「養い親たちは、あれはもう奴隷ですよ。生みの親たちは、救いがたい莫迦だ」
「みんな僕をどうしようというんだろう。僕には形なんか何もないのに」
(近代能楽集、『弱法師』、三島由紀夫より)
…
ふと、この言葉を思い出した。
「生みの親」と「育ての親」のエゴとエゴのぶつかり合い。
高安「あなた方があの子を狂気にしたのだ」
川島夫人「いいえ、火の中に見捨てたあなた方こそ、御自分の命が大事なばっかりに。」
高安夫人「見捨てたですって? 見捨てたですって?」
我が子を育てられずに里親に託す親と、
そして、その子を託された里親と。
昔も今も、親は、大人は、子をめぐってエゴとエゴをぶつけ合う。
否、子の所有(Have)をめぐって言い争いを繰り返す。
…
今日、学生たちがTikTokで話題になっているニュースがあると教えてくれた。
そのニュースとは、このような話だった。
12月22日、生後2カ月から養育している子ども(5)の里親委託を児童相談所が一方的に解除するのは、里子の心の平穏や健全な成長を無視した不当な対応だとして、沖縄県在住の50代夫妻が28日、県を相手取り、解除の差し止めを求めて那覇地裁に提訴しました。しかし地裁は同日、「委託措置解除は訴訟の対象となる処分に当たらず、原告適格もない」などとし、訴えを却下。提訴した当日に裁判所が判決を下すのは異例のことです。
提訴した夫妻から私は11月から相談を受けていました。委託を受け、育てているお子さんは現在5歳で、生後2か月から委託を受けているので、子どもは里親を本当の親だと思っているし、実の親に会ったこともないといいます。ですが、児童相談所が、実親が引取を要求しているからという理由で、里親さんから子どもへの真実告知(自分たちが本当の親ではなく、実親は別にいると伝えること)をし、委託解除をして児童相談所で一時保護をすることを迫られている、と困って相談をしてきたのです。
このニュースを学生から教えてもらった時に、上の三島の言葉を思い出した。
学生たちは、「先生はこのニュースについてどう思いますか?」と聴いてきた。
この時、三島の上の言葉をつぶやきたかったが、ぐっと堪えた。
昔も今も、子をめぐって、生みの親と育ての親は言い争いをするのだろう…。
子どもは誰のものでもないのに、親たちは「私のものだ」と主張し合う。
それは、離婚でもめる夫婦間においても同じことが生じている。
…
弱法師の主人公で目のみえない俊徳(高安夫妻の実子)は「みんな僕をどうしようというのだろう」とつぶやく。
それに対し、家庭裁判所の級子(しなこ)はいう。「形が大切なんですよ。だってあなたの形はあなたのものじゃなくて、世間のものですもの」、と。
生みの親も、育ての親も、おそらく「正義」なのだろうと思う。いや、どちらも、自分たちが「正しい」と思っているのだろう。その正しさ故に、話は平行線をたどっていく。自分が正しいと思えば思うほど、相手は正しくないことになるからだ。
では、なにをめぐっての争いなのか。「形」だ、と級子は語る。
今回のニュースも、この弱法師の話によく似ている。
訴状などによると、児童は5年以上、小橋川さん夫妻の下で育っている。発達障がいがあり、医師の助言もあって、実親ではないと知らせる「真実告知」をしていない。児相は12月、県外に暮らす実母の意向を踏まえ委託を解除し、児童を一時保護所に入所させるとの文書を原告に送った。
原告側は児童の障がいや特性を考え、告知や面会に時間をかけるべきだと主張している。久美子さんは「実親に会わせたくない、告知をしたくないというわけではない。発達障がいが落ち着くまで、もうしばらく待ってほしい」と訴えた。
弱法師の「盲ら」の部分が、ここでは「発達障害」になっている…か。
また、「実親に会わせたくない、告知をしたくないというわけではない。発達障がいが落ち着くまで、もうしばらく待ってほしい」という発言があるが、これも文字通り受け取れば、尤もな意見だし、僕も共感できる部分はある。が、ホンネの部分までは、この一文だけでは分からない…。
…
学生たちにこの事件についてどう思うか尋ねられた時、思わず口ごもってしまった。
ただ、話を聞く限り、弱法師で描かれた世界によく似ているな、と思った。
そして、こう答えた。
「親は、二人や一人でなくていい。生みの親も親なら、育ての親も親だ。生みの親と育ての親がどちらも、その子どもの幸せを願い、その子どものために尽力すればいい。今の時代は、社会的子育てという言葉があり、子どもは社会全体で育てていくという方向に向かっている。…しかし、それをするのは、今の日本ではまだ難しい。僕は、「半分開かれた養子縁組」という制度が日本にも必要だと思う。きっと、あと100年くらいはかかるかもしれないが…」
と。
学生たちは、口をぽかーんと開けて、僕の話を分かったような分からなかったような顔で聴いていた。
子どもからすれば、誰だっていいんだ。自分のことを第一に考え、自分のことだけを最優先で考えてくれる人であれば、生みの親だろうと、育ての親だろうと、あるいはそのどちらであっても構わないのだ。否、5年間の歩みを考えれば、育ての親にこそ愛着をもっていると思われるが、その後、必ず「自分の本当の親は誰なんだろう」という問いが生まれてくるはずだ。
生みの親に引き取られても、育ての親に引き取られても、どっちにしても子は苦しいのだ。
ならば、生みの親と育ての親が出会い、つながり、協働で子育てをしながら、ゆっくりゆっくりと子どもにとって最善の方向に向かって歩んでいけばいい。
そんなのは理想論だと言われるかもしれないが、実際に海外では「Semi-open adoption(半分開かれた養子縁組)」が提唱されている。
こういうオルタナティブが生まれないのが、日本という国なんだろうと思う。
拝金主義で形式主義で保守的な家族観に縛られた愛しの我が日本…。
子どもには形はない。しかし、大人には形しか見えない。
それは、親だけでない。家庭裁判所も児童相談所もどこもかしこも、同じく、形しか見えないのだ。
…
弱法師の最後で、俊徳は、謎めいた仕方でこうつぶやいている。
「僕ってね、…どうしてだか、誰からも愛されるんだよ」
と。
そして、この言葉の後に、こんな言葉が添えられている。
「(級子微笑して去る。明るい部屋に、俊徳一人ぽつねんと残っている)」
このぽつねんと残された「子」の寂しさや孤独に寄り添える人が、上のニュースの5歳の子のそばにいてくれることだけを、僕は願っています。
fin.
三島の言葉はやはり本当に美しいです。