Ⅰ 心理学と精神科学の関係性
ヨーロッパの伝統である「精神(ガイスト)科学(ヴィッセンシャフト)」は、今日の心理学に対していかなる貢献が可能なのか。心理学を哲学から科学の一領域へと転換させたWundt(ヴント).Wは心理学を精神科学と見なしていた。「精神的な生の質的価値によって規定されるこれら[思考の無限な形式]の法則の特質を突きとめることは、明らかに心理学の最高の課題であって、心理学はその意味においてのみ精神科学として、それゆえまた精神科学のなかでもっとも普遍的なものとして認められなければならない」(Wundt,p.193.[]内筆者)。
*Gadamerによれば、「Geistwissenschaft」という語は、19世紀に出現する。John Stuart Mill(1806-1873)の「moral sciences」(道徳科学)という語をドイツ語に翻訳する際に、この語が初めて使用された(1960,S.9)。その際、Millはこの道徳科学の方法として帰納法論理(Induktionslogik)の適用を求めた。
しかしWundt以降、心理学は精神科学の道ではなく、自然科学の道を歩むことになり、精神科学という言葉がその後心理学において話題になることはほとんどなかった。その後、心理学は、古代ギリシャ時代から問題となっている人間の内面(Innigkeit)と自然界の事物との狭間で葛藤ことになる。Gadamer,H.G.に言わせれば、「普遍と特殊との関係」、「自然と精神との間」(1996)の葛藤であるが、こうした葛藤は、人間の内面という問題に対して自然科学的方法を採用したことに端を発している。このように心理学を自然科学に向かわせたのは、心理学自身だけではなく、それまで心や精神を研究対象にしてきた哲学でもあった(cf.1993,S.176)。
*通常、心理学自身が自然科学的方法を求めた、と考えられているが(cf.大山、1974, pp.10-14)、Gadamer(1986)によれば、-とりわけKantやMendelssohnら-哲学者が心や内面の問題を締め出し、その結果として近代の心理学がこれらの問題を背負わされたのだ。そう考えると、哲学における心や内面の問題の放棄により、心理学がそれらを受け継いだということになり、心理学の自然科学化は必然ということになる。
かくして精神科学は、ヴント以降話題になることはほとんどなかった。我が国でもヨーロッパ諸学の伝統である精神科学への関心は低い。しかし、精神科学を示す独語の“Geistwissenschaft”は、-通俗的に理解される-心や魂の科学という意味に限定されず、むしろ、「理性の科学」、「知性の科学」、「Espritの科学」、「知の集合体」といった意味の概念であり、そもそも心理学と対立する概念ではない。むしろ、「認知」、「記憶」、「言語」、「人格」、「学習」、「動機」といった心理学的諸概念は、精神科学的諸概念と重なり合う。心理学と精神科学は、本来対立するものではなく、共に「知性」や「理性」の解明を試みている。だが、心理学と精神科学の間には未だ深い溝があり、-自然科学的心理学批判の文脈で心理学が精神科学を用いた以外に-両者の対話の可能性は見出されない。
*scienceという英語とWissenschaftのニュアンスの違いにも注意したい。scienceに該当する独語のWissenschaft(知の集合体/「学問」)はscienceよりもより教養的で、自然科学と人文科学を包含する広義の概念と考えられる。Langenscheidt社の独独辞典によれば、Wissenschaftは、「世界をよりよく理解し、説明するために、世界の様々な諸領域を体系的(systematisch)に研究するあらゆる活動」、とされている。
*精神科学の代表としてGadamerが想定するのは、法学、政治学、美学、歴史学(古典文献学)、文学、宗教学、医学(とりわけ精神医学)などである(cf.1993, S.11-49)。これらに共通するのは、いずれもそのエキスパート(実践者)と研究者がいる、という点であり、人間の知性の所産にかかわっているという点にある。
Ⅱ 心理学における全体性の欠如
心理学も精神科学も共に、人間の知性や理性、ないしは感性や情念などを問題とする。だが、これらを捉える際、心理学は主に「部分」に着目するのに対し、精神科学はその「全体性」を念頭に置く。この「全体性」を考慮するか否かによって研究の方向性が変わる。今日の心理学はどの分野も知識が膨大になった結果、部分的な問題に専念せざるを得ない。
*この「部分」へのまなざしは、すでにWundtの心理学の中にあった。既によく知られているように、彼が求めたのは、「意識」の過程を要素に分けることであった。故に彼自身、精神科学を捉えそこなっていて、彼のうちにおいて既に精神科学と自然科学の混同が生じていたのかもしれない。ところが、その一方でヴントは精神的な生の全体やその内容も考慮していたし、たしかに「有機的・精神的生の全体」という視点をもっていたのである!(cf.ヴント、2002、p.187/pp.192-193)
その後、心理学は、臨床への関心から、認知や記憶や人格をもった一個の人間の全体を問う地平を切り開くことになる。-心理学全体の中では未だ特殊な地位にある-臨床的な心理学は、人間を部分として捉えるのではなく、一個の全体・総体として理解することを試みるようになった。それだけでなく、臨床的な視点が入ることで、人間の歴史性や有限性を問題とするようになった。こうした臨床的な心理学は、例えば社会福祉学や教育学や社会学や精神医学といった人間にかかわるあらゆる他の学問領域に多かれ少なかれ影響を与え、実践研究や事例研究など独自の心理学的アプローチの可能性を拓いた(Schaffer,H.R.2001. 佐伯、1998. 無藤、2006)。だが、こうした臨床的な心理学も、伝統的な心理学に全体性という視座を与えることに成功しているとは言いがたい。
また主流の心理学の内部においても、今日の心理学の在り方に対する問題提起は確認できる。「近代の主流の心理学は、『心理学独自の概念や研究方法の基盤』を発展させないまま、自然科学の基準に合わせた手段(検査統計、心理測定、尺度理論、実験室での実験など)を用いて、数々の心理学の問題設定を行ってきた。故に心理学は基盤科学として体系的に心理学研究の理論化をしてこなかった」(Weber,K.S.640)、という問題提起である。主流の心理学もまた心理学自身の全体的な見通しを欠いている。
Ⅲ 精神科学が心理学にもたらすもの
心理学に強い関心を寄せたGadamerの精神科学の見解は、心理学と精神科学の接点の解明の手がかりとなる。彼は、われわれが知ろうとしている事柄が既にわれわれにとってよく知られている、という点に着目する。心理学の対象となる事柄も、認知にせよ、記憶にせよ、感覚にせよ、われわれには自明のことであり、既にわれわれ自身が行っていることである。われわれは心理学的現象から身を退くことはできず、常にその只中にいる(Darinstehen(ダーリンシュテーン))(1960,S.287)。
*また、Gadamerは「精神科学における研究は、われわれが歴史のなかで生きる者として過去に対して振る舞う仕方とまったく対立するような考え方をすることはできない」(同、S.286)、とも言っている。つまり、人間にかかわるこれまでの歴史や伝統(しきたり)から研究者自身も完全に自由になれず、全くゼロからの発見はない、ということだ。
ゆえに心理学で明らかにされるのは、精神科学と同様、未知の事柄ではなく、既に知っている事柄の新たなパースペクティブである。だが、この新たな解釈は、ただ新しいだけでなく、われわれが既に知っている事柄の別の見方である。精神科学が目指すのは新発見ではなく、あてどない再発見であった。心理学も同様に、既に知られた事柄の別の視点を示すのであり、その示される事柄に至る解釈が問題となるのではないか-Mach(マッハ),Eのいう「思考(ゲダンケン)実験(エルファールング)」(Mach,E.p.105)もこれに当たろう。これは、研究方法を問う以前に、いったい自分が何をしようとしているのかをよく熟考することである。心理学にとって重要なのは、研究を通じて新事実を発見すること以前に、既成事実の読み直し・捉え直し(=解釈)を繰り返すことの意味を問うことではないか。ここに、心理学と精神科学をつなぐ可能性が拓ける。同じ事柄であっても、心理学はそれを何度も問うことができるはずである。
*心理学においても、研究方法の厳密性のみならず、研究における自身の解釈の次元-例えば解釈の独自性や多元性-にもっと光が当てられてもよいのではないか。心理学にかかわるもろもろの諸概念は、すでにわれわれがよく知っている事柄である。ゆえに、既存の解釈を別様に仕上げる使命が心理学にはある。既存の解釈(一般的・日常的解釈)に妥当性を与えることに留まらず、既存の解釈の読み直し(別の解釈)や修正を行うことこそ、心理学研究の大きな役割ではないだろうか。
哲学から分離し、自然科学の道を歩み、さらに臨床という新たな地平を獲得した心理学は、精神科学という概念と重ね合わせることで更なる地平が拓かれるように思われる。「人間に関する学問は、人間それ自身に関する知識と、それと同時に実践に奉仕するものである」(Gadamer,1993,S.49)。
文献
大山正(1974) 心理学の基礎 大日本図書
Gadamer,H.G(1960) Wahrheit und Methode.J.C.B Mohr(Paul Siebeck) HermeneutikⅠ(1990)
Gadamer,H.G(1993) Über die Verborgenheit der Gesundheit Suhrkamp Verlag
Grubitzsch,S.Klaus Weber(1998) Psychologische Grundbegriffe.rowohlts enzyklopädie
Mach,E(1894) 廣松渉(訳) 認識の分析 法政大学出版局
Wundt,W(1921),川村宣元・石田幸平(訳) 体験と認識 東北大学出版会