どのように映像の世界が変わって行くか興味深い問題だ。




絹の道中央通り 東京都町田市


御門町から柳町 奈良県御所市
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ビデオチャット

2013年04月21日 | Weblog
インターネットを介してビデオカメラで双方を写し出して会話するビデオチャットというものがある。
まあテレビ電話みたいなものだ。
これをやろうと計画を立てていて、神奈川の家に使わなくなったiMacを年末におくり、虎視眈々とチャンスをうかがっていたのだ。
それがようやくかなった。
Macにはビデオカメラが内蔵されているし、最近のOSXならそのままFaceTimeというソフトでビデオ通話が出来るのだけど、あいにくiMacは古いOSXなのでそのままというわけにはいかない。
そこで他にソフトはないかと探した。
有名なのはスカイプだ。
最初はスカイプでやろうとしたのだが、グーグルでも同様なものを出していた。
そこでムコ殿に説明して、iMacにソフトをインストールしてもらい、ようやくつながった。
こういう作業はムコ殿以外頼める人がいない。
ムコ殿はウインドウズを使っているのだが、Macは簡単に理解出来たようだ。
思ったよりもちゃんと写る画面には、孫をはじめ”一家総出”で出演しており、同時にしゃべるので何を言っているのかわからない喧噪状態だ。
こちらはsatoboとニャンコの”カップル”だ。
こういう場合、”シロート”は画面に向かって話すのだが、テレビ出演者を研究しつくしたsatoboはキチンと”カメラ目線”で話すのである。
これが結構難しい事で、いかにテレビ出演者は優れた才能を持っているか、”同じ”出演者として感服しきりである。

しかしビデオチャットとはいえ、話す事などそんなにないので、適当な時間で切り上げる。
そこが家族の会話と恋人同士との違いなのである。




東京都文京区根津2丁目34から


馬橋地蔵から大日地蔵まで 奈良県御所市
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