Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

2015年9月第四土曜日の会―「だめ!」以上に問題のある「そうだよね… でもね…」―

 

2015年9月の第四土曜日の会は、人数も多く、また議論も激化しました。

僕的には、「みんな、ここまでしっかりと議論ができるようになってきたかー」、と内心感動していました。

「議論すること」は、民主主義社会の鉄則。でも、日本では、「議論すること」は、学ばれていない。

大人も、「議論すること」は、ほぼ苦手であります。

議論とは、答えを出すプロセスではなく、問いを探すプロセスです。答えなんて、みんな人それぞれ。正しい答えが一義的にあるケースというのは、この人間社会にはほぼないんです。「安保法案=戦争法案」が正しいか間違っているかなんて、実際のところ、誰にも分からない。賢明な人なら、「正しいかもしれないし、間違っているかもしれない」、と答えるのみでしょう。

分からないからこそ、みんなで議論するんです。


①「気持ちの切り替え」

久々の第四土曜日創設メンバーの発表。0歳児の泣いている赤ちゃんの「抱っこ」を巡る事例でした。発表者のKさんは、どこまでも心優しい保育実践者。0才の赤ちゃんが泣いているなら、どんな場合でも、抱っこをするのが自然だろう、と考えていました。が、現場の先輩から、「泣かせておけばいい。自分で解決することを学ぶことも必要だ」、「自分で気持ちの切り替えができるように」、という「教育的配慮」をするように、と言われたそうです。赤ちゃんの身の危険はありません。保育園には、他の子どももいます。なので、抱っこが習慣になってもいけないし、我慢することも覚えなければならない、と。でも、相手は0歳児の赤ちゃんです。そんな、教育的配慮は必要なのだろうか。そういう疑問を出してくれました。

第四土曜日の会のカラーなのか、やはり「どんなときでも、0歳の赤ちゃんであるならば、抱っこをしてあげるべきだろう」、という意見が多く出されました。「親であれば、間違いなく、疑いなく、抱っこをするものだ」、という意見もありました。無論、そういうときに、赤ちゃんを放置し、ほっておく親もいます。が、普通の親であれば、0歳の赤ちゃんが大泣きをしていたら、まずは抱っこをするはずです。

ではなぜ、先輩保育士は、そんなことを言ったのでしょうか。そこに、タイトルの意味があります。「気持ちの切り替え」。これは、0歳の赤ちゃんに求めるべき教育的配慮なのでしょうか。その根拠はあるのでしょうか。Kさんは、この「気持ちの切り替え」を赤ちゃんに要求することに違和感を覚えます。

問題は、「教育的配慮という名の暴力性」だという話になりました。教師や保育者は、「教育的配慮」という大義名分において、子どもへの「暴力」を肯定します。しかも、怖いのは、その暴力性を教師や保育士自身が気づいていない、ということです。「子どものために」と思っていることが、実は子どもへの暴力になっていることが多々あります。この辺について議論をしました。

②A君は絵本の世界を生きていたか?!

第四土曜日の会の中でも、いつも質の高い事例を持ってきてくれるIさん。今回は、「絵本」の事例。

Iさんも「批判的意識」を強くもつ保育者で、今回は、「絵本」を否定した外部講師に対する「抗議的事例」になっていました。2歳のA君は、『ぐりとぐら』を読んで、その中に出てくる「マッチ」に疑問をもって、「マッチって何?」、と保育者に問うてきたんだそうです。

ぐりとぐらは、基本的に2歳児では「読めない」とされている絵本。Iさんは、この絵本をA君はちゃんと生きていた、と考えています。が、外部講師的には、「そんなことは必要ない」、ということになります。「そんな本を読む前に、遊ぶことが大事」、とばっさりと絵本を切り捨てたそうです。

会では、「A君はぐりとぐらの世界を生きていたか?」、という問いから、「絵本は、理解していなければ、読んではいけないのか?」という問いに移っていきました。分からなくても、楽しめることはないのか。分からなくても、絵本の世界を生きることはないのか。そもそも、分からない世界が経験できないなら、人間はどうやって未知なる世界を知るのか。…どんどん哲学的になっていきます(苦笑)。

おそらくA君は、小学生がぐりとぐらを読むようには読めていなかったでしょう。でも、だからといって、「無意味」と切り捨てることはできないでしょう。第一、A君は、この絵本を拒絶していないし、ちゃんと目で絵を追っていた。とすれば、それを辞める理由はない。

Kさんの事例でもそうですが、常に、子どもの教育や保育には、「対決」があります。そこが、彼女たちに、「意識化」されていたことに、僕は驚くと共に、嬉しく思いました。 「敵」は、単純な思考で、こちら側に、何らかの実践を要請してきます。「こうしたほうがいい」「こうすべきだ」、と。もちろん自分が「正しい」と思うことはそうすればいい。だけど、自分が「それは違うでしょ?!」と思うことについては、同意する必要はない。それが、プロの判断だと思う。

面白い発表だった。

③抱っこの功罪

続いては、乳児院のOさん。Kさんと同様、「抱っこ」が主題の事例発表でした。乳児院に限った話ではないですが、小さな子どもが集まる施設では、「午睡」「お昼寝」があります。家で寝るのと違うのは、「みんなで一斉に寝る」ということであり、そこには、常に「小さななわばり争い」があります。

今回の事例では、4人の幼児が自分たちの「寝床」を確保する際に起こった事例でした。Rちゃんは、自分が寝るべき場所ではなく、お友達のAちゃんの布団に入ってしまった。しかも、後から割り込むように。この時、奪われたAちゃんは、このRちゃんの「侵略」に、怒り、戸惑い、泣いてしまった。Oさんは、Rちゃんに、「Rちゃん、後から遅れてきたのに、割り込んじゃダメだよ」、と言った。すると、Rちゃんはぷつんと糸が切れたように、泣き出し、ひっくり返って暴れだした、と。そのあと、とあることで、みんなの関心が「髪の毛のゴム」に向かい、Rちゃんも気持ちが切り替わって、みんな、午睡することができた、という話だった。Oさんは、「抱っこをしないで問題が解決した事例」として取り上げていた)

そのあと続けて、今度は、抱っこをして問題を解決した事例を取り上げた。

Oさんは、「抱っこすべきかどうか」という話をしたかったようだったが、議論は全然違う方向へと展開していった(その原因は僕にあったりする…汗)。

一番罪深いのは、「何か問題があったら、抱っこをすればいい」、という乱暴、かつ思考停止した対応だろう、ということ。「心のない抱っこ」ほど、罪深いものはない。抱っこをするにしても、その子のことを専心して抱っこしているかどうか。「抱っこをすればいい」という安易な「考え」を否定することで、色んな議論に発展していった(気がする)。

④給食はすべて食べなければいけないのか?!

保育園の事例。A君は、給食が大好きで、もりもり食べる男の子。なのに、この日は、給食中、7割ほど食べたとたんに、急にスプーンを投げ出して、「あー!!!」といって、泣いて、怒りながら、部屋の隅に走っていってしまった、という、少し「不気味」な事例でした。最初、僕は、「なんかのたたり」に合ったのかと思いました(苦笑)。給食中、いきなりこんな風になったら、誰でもびびると思います。

多分、発表者のKKさんは、どうしてA君が突然「憑依」したのかの原因について考えたかったのだと(後で)思った。

けれど、「原因探し」ほど、(色んな意味で)つまらない議論はない。恐らくは、何か「理由」があったのでしょう。嫌いなものがあったとか、この日は体調が悪かったとか、何らかの理由が…。いきなり「憑依した」というのも、一つの理由にはなる。

でも、今回の事例で考えたのは、「なぜ給食は残してはいけないのか」、という問いであり、また、「嫌いな食べ物は残していい時代になっているけれど、誰もが皆、『一口は食べてみよう』、という意味のない(?)教育的配慮をするのか?」、という問いでした。

分かりにくいかもしれないけど、昔は、僕の時代は、嫌いなものでもなんでも、無理にでも、全部食え!という「圧力」が「先生」からかけられていました。僕も小さい頃、給食を、正座して、椅子を机にして食べさせられた記憶があります。ニンジンかな。昼休みが終わるまでに食べないと、ピンタされました。今はさすがに、そんな「虐待じみた体罰」は行われていないそうですが、それでも、「一口食べてみよう」という圧力は続いているそうです。

「なんで、一口食べなきゃいけないの?」、これが、今回の問いでした。

世界的には、日本の給食はただでも「種類が豊富」です。アホみたいに「贅沢」です。品目も異常に多いです。一つくらい食べなくても、死ぬことはありません。ドイツの給食なんて、ハムとチーズとパンと牛乳とフルーツ一種くらいなもんです(毎日)。それでいいはずなんです。でも、日本の給食は、アホみたいに贅沢で、バリエーションに富んでいます。それを前提にすると、「一つ、二つ食べなくても、問題ないのでは?」、と。それが、「問い」としてこの国で成り立つのか、そんな(無意味な)議論を延々としました(苦笑)。

面白かった。

⑤保護者がふと漏らした「内々のこと」

最後の事例は、二年目のMさん。

他クラスの子ども、Aちゃんの母親と話していて、意図せず、偶然、そのAちゃんが今、療育センターで某障害の検査を受けていることを知ってしまうMさん。いったい、私はどうすればいいのか、という相談的な事例でした。

ま、この話は、内々の話になるので、ここでは書きません。

が、一つ書いておくならば、保育者や教師は、小児科医でもカウンセラーでもなんでもないのだから、「障害云々」なんかにこだわらず(知っておくべきことは知っておいて)、Aちゃんという一人の人間と向き合い、その子がより幸せになれるように、尽力すればいい、ということかな、と。小児科医やカウンセラーや障害の専門家なら、Aちゃんを「障害児」としてみればいい。でも、僕らは、そういう専門家じゃないでしょ?!、と。まずは、「人間」として見ることが一番大切でしょ、と。

じゃ、人間としてAちゃんを見るってどういうこと?!って。で、哲学的な話になっていく、と(苦笑)。

PS

あと、どこかの発表の時に、「ダメ」というのと、「そうだよね、でもね…」というのと、どちらが「罪深いか」ということについて議論しました。一見、受容しているように見える「そうだよね、でもね」。

でも、これって、実は、直接「ダメ」というより罪深くないですか?!、と。例えば、「失恋」する時に、ざっくり「嫌です」と言われるのと、「そうですかー。とても嬉しいです。でも、あなたのこと好きじゃないです」、と言われるのと、どっちが嫌か、という話で。

保育者は、概して、「そうだよねー。でもね」というレトリックを使います。で、本人たちは、それを「受容する」だと思っています。けど、それは、受容じゃないでしょ?!、と。この話、どこかで書きたいな、と。


はい。

大急ぎで、今回の第四土曜日の会のレポを書きました。

メモってことで、ご容認を。

最後に、音楽とヤツルギを愛するMさんの「楽曲披露会」をやって、楽しみました。

迫力あったなぁ(ボーカルが)。

というわけで、4時間の白熱討論会(?)が終わりました。

今回は、たくさんの参加者に恵まれて、しかも活発に議論できて、楽しかったです。

第四土曜日の会も、そろそろ「中堅勉強会」になってきました。

これからも、細く長く深くディープな研究会として、続けていけたら、と思います。

そして、いつか『第四土曜日の会編』で、本を出したいです。

タイトルは、『実践を哲学する-第四土曜日の会の事例研究―』、かな(苦笑)

その時までは頑張るぞ、と。

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