Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

【よい授業とは何か】について考えてみた

たまたま、こんな本と出会いました。

い授業とは
川田龍哉著

という本です。

このGW中に、全部読みました。

内容的には、とてもベーシックで、そしてこれまでの授業論を網羅するような内容でした。教員養成系の大学生向けの本かな?!、と。

我が心の師匠の斎藤喜博先生の引用も多くて、読みごたえがありました。

著者の川田さんは、教育研究者でもなく、教育実践者でもなく、教育関係の書籍の編集者を務めてこられた人みたいです。教育実践の書籍を扱うプロらしい「本の教養」がいっぱいつまった一冊でした。

この本を読んで、僕も語りたくなってきました。

『よい授業とは何か?』

って。

思えば、僕もかつてこの「よい授業とは何か」を探求し、そして、この19年間、ず~っとそのことにこだわり続けてきました。僕自身、少人数の演習ゼミから、大教室の講義まで、ありとあらゆる「授業」をしてきました。

今回は、学者としてではなくて、一授業者としての僕のこだわり?を書いてみたいなって思ったんです。


よい授業とは何か?

その答えは、川田さん同様、「教師それぞれがもてばよい」と思います(川田、p.228)。

僕も僕で、その答えを多分もっていると…思います。

僕がこれまでの19年の実践の中での「授業へのこだわり」を話したいと思います。

***

①絶対に同じ授業はしない

僕の授業に対する強いこだわりとして、まずはこの「絶対に同じ授業はしない」というのがあります。

小学校であれ、中学校であれ、高校であれ、大学であれ…、どこであっても、同じ授業は絶対にしません。内容的には被ることはあっても、その説明の仕方や取り上げ方や展開の仕方は、毎年変えます。何が何でも変えます(苦笑)。

もちろん「話すテーマ」はそんなに変えられません。テーマや概念は同じでも、その説明の仕方や結論にもっていくまでの道筋を常に変えていきます。「同じ授業をする」となった瞬間から、授業は「技法化」するし、また「形骸化」するし、「ルーティン化」し始めます。

よい授業には、一回限りっぽさ(アウラ)があります。

②本や論文やネットでの情報収集を怠らない

たとえ1人であれ、10人であれ、100人であれ、人前で話す以上、常に自分の「知識」を増やし続けなければいけない。人前で話す以上、話す量の10倍から20倍分の勉強はしなきゃいけない。

たとえば「カリキュラム」という用語の説明をする講義では、そのカリキュラムについて常に学び続けなければいけない。同じことを繰り返さないためにも、その用語の新たな解釈やこれまで知らなかった解釈を常にインストールし続けなければいけない。

根本的な話をするためには、クラシックな古典やベーシックな学術論文を読まなきゃいけないし、また「たとえ話」や「例」をあげるためには、イマドキの話や最近起こったニュースや流行モノについてのリサーチが欠かせません。最近では、K-POPやBiSHやDiSH//の例も取り上げています。コロナやウクライナの話も織り交ぜます。あらゆる知識や情報は、授業に使えます。全部、授業の「食材」だと思って、使えるものは使うという心構えが必要です。

よい授業には、最古の話から最新の話までが織り込まれています。

③授業案(講義ノート)の準備も徹底的にする

一つの授業をするためには、やはり授業案や講義ノートは徹底的に突き詰める。アドリブでやる部分もあるけど、そのアドリブも、ちゃんとプランニングが立てられていることが前提条件になる。準備もロクにしないで、アドリブだけでやるのは、「授業」とは言わない。何を教えたいのか、何を伝えたいのか、何を理解させたいのかをしっかりと予めはっきりさせておく必要がある。

このブログでも、時折授業案というか講義ノートみたいなものを公開することもある。誰が読んでも、ちゃんと読めて分かるものである必要があるとも思う。

ただ、パワポは使わない。学者の集会である学会ではパワポを使うけど、授業や講義ではパワポは使わない。授業の流れがパワポによって規定されてしまうから。授業はどう転び、どう展開するか分からない。子どもや学生たちの「意見」で大きく変わる可能性がある。僕はこれまで何度も、学生たちの意見や発言によって、授業の道筋ががらっと変わる経験をしてきました。授業はライブです。ライブ前にはしっかり譜面(指導案や講義ノート)を見て確認するけれど、本番になったら、それは見ない。理由は簡単で、ロックじゃないから(苦笑)。

よい授業は、綿密に考えられたプランとそれを壊すライブ感があります。

④話す「声」ははっきりとややスピーディーに

授業をする際、先生は自分の「声」にこだわるべきだと僕は思う。

はっきりと大きな声でできるだけ明確に。そして、スピードはやや早めに。ロジック(論理)にとらわれると、どうしても話すスピードが遅くなる。スピードが遅いと、聴いている方は眠くなる。とはいえ、あまりにも話すスピードが早いと聴いている方はついていけない。「ちょっと早いなぁ」って思われる程度で大きな声で話す。無論、大きすぎるのもどうかと思うが、声が小さいと、それだけで聴いている方がうとうとしてしまう。そのへんのバランスを常に意識している。

そして、できるだけ軽いタッチの言葉で語りつつ、しっかり深い話をすること。軽さと重さを常に同時に意識しておく必要がある。軽い話を軽いタッチで話していたら、真面目な子たちに納得(満足)してもらえない。でも、深い話を重々しい言葉で話すと、それだけで子どもや学生たちは「嫌」になってしまう。

僕自身、幾度となく「話が早すぎる」「話が長すぎる」「難しすぎる」「テキトー過ぎる」「声がこもって聞きづらい」「声が大きすぎて心臓に悪い」等々、散々言われてきた。毎回ではないけど、常にコメントカードを書いてもらっていて、好き勝手に書いてもらっている。なので、話すスピードについてはやっぱりいつも考えながら、やってます。

よい授業には、心地よい声とスピード感があります。

⑤笑いのある時間を必ず入れる

小さな子どもたちも、大きな大学生たちも、いつでもみんな「面白い話」が好きです。僕も「お笑い」を見て育っているので、授業中に一度はどっと笑わせたい。面白い話で笑わせるのもいいけど、スベる話で苦笑でもいい。面白い話をしなくても、壇上で転んだり、頭をどこかにぶつけるだけでも笑いは取れます。

どうでもいい話でいいんです。「パンを食べてたら、歯にパンがはさまった」とか「寝坊して、走ってここまでやってきました!」とか、「ほら、授業中に寝ない!僕も眠いんだから!」とか(苦笑)…

つまりは、緩急を使い分ける、と。

とにかく、授業中、一度は笑いを取りたいものです。笑いのある授業はやっぱりいい。学生たちも笑顔になるし、「聴こう!」「考えよう!」って思うきっかけにもなる。僕がいいなと思う授業は、どの授業も笑いが一度か二度どっと起こる。凄い先生だと、「深く考える時間」と「笑う時間」と「語り合う時間」を45分内に全部盛り込んでいました。

よい授業には、必ず笑いがあります。

⑥授業の後、親や仲間と語りたくなる

僕はこの19年、何人もの学生から「今日、授業で話していたことを家で話してみました」とか、「先生の意見と親の意見が違っていて、面白かった」とか、「彼氏に授業の話をしたら、『オレも聴いてみてえ』と言ってました」とか、そういう意見をもらいました。まだまだですけど、、、(もっとそういう学生を増やしたい)

いい授業を受けた後は、学生たちはそのことについて誰かにしゃべりたくなります。語りたくなります。そういう授業を僕は目指しているし、そうあってほしいとも願っています。「今日聴いた話を誰かに話したい!」って思える講義を、「今日議論した話題について、誰かと語り合いたい!」と思える授業やゼミを。

直近だと、「フランダースの犬のネロは死んでしまったけど、不幸だったと言っていいのか」という問いを出しました。一般的には「不幸な子」ですけれど、彼には、パトラッシュがいて、おじいさんがいて、アロアがいて、ジョルジュとポールがいました。何よりも「絵」があって、「作品」を残しました。彼の「生」それ自体はとても豊かで充実したものだったとも言えます。…という話をすると、もう誰かと話したくなりますよね(苦笑) 「Haveの愛」と「Beの愛」もその辺を狙っています。

よい授業は、それを受けた後、無性に誰かと語り合いたくなります。

⑦90分の講義を3分に感じさせることを目指す

小中の授業は45分ですが、大学等では90分授業です。この90分という時間をどれだけ「あっという間」に感じさせるかが、一授業者の僕にとっては常に問題です。

これまでのところ、「20分くらいに感じた」というコメントが僕の最短です。僕の夢は、「3分くらいに感じた」と学生に言わせることです。これは難しいです💦。90分を3分に感じさせるなんて、できるんじゃろか?!、と。でも、大事なのは、そういう目標をもつ、ということです。僕はこの19年、ずっとこれを意識してきました。

大事なのは、「聴いている側」が「あっという間に終わった」と感じるかどうかです。それには、決まった答えもパターンもないです。10年前に話した内容のままでは、絶対にそうは言ってもらえません。常に「目の前の学生たち」を意識して、語らなければいけません。ジャニーズの例も、昔はSMAPや嵐でよかったですが、今では、snow man、なにわ男子、7men侍、美少年くらいのことは知っておかなければいけません。

大事なことは、目の前にいる子どもや学生たちの世界(好きなことや興味のあること)を知って、それを活用しながら、真理の世界に向かっていくことかなって思います。幼児には幼児に流行っていることがあるだろうし、小学生には小学生の話題があるし、中高生には中高生の「今」の話があります。②ともつながりますが、聴き手に「興味」や「関心」をもってもらうためには、授業者側が聴き手の「興味」や「関心」に興味や関心をもつ必要があります。

よい授業は、時が過ぎるのが早い!

⑧結局は人ガラが授業の旨さを決める!

上の川田さんの本の最後に、「うまい授業」と「よい授業」の違いについて書かれていました。

が、(ラーメンフリークを兼ねた)僕的には「上手い授業」と「旨い授業」の違いこそが大事だと思います。世の中には、授業をするのが上手な先生はいっぱいいます。川田さんの書く「うまい授業」とほぼ同じです。

他方で、「うまい」には「旨い」という漢字や「美味い」という漢字で書く場合があります。この場合、「上手い」とは異なる「おいしさ」を言わんとしています。

よく「レベルは高いけど、何も感じないラーメンだった」とか、「すごくおいしいんだけど、またこれかって感じだった」とかと、ラーメンフリークは語ります。これは「上手い」ですね。

そうではなくて、「そんなに大したことはしてないけど、じんわり旨かった」とか、「めちゃくちゃなラーメンだけど、とにかく旨かった!!」と言われるようなラーメンもあります。これが「旨いラーメン」です。

旨いラーメンというのは、基礎基本(出汁の旨み)と、それから人をハッとさせる驚き(意外性・意外な食材・意外な組み合わせ)の両方を兼ね備えたラーメンのことです。どちらが欠けてもダメなんです。

そういう旨いラーメンをつくるためには、やはり「人ガラ」が大事になってきます。「これが俺のラーメンだ!」っていうこだわりがないと、旨いラーメンにはなりません。

これこそが、「よい授業」にとってのエッセンスだとやっぱり思います。授業も、作り手の人ガラ(人柄)がにじみ出るものです。その人らしさが授業に出ていると、やっぱりそれは(好き嫌いは別にして)よい授業なんだと思います。上で述べた7つの条件も、あくまでも「僕」という人間にとっての「よい授業」であり、それは僕という人間性があっての話なんだと思います。

僕には僕の、あなたにはあなたの、彼には彼の、彼女には彼女の「よい授業」があっていいんだと思います。ただ、大事なのは、目の前にいる子どもたちや学生のことを考えて、授業をする、ということだと思います。

よい授業だったかどうかは、受けた人が決めることで、僕ら授業者はただただその「審判」が下されるのを待つだけです。僕らができるのは、目の前の子どもたちや学生が「よい授業だった」と思ってもらえるよう、日々、精進するのみだと思います。結局、授業というのは、授業者の人間性や人柄がもろに全部でちゃうものなので、変に取り繕っても、全部さらけ出されちゃうんです。ごまかせない。

川田さんの本にも出てきますが、斎藤喜博の「授業をする教師自身が、ひとりの人間として、恥をかくこと、傷つくことを恐れない人間になることである」という言葉が、まさにこのことを示していると思います。

僕もこれまで、何度も何度も恥をかき、傷つき、非難され、嫌われ、避けられ、罵られてきました。でも、そういう経験が「授業者としての人ガラ」を高めてくれたんです。(ラーメン屋さんも今やネットで毎日あることないこと書かれていて、それにぐっと耐えながらラーメン作りに励んでいます)

だから、昨日よりも今日、今日よりも明日、よりよい人間になる努力を惜しまないことが一番大事なことだと思います。よい授業をするためには、よりよい人間になる努力を惜しまない、と。

特に教育界隈の人たちは、どれだけよい授業をしても、給与に差は出ません。どれだけよい授業をしても、どれだけ粗末でまずい授業をしても、給与が上がらないんです。つまり、競争原理じゃない。だから、手を抜いても、どれだけいい加減な授業をしても、もらえるお金の額は変わらないんです。でも、それは「公共性」の原則で動く業界なので、仕方ないんです。

だから、(ここはラーメン屋さんとは違って)儲けや利益のために頑張るというモチベーションではなく、授業を受けてくれる子どもたちや学生のために頑張るというモチベーションが欠かせません(これは保育者にもかかわってくるかも)。

そういう意味では、よい授業者には、ボランタリズムの精神が欠かせないかもしれませんね。僕も、どれだけよい授業を頑張っても、もらうお金の量は変わりません。じゃ、なんのために頑張るのかといえば、「学生たちが少しでも賢くなってくれるため」だし、「よりよい人間になってもらうため」なんです。

世の中、「損得でしか動けない人間」、「同調するだけの同調人間」、「クソ真面目なバカ」、つまりは、俗物人間=世人で成り立っています。賢い人間は、昔も今も、そんなに多くありません。ルソーじゃないけど、人間は生まれてくるまでは善い存在ですが、生まれた後はどんどんクズ化(Have化)していきます。

教育活動は、常にそういうクズ化を防ぐために奮闘するものです。難しく言えば「啓蒙活動」です。そういうと、「何を偉そうに…」って思う人もいると思いますが、僕自身、常に俗物になっていることの否定を続けています。自分が俗物じゃないとは言いません。僕も立派な俗物です。

俗物だということを認め、それを否認し続けることに意味があるんです。人間、生きていれば、陰口、噂話、浮ついた話、面倒くさいことからの逃避、真面目からの逃避、俗物的な行為をしたくなります。うまいものは喰いたいし、努力なんてしないで、ゴロゴロ・だらだらしたいものです。でも、「それじゃいかんだろ!」って思う「自己」を創ることが、授業という営みがめざすところだと思います。

よい授業は、よい授業者の人ガラによって創られるのです!

以上、川田龍哉さんの『よい授業とは何か』を読んで、それに触発されて、僕の「よい授業とは何か」について熱く語ってみました。

この川田さんの本は、引用がやたら多くて、少し読みにくいですが、読むと「授業」の理解がぐっと深まると思います。斎藤喜博先生の話がいっぱい出てて、嬉しかったな💓

併せて、拙著『学びの実践学』も読んでもらいたいですね🎵

小手先じゃない本当に教師に必要なことを、ラーメン店主から、優れた教育実践者から、偉大な過去の哲学者からガチで考えた一冊です。

そろそろAmazonでも(新品だと)買えなくなると思うので、是非に~😂

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