道徳とは何か。
手元にある辞書(広辞苑)では、次のようにある。
●人のふみ行うべき道。(*踏み行う=実際に行う、実践する)
●ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。
●法律のような外面的強制力を伴うものではなく、個人の内面的な原理。
●今日では、自然や文化財や芸術品など、事物に対する人間の在るべき態度。
広辞苑では、更に、次のようにしている。
●老子の説いた恬淡(てんたん)虚無の学。もっぱら道と徳とを説くからいう。(*現象そのものは相対的で、道は絶対的であるとし、静寂・恬淡・無為・自然に帰すれば乱離なしと説く)
●小・中学校における指導の領域の一つ。
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人が踏み行うべきこととは何か。すなわち、すべきことは何か。
これは、「行為の善悪を判断する基準」を問うことである。
善いこととは何か。人がすべき善い行いとは何か。
法的な強制力はないけれど、人がすべきと思う善い行いとはどういう行いか。
善い行為とはどんな行為で、悪い行為はどんな行為か。
善悪は、損得と何が違うのか。(人間は、善悪ではなく、損得でも動く)
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道徳を教える者は、その教え方(教授学)を学ぶ前に、これらのことをまず考えなければいけない。こうした問いに向き合わないで、道徳を教えてしまうと、その道徳は単なる「押しつけ」になってしまう。
例えば、日本人は、「他人に迷惑をかけないこと」を特に重視する。他人に迷惑をかけることは、「悪」であり、してはいけないことである。逆に言えば、「人のことを考えること」は、善いこととなる。「人のことを慮ること」、「人の気持ちを察すること」、「空気を読むこと」も善いこととなる。
しかしながら、日本人は、「人のことを察し、慮る」がゆえに、「自分の気持ちを人に伝えること」については深刻に考えない。自分の内にある思いや考えは、言わない方がよいとされる。人の気持ちを害することは、日本人には耐えがたく、また同時に許しがたい。ゆえに、日本では、人が集まる公共の場で、他人に迷惑をかける行為(悪い行為?)をする人間に対しては、徹底的に不寛容である。ここにも、道徳的な問題が含まれている。
他方、欧米では、「自分の気持ちを正直に伝えること」は、善いことである。伝統的に「語ること」が重視される欧米では、「黙ること」は、悪いことである。互いに語り合うことを、「対話」と呼ぶが、その根底にあるのは、「正直に語り合うこと」である。相手の気持ちを察するのではなく、自分の気持ちを相手に伝え、そして相手の気持ちを聞くことが、善いこととなる。キリスト教の国々では、「隣人愛」が説かれるが、「他者のことを察する」ことはほとんど教えられない。
●「他人を慮ること」を重視すればするほど、「正直に語ること」は難しくなる。
●「正直に語ること」を重視すればするほど、「他人を慮ること」は困難となる。
何が善くて、何が悪いかは、一概には言えない。何が正しくて、何が正しくないのかも、簡単に言えない。
ゆえに、善さを独断で規定し、善い行為を(何も考えずに)押し付けることは、道徳ではない。子どもに「人の気持ちを考えて」と命ずれば命ずるほど、その子どもは、「正直に語ること」ができなくなる。正直に語ることも、道徳的であるはずなのに、「人を慮れ」という命題の前で、黙らざるを得なくなる。
●語ること(欧米の善)は、日本では、悪とされ、
●黙ること(日本の善)は、欧米では、悪とされる。
(単純化して言えば…)
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ある人(国)にとって、善いことは、別のある人(国)にとっては、悪いこととなる。その典型例が、「ラーメンを啜って食べること」だろう。日本では、ラーメンを啜って食べることは最大の善であるが、海外では、啜って何かを食べることは悪そのものである(近年、変わりつつあるが…)
道徳を教える人は、まずこうしたことを理解しておく必要がある。でないと、道徳は、単なる(なんらかの)価値の押しつけでしかなくなる。特定の価値を押しつけることは、道徳的ではない。日常的に「善い」と思われることを、疑えるセンス(直観)が求められる。
「人を殺してはいけない」を無反省に子どもに教える前に、「人を殺すことは、悪いことか?」「人を殺すことの何が悪いのか?」を問う必要がある。「殺すこと」は、いけないことなのか、と。
このことを真面目に考えると、単純に「それはいけないこと(悪)だ」と言えなくなってくる。
●僕らは、日々、何かの命を奪って、それを食べて生きている。鶏、牛、豚、鰹、鯖、鰯…。それらの命を奪うことは悪くなく、人間の命を奪うことはなぜ悪いと言えるのか。人間と動物を区別するものはあるのか。他の動物を殺してもよくて、人間だけを殺さない理由はどこにあるのか。(これに疑問をもった人が、「ベジタリアン」と言われる菜食主義者たちだ)
●人を殺すことはいけないとなれば、いかなる「人工妊娠中絶」も禁止されなければならないはずだ。胎児は「人間」ではないのか。胎児が人間でないとすれば、何なのか。現在もなお、日本では1日に500ほどの中絶が行われている。これは、人を殺す行為ではないのか。でなければ、中絶はいったい何なのか?
●出生前診断は、出生前にその胎児の障害の有無を診断するものである。胎内の「子」に障害がある可能性の有無を調べるものである。この診断の結果、「陽性」(障害がある)と診断された場合、日本人の9割以上が「中絶」を決断する。これは、「悪いこと」と言えるのか。もし悪いことであるなら、なぜそれを禁止しないのか。(出生前診断は、そもそも出産前に障害の有無を調べ、産まれる前にその準備をするためのものだ、という考えもある)
●日本は、第二次世界大戦後に戦争を行っていないが、世界に目を向ければ、無数の戦地がある。国家間での戦争時においては、人を殺すことは、国家命令となるし、兵士にとっては最大の「任務(仕事)」となる。彼らは、どれだけ人を殺しても、裁かれない。
●近年、ロボット兵士の開発が進んでいる。ロボット兵士が、人を殺した場合、それは罪になるのか。誰の罪になるのか。(これに近い問題として、自動運転する車の事故問題がある。自動運転する車に乗っていて、事故に遭い、乗っている人が死んだ場合、その責任はどこに、誰にあるのか?
…
子どもに「命を大切に」と教えること(押し付けること)は、簡単である。命の感動を伝えるテキストを読んで、子どもたちに「命の大切さを学んだ」と書かせることも、それほど難しくない。子どもたちも、先生の空気を読んで、そう書けばいいんだ、と考えることはできる。(そういう「授業」ばかりだから、道徳=つまらない、となる。本来、最もスリリングな授業になるはずなのに…)
だが、道徳で大事なことは、何らかの道徳的な価値(命の尊さ)を押し付けるのではなく、道徳的な問題について、子どもたちと共に議論すること、共に考えを深めていくことである。そして、その道徳での学びを通じて、価値の多様性に気づくことであり、自分の価値とは異なる価値を認める精神(寛容の精神)を会得することである。
少し難しく言えば、道徳を教える者には、悪の中に善を見いだし、善の中にある悪を見いだすことが何よりも大事である。厳密に言えば、自分の内面における善の中に、自分以外の誰かの悪を見いだし、自分以外の誰かの内面における善の中に、自分自身における悪を見いだすことである。道徳を教える者の仕事は、悪人を悪だと裁くことではない。その悪人の悪と向き合い、その悪について深く洞察することである。
「善人なをもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」(歎異抄)