母のこと
2019-01-16 | 日記
母には
義兄のことは・・・しばらく伏せてありました
顔を見て直に話そうと思ったので
式後直ぐに伝えた弟達にも
言って何をして貰おうでもなく
ただ事実の事後伝達をしただけです
今回の移動では
ふたりともが体調低下の為
いつものように家へ帰るまでに
母の元へ立ち寄れませんでした
それで次の日の
用を済ませた後に廻って貰いました
頃合いを見て
義兄の死を伝えると
えー人やったのになぁ、まだ若いのに
もう一度会いたかったなぁ
あんた(わたし)を嫁がせてくれた人でしょ
って・・・・結構!しっかり覚えていてくれてて!
感動したものです
そう
義兄は、ほんとにえー人で
飄々としていて
頭がすこぶる良くて
それでいて、偉ぶらず
気さくな人でした
よっ!ちゃーさん(わたし)ぜんさんおるか?
ぜんさんとは当時の上司の名前です
彼も若いのに頭がキレて
庁内でも有名な出世頭の一人でした
義兄はアマ棋士で
時には
トップの女流棋士を連れて来たりしていました
相方さんを紹介して貰った時のこと
食事の後か、最初からそこだったか忘れたのですが
北野クラブという
神戸ではちょっと有名なクラブで
美空ひばりの歌を
空で何曲も歌ってくれました
記念に
1年に1度はここに来ようね
なぁ~んて言ってたのに
今だに実現はしていません
まだ有るのだろうか・・・
人を惹きつける
魅力のある義兄の紹介する人だから
相方さんと一緒になったのかもしれません・・
母は
結婚なんて到底無理ソなわたしに
相手を見っけてくれたから?
えー人って言った?
いいえっ!そこんところは
そういう意味も少しはあったかもしれませんが
人間まるまる裏表のない
本音で生きてる人だから・・・・と思います
母をも惹きつける魅力的な人
義兄は話術も豊富で
人を楽しませるのが上手でした
わたしを可愛がってくれた人
またひとり失ってしまいました・・・
義兄に関しては
母と意見は一致みたいです
そんなある時は
しっかりしている母ですが
何度も同じことを聞いてきたり
トンチンカンナことを言ったり
その時々で違います
自身の兄弟姉妹のことも
聞く度に人数が違って来たり
名前が・・・・不確かだったりです
そういうわたしも・・・・一度聞いても
昔の人数の多さ・・・覚えきれません
大正生まれの母・・たしか今年のお誕生日で94歳
若い時は運動神経も素晴らしく良く
マラソンなども一等賞・・・
ウソカホントカ
昔は米俵を背負って、峠を越えたと言います
下着も自分で作る授業を受けていたようで
母は、布団の打ち直しも自分でし
和服の洗い張りもしていました
昔の人は・・・みんなそうだったんでしょうか・・・
師範学校を出て、教師をしていた母
きっちりしていたんだろうな・・・
結婚して、苦労して
内職もしセールスまでもしながら子育てをし
お金を蓄え、父と家を建てた人です
浪費家のわたしには・・・とても真似ができません
あれで
家に籠ってさえいなければ
もっとしっかりしてたかも
一緒に岡山に来てくれたなら
畑や花やできたかも
好きな土いじりも励みになるかも
でも・・・晴れの国をうたい文句にしているのに・・
めっちゃ寒いもんね・・
母は夏より冬の方がいいとは言っていますが
あそこの冬は・・年齢的にキツイかも・・
母には
母の思惑があるんだろうけど
あんな過ごし方を
人生の最後にさせたくはなかったなぁ
って、まだ生きているんですが・・・・
わたしが習ったことは
人生最後まで人間らしく生きる
周りの者は、そのように扱う、接するだった
母を訪ねる度
母のほとんど1日を過ごすベッドを見る度
ほんとにこれでいいのかなぁ・・・・と思ってしまうのです
軽いのはスルッと滑り落ちる
重いのでいい・・・・母は重い毛布を
3枚も4枚も重ねて上布団にしていました
軽いのは(羽毛布団)さっさと2階へ持っていってしまった
言いようもあるものです・・・
なにしろ
一緒に住んでいないので・・・
母の言うことか、弟達の言うことか・・・
もう
わたしは、どっちの味方もしないことにしました
わたしはわたしのできることだけする
母の気持ちを尊重して
自分達の生活を第一に
身の丈に合った手助けをする
もし
助けをわたしに言ってきたら・・・何はさておき
一番に手伝う・・・そうできるためにも
自己管理をしっかりしておかなくては・・・・なぁ~んにもできない
母に食事や身の回りのことをしてあげられないのは
バチが当たってるんだと思っている
お義母さんを最後までちゃんと見てあげられなかったから・・・
へんなわたしのコダワリデス
今となっては
孫がどんなおむつをしているか知りません
母がどんな下着を身に付けているかも
全く知りません・・・・
きっと
自分も同じ道を辿ることになるでしょう・・・
してきたことは、自身に返るといいますから・・・
義兄のことは・・・しばらく伏せてありました
顔を見て直に話そうと思ったので
式後直ぐに伝えた弟達にも
言って何をして貰おうでもなく
ただ事実の事後伝達をしただけです
今回の移動では
ふたりともが体調低下の為
いつものように家へ帰るまでに
母の元へ立ち寄れませんでした
それで次の日の
用を済ませた後に廻って貰いました
頃合いを見て
義兄の死を伝えると
えー人やったのになぁ、まだ若いのに
もう一度会いたかったなぁ
あんた(わたし)を嫁がせてくれた人でしょ
って・・・・結構!しっかり覚えていてくれてて!
感動したものです
そう
義兄は、ほんとにえー人で
飄々としていて
頭がすこぶる良くて
それでいて、偉ぶらず
気さくな人でした
よっ!ちゃーさん(わたし)ぜんさんおるか?
ぜんさんとは当時の上司の名前です
彼も若いのに頭がキレて
庁内でも有名な出世頭の一人でした
義兄はアマ棋士で
時には
トップの女流棋士を連れて来たりしていました
相方さんを紹介して貰った時のこと
食事の後か、最初からそこだったか忘れたのですが
北野クラブという
神戸ではちょっと有名なクラブで
美空ひばりの歌を
空で何曲も歌ってくれました
記念に
1年に1度はここに来ようね
なぁ~んて言ってたのに
今だに実現はしていません
まだ有るのだろうか・・・
人を惹きつける
魅力のある義兄の紹介する人だから
相方さんと一緒になったのかもしれません・・
母は
結婚なんて到底無理ソなわたしに
相手を見っけてくれたから?
えー人って言った?
いいえっ!そこんところは
そういう意味も少しはあったかもしれませんが
人間まるまる裏表のない
本音で生きてる人だから・・・・と思います
母をも惹きつける魅力的な人
義兄は話術も豊富で
人を楽しませるのが上手でした
わたしを可愛がってくれた人
またひとり失ってしまいました・・・
義兄に関しては
母と意見は一致みたいです
そんなある時は
しっかりしている母ですが
何度も同じことを聞いてきたり
トンチンカンナことを言ったり
その時々で違います
自身の兄弟姉妹のことも
聞く度に人数が違って来たり
名前が・・・・不確かだったりです
そういうわたしも・・・・一度聞いても
昔の人数の多さ・・・覚えきれません
大正生まれの母・・たしか今年のお誕生日で94歳
若い時は運動神経も素晴らしく良く
マラソンなども一等賞・・・
ウソカホントカ
昔は米俵を背負って、峠を越えたと言います
下着も自分で作る授業を受けていたようで
母は、布団の打ち直しも自分でし
和服の洗い張りもしていました
昔の人は・・・みんなそうだったんでしょうか・・・
師範学校を出て、教師をしていた母
きっちりしていたんだろうな・・・
結婚して、苦労して
内職もしセールスまでもしながら子育てをし
お金を蓄え、父と家を建てた人です
浪費家のわたしには・・・とても真似ができません
あれで
家に籠ってさえいなければ
もっとしっかりしてたかも
一緒に岡山に来てくれたなら
畑や花やできたかも
好きな土いじりも励みになるかも
でも・・・晴れの国をうたい文句にしているのに・・
めっちゃ寒いもんね・・
母は夏より冬の方がいいとは言っていますが
あそこの冬は・・年齢的にキツイかも・・
母には
母の思惑があるんだろうけど
あんな過ごし方を
人生の最後にさせたくはなかったなぁ
って、まだ生きているんですが・・・・
わたしが習ったことは
人生最後まで人間らしく生きる
周りの者は、そのように扱う、接するだった
母を訪ねる度
母のほとんど1日を過ごすベッドを見る度
ほんとにこれでいいのかなぁ・・・・と思ってしまうのです
軽いのはスルッと滑り落ちる
重いのでいい・・・・母は重い毛布を
3枚も4枚も重ねて上布団にしていました
軽いのは(羽毛布団)さっさと2階へ持っていってしまった
言いようもあるものです・・・
なにしろ
一緒に住んでいないので・・・
母の言うことか、弟達の言うことか・・・
もう
わたしは、どっちの味方もしないことにしました
わたしはわたしのできることだけする
母の気持ちを尊重して
自分達の生活を第一に
身の丈に合った手助けをする
もし
助けをわたしに言ってきたら・・・何はさておき
一番に手伝う・・・そうできるためにも
自己管理をしっかりしておかなくては・・・・なぁ~んにもできない
母に食事や身の回りのことをしてあげられないのは
バチが当たってるんだと思っている
お義母さんを最後までちゃんと見てあげられなかったから・・・
へんなわたしのコダワリデス
今となっては
孫がどんなおむつをしているか知りません
母がどんな下着を身に付けているかも
全く知りません・・・・
きっと
自分も同じ道を辿ることになるでしょう・・・
してきたことは、自身に返るといいますから・・・