Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

10月◆第三日曜日の会 「常識」の向こう側

10月19日(日)に、19回目の「第三日曜日の会」が行われた。

参加者は僕を含め8人(途中からお客様一人)だった。もう少し来てくれると嬉しいけど、8人くらいが会にとってはベストな人数かな、とも思う。あまり多すぎると、こういう実践検討会は意味がなくなるかな、とも思うし。大規模になると、参加者の間の一体感(一つの事柄に向かう感覚)が薄くなるし、意見が言いにくくなってしまうこともまた事実。難しいところだが、何人であろうと、来る人や必要とする人がいる限り、やっていけたら、と思う。(体力がゆるすかぎり)

この日の議論内容は以下のとおり。

①保育における牛乳神話/保育園での運動会不要論?!
②匿名の援助の可能性
③保育園待機児童ゼロの弊害とその犠牲となる子どもたち

毎回決めているわけではないんだけど、今回のテーマは、(どういうわけか)「常識の向こう側」っていう感じのものになってしまった。「自明性の彼方へ」と言ってもいいかもしれない。このテーマは面白いかもしれない。教育・保育・福祉の実践研究会だけに、現場の(無意識的な)常識を意識化して、それを越えていこう、という営みは、極めて実践学的であるし、実践哲学である。

LESSON 1 牛乳神話と運動会 by Kさん

毎回ユニークで面白い発表をしてくれる保育士のKさん。このところ、M君という2歳子の事例を中心に話をしてくれる。牛乳を飲みたがらないM君と格闘する日々が続いている。また、運動会シーズンということもあって、運動会の事例ももってきてくれた。

M君と牛乳との格闘の日々も既に数ヶ月。最初は全く飲んでいなかったM君だが、今も「だましだまし」牛乳を飲ませているとのこと。それでもやはり自ら牛乳を飲むことはなく、あいかわらず苦悩の日々が続いていた。最近は、数字を使って、「三番目のM君、飲もう!」と言って、集団の力を借りて飲ませているようだ。しかし、どうもすっきりしないKさん。

ここで三つの段階に分けてみた。①牛乳を一度も飲んでいない段階、②牛乳を飲んだ後、牛乳というものを知った段階、③牛乳を既に30回以上飲んだ段階、だ。①の段階で牛乳を飲ませることは、教育や保育上、やはり重要である。まだ出会っていない「牛乳」に出会わせることは、子どもに新たな世界を教える一つの機会だ。そして、だいたいは②の段階で牛乳が飲めるようになり、日常的な飲み物となっていく。が、M君はなかなか馴染んでくれない(習慣化されない)。そして、③の段階に入った。何度飲ませても、M君は牛乳を好きになれない。

これだけ飲んで嫌いなもの(苦手なもの?)をこれ以上無理に飲ませることに意味はあるのか?!

なぜ子どもに牛乳を飲ませなければいけないのか。かつては牛乳は完全食品であり、貴重な子どもの栄養源になっていた。しかし、豊かな現代社会では、牛乳を飲まずとも健康に成長することはできる。また価値観の多様化により、家庭によっては牛乳を飲ませていない家もある。M君はお茶ならいくらでも飲める。牛乳を飲ませなければならない理由とは何なのか?(乳児や幼児とかかわるときに、いつも牛乳が問題となる) 

この理由が見つからなければ、保育者は、①このまま(だましだまし)飲まし続ける、か、②飲みたくないなら飲ませない のいずれかの選択しかできなくなる。通常なら、この両者の選択肢しかない。議論を進めていくと、牛乳を飲ませる根拠は、「今後、小学校や中学校で毎日牛乳が出るから」ということになった。しかし、これは根拠にならない。なぜ小中学校で牛乳が出されるのか、この根拠が欲しいのだ。なぜ教育現場は牛乳に固着するのか。お茶ではダメなのか。水ではダメなのか。

また長期的な味覚や嗜好の発達についても考えなければならない。M君のみならず、子どもの口には合わないが、大人になると大好きになる食べ物や飲み物はたくさんある。しそ、梅干、しらす、コーヒー、紅茶、さらには青汁なんかも。特にコーヒーは子どもが嫌いな飲み物の代表例であろう。こうした食材は問われず、なぜ牛乳だけが教育現場と強く結びつくのか。ここに「牛乳神話」があるように思われるのだ。

LESSON 2 匿名援助の可能性

これは、僕の発表。「匿名」というのは、現代ではあまり良いものとして語られていない。匿名=無責任というイメージもとても強い。2ちゃんねるのような匿名掲示板の存在もあって、匿名性は無責任で勝手なもの、という考え方が根強くあるように思われる。しかし、匿名であるからこそ、できることや伝えることもあるのではないか、というケースをいくつか報告した。これも「常識の彼方」の問題である。

僕は、赤ちゃんポストの研究から、匿名性について深く学べた(来週、赤ちゃんポストの発祥の地、HamburgのSterniParkに行く!) 匿名だからこそ得られる「安心感」や「信頼」というのもあるのではないか?! このことについて議論した。

LESSON 3 保育園待機児童ゼロの弊害とその犠牲となる子どもたち

1年目のHさんの発表。Hさんは某公立保育所勤務。公立だから、というわけではないかもしれないが、「待機児童ゼロ」を市が掲げ、ゼロにするために、かなりの児童を保育園が受け入れるようになった。ゼロにすることはいいことなのだが、保育士の数がままならないままに、(保育しきれないくらいに)子どもを受け入れてしまっているのだ。行政の処遇に振り回されるのは、いつも現場である。(福祉施設も大混乱!身体障害、知的障害、精神障害が統合され、どういうわけか保育士が精神障害の対応をする、という珍ケースも増えているのだ! これは極めて理不尽なことであろう!) 身体障害と知的障害とでもやはりやることは全然違うし・・・

そんな中で、行政の措置に振り回されながら、現場で子どもに対応するHさんの奮闘記が口頭で語られた。この内容は、とてもデリケートな問題なので、こちらに掲載することは控えておこう。ただ、現実問題として、保育士不足や保育士の給与面での厳しさは、もっと問題にされてもいいと思うが・・・ 教育・福祉・保育の仕事の経済的な厳しさは、極めて深刻である。若者がすぐ辞め、ベテランが育たないのは、やはり給料の安さがあると思う。というか、日本の給与体系そのものがおかしいことになっているのかも。(ただ、これは「近代化」の当然の帰結でもあるのだが・・・ エリートの勉強不足ってことだな)

  

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