*本記事は、半分ホンキ、半分ユーモアの記事ですので、ノークレームでお願いいたします。
昨日、講義の中で、学生たちと議論(?)をしていて、どこからか、一つのアイデアが出てきました。
「保育実習で使える保育思想の名言を集めてみたら、どうか」、と。
保育系に限らないけど、実習では、毎日「記録(学びのプロセス)」を書くことになります。
記録=日誌=文章を書く。
僕も、それこそ2000人くらいの学生の記録を見てきましたが、どれも「感想文レベル」。
今日はこんなことをやった/こんなふうに感じた/こんなことに困った/こんな助言をもらった…
だいたい、その程度。それは、どの大学・短大も同じレベルだと思います。
でも、そこに、偉大な思想家や実践者の言葉の「引用」が一つ入るだけで、印象ががらりと変わると思うんですよね。
…
例えば、実習記録に、フレーベルのあの名言を加えてみますと、、、、
これですね。
Kommt, lasst uns unseren Kindern leben!
フレーベルの最も有名なフレーズ。
訳せば、「さあ、私たちを私たちの子どもたちに生きさせよう!」、となります。
一般的には、「さあ、子どもたちに生きよう!」や、「来たれ、われわれの子どもたちに生きよう」と訳されていますね。
俗的には、「さあ、子どもたちと生きよう」「さあ、子どもたちと共に生きよう」、かな。(でも、これは「誤訳」)
これを、実習記録に使うとすると、例えば…
今日の実習では、A先生の保育に感銘を覚えました。午前中(●●時、●●ルームで)、A先生は、BちゃんとC君と一緒に、積み木で遊んでいました。私はその隣で、Dちゃんと絵を描いていました。しばらくすると、BちゃんとC君が三角の小さな積み木の取り合いを始めました。言葉がよく出るBちゃんが「これは、むかしから、わたしのものなの。ちょうだい!」と言うと、C君は、小さな声で必死に「やだ、やだ…」と言って抵抗していました。BちゃんはC君よりも力が強いので、あっという間にC君から三角の積み木を取り上げてしまいました。その時、A先生は、子どものように高い声で、「これは、Bちゃんよりも、C君よりもずっとむかしから、わたしのものよ~」、と言って、笑いながら、Bちゃんの手から三角の積み木を取り上げて、「ひゅ~~~~」と言って、Dちゃんの絵の上に着地させました。そうしたら、BちゃんもC君も、そしてDちゃんも、目をまんまるくして、目を輝かせました。
このとき、私は、フレーベルの「さあ、私たちを子どもに生きさせよう」という言葉を思い出しました。BちゃんとC君が積み木の取り合いをしている時、私だったら、まず取り合いを止めて、何か大人じみたことを言うと思いました。けれど、A先生は、何も注意することなく、「ひゅ~~~~」と言って、みんなを笑わせて、この場面を終わらせました。保育者は、大人ではありますが、子どもの心を忘れてはいけない、ということを学びました。
みたいな…。(ちょっと、できすぎた記録かな、、、汗)
でも、このフレーベルのフレーズを使ったところから、実は「考察」が始まっているんです。「目を輝かせました」までは、ただの「事実」。この事実から、フレーベルの記述を通して、「保育者としてのあり方」を考えているんです。「保育者は、大人ではありますが、子どもの心(フレーベル的には「統一的な生命」)を忘れてはいけない」、というのは、まさにこの日に、実感をもって学んだことでしょう。しかも、この「~忘れてはいけない」というのは、「事実」ではなく、「原理」です。この「原理」を、フレーベルの言葉に重ねて、考えているわけです。(あと、せっかくなら、引用の後に、ドイツ語で、(Kommt, lasst uns unseren Kindern leben)と書いて添えてもいいかもしれません。
(ちなみに、kommtは、comeのこと。lasstはlassen(使役動詞)で「let(させる)」。unsは「私たち(wir)」の3,4格。unseren Kindernのunserは「私たちの」で、Kindernは「子ども」の複数系で、lebenの目的語(4格)。だから、「来い!私たちに私たちの子どもたちを生きさせよう」、となります。わりと謎めいた言葉でもあるんです…)
…
というふうに、偉大な思想家や実践者の言葉を、実習記録に盛り込むことで、記録に「厚み」をもたせることができる、といいますか。「他の実習生とは違うぞ」と思わせることができるのでは、と思うのです。
「引用する」というのは、「ひとりよがり」の「感想文」の回避につながります。引用ばかりだと、現場はドン引きだと思いますが、二日に一回くらい、誰かの「引用」があると、「この子(学生)は、頑張っているんだなぁ」、と思ってもらえるのでは?、と。保育や教育の現場では、ちゃんと勉強している子を悪く思う人はいません(いたとしたら、その人に問題があるだけだと割り切りましょう)。
というわけで!!!
いくつか、保育実習で使える教育思想・保育思想のフレーズを、ご紹介しましょう!
ここでは、わりきって、「実習で使える10のフレーズ!」、としちゃいましょう。
部分的に使うのも「アリ」です。
実習で使える10の引用フレーズ!
①ペスタロッチ
「教師よ、自由の善なることを確信しようではないか。…君の子供はできるだけ自由にされなければならない。彼に自由と平和と沈着とを与えうるすべての機会を尊重せよ。事物の内的自然性の結果によって教えうるすべてのことを、決して言葉で教えてはならない。彼をして、見させ、聞かせ、発見させ、倒れさせ、起きあがらせ、失敗させよ。行動や行為が可能な場合には言葉はいらない。彼は自分でなし得ることは自分でなさなくてはならない。君は人間よりも自然が一層よく彼を教育することを発見するだろう」(「育児日記」)(*実習生が子どもに言い過ぎたり、厳しくし過ぎたりしたときに使えるフレーズ。「人間よりも自然が一層よく彼を教育するだろう」が大事)
「発育不良の極端な悲惨のなかから、かれらはやがて立ち上がり、人間らしさを感じ、信頼し、友情を知るようになります。どれ程落ちぶれた人間の魂にも人間性は生まれてくるもので、厳しかった長い歳月の後、優しい人間らしい手がさし延べられた折には、惨めにうち棄てられた子供の目から、感じ易い驚きの光がさしてくるものです。このように深い貧困の直中で受けとる感情は、道徳上・教育上子供に最も重要な結果をもたらすでしょう」(「ノイホーフだより」)(*児童福祉施設(実習Ⅲ)の実習生向け)
②フレーベル
「ほんとうの教育、教訓、および教授はすべて、また正しい教育者は、どんな瞬間にも、どんなことを要求し規定するさいにも、同時に両端的、両面的でなければならない」(「人間の教育」)
③マルティン・ブーバー
「幼児は決して、最初にある対象を知覚し、それから自己をその対象と関係させたりするのではない。最初にあるのは、関係への努力だ。向かい合う存在がその中へ引きいれられる、あのふっくらとした手だ」(「我と汝」)
④マリア・モンテッソーリ
「子どもが上手くゆくと感じて取り組んでいるときは、決して手助けしないように(Never help a child with a task at which he feels he can succeed)」
⑤ミルトン・メイヤロフ
「他者が成長していくために私を必要とするというだけでなく、私も自分自身であるためには、ケアの対象たるべき他者を必要としているのである」(「ケアの本質」)(*「私自身」が「子ども」を必要としているということに気づいた時に使えるフレーズ。子どもが「私」を必要としなければ(承認してくれなければ)、「私」が保育者として存在する意味はありませんからね)
⑥ユルゲン・モイズィッヒ
「子どもたちは、保育者に付き添われながらも、自分たちの世界にある新たな「ひとかけら」を発見し、探求し、理解していく。子どもたちは、同年齢の子どもたちとの社会的な関係の中で、最初のあらゆる経験を重ねていき、互いに学び合い、そして互いに対する関心を学んでいく。そのすべては遊びの中で起こるのだ」(*子どもは大人の言われたことをただやるのではなく、つねに(遊びの中で)自ら何かを発見している、ということに気づいた時に使える一文)
⑦倉橋惣三
「自ら育つものを育たせようとする心、それが育ての心である」(「育てのこころ」)
⑧神谷美恵子
「乳児は口もきけず、何から何まで周囲の手を借りなければ生きて行けない存在だが、…そのほほえみ一つ、泣き声一つに周囲の者のこころをゆり動かす大きな力がある」(「こころの旅」)(*赤ちゃんの「生」への力やパワーを実感した時に使える一文)
「真の遊びとは、直接に利害関係のないことに対して注意と興味を示すことから始まる」(「こころの旅」)
⑨ヴァルター・ベンヤミン
「子どもが大人に望んでいるものは、はっきりとしたよくわかる描写であって、子ども用の描写ではない。子どもがいちばん望んでいないものは、大人が子ども用と考えるような描写なのだ」(「教育としての遊び」)(*子どもが、コピーではないホンモノの物(遊具や教材)に触れた時に使えるフレーズ)
⑩大村はま
「子どもはふたたびその日を迎えないし、その時間も迎えない。教師たる自分は、最高の自分でなければならないことはいつだって変わりはない。若いということは、なんの申しわけにもならない」(「教えるということ」)(*何か、実習中の活動の中で何か失敗した時に、これを思い出したい)
これらの言葉は、無数にある言葉のごく一部です。
自分の実習記録に、こうした偉人の言葉を一つ添えるだけで、ぐっと内容が引き締まります。
また、こうした言葉から、一日の実習を見つめてみるのも「あり」だと思います。
例えば、神谷さんの「真の遊びとは、直接に利害関係のないことに対して注意と興味を示すことから始まる」という言葉を頭に入れて、その観点から、一日の実習を行うんです。そうすると、遊んでいる子どもを見つめながらも、「利害関係のないものに興味を示す子どもの姿」を探すことになります。神谷さんの言葉が、その日の実習生の発見を導いてくれるのです。
偉大な思想家の言葉は、実習生に「視点」を与えてくれます。視点とは「見るポイント(パースペクティヴ)」です。
ただ眺めていても、何も見えてきません。もちろん、ただ責任実習をやるだけでも、何も見えてきません。
いつでも、僕らは、何らかの「視点」が必要なんです。
僕は、いつでも、「自分を子どものように生きさせよう」と思って、日々の教育活動を行っています。子どものように生きさせるというのは、子どものように振る舞うことではありません。「子どもの最も優れた点=子どもの統一的な生命」を自分自身に生きさせるんです。素直で、真面目で、妥協なく、何事にも無邪気に、全身全霊で生きることを、自分に課すんです。
保育現場では、そうした思想を「保育観」と呼んだりもしています。
どう保育を考えるか。
その基礎を作るのも、学生時代の大切な「仕事」です。
大学で学んだことを踏まえて実習に挑む、というのは、まさにそういうことだと思います。
【追記】
今日、第四土曜日の会で、この記事を読んでもらいました。
現役保育者たちの反応としては、おおむね良好かな、と。
なので、まぁ、学生たちの中の数人でも、「引用」を試みてくれれば、と。
ただ、一部の保育者からは「引用なんていいから、もっと子どもを見て!」という意見が出てくるかも?、という指摘も。
でも、第四土曜日の会に出てくるような熱心な保育者なら、しっかり評価してくれるでしょう。
(保育業界にもいろんな人がいますから…)
「事例」については、「ここまで書ける実習生はまずいない」とも(;´・ω・)
ほとんどが、「反省文」か「感想文」なんだって。。。
まぁ、そうだろうな、、、
事例研究って、大事なんです。
でも、なかなか、そこに気づいてくれないんですよね、、、(;;)