聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマの信徒への手紙 12:11〜13

2020-10-18 17:48:43 | 聖書
2020年10月18日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:11~13(新共同訳)


 救いは、神と共に生きるところにあります。神がわたしたちに求めておられることは、神と共に歩みなさい、救いにふさわしく歩みなさい、ということです。12:1では「あなたがたのなすべき礼拝」という言い方をしていますが、その意味するところは「キリストの救いに与った者としてふさわしい仕え方をする」ということです。
 「ふさわしい」という言葉は、信仰生活を考える上で大切な言葉だと思います。救いにふさわしく歩み、恵みにふさわしく仕えるのです。

 わたしたちはキリストの救いに与ったので、キリストがなされた務めを担います。キリストの務めは大きく3つあります。神の言葉を伝える預言者の務め、神の御心に従って治める王の務め、神との関係を執り成す祭司の務めです。これをキリストの三職、3つの職務と言います。ここでは6節以下で預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善が挙げられていました。それぞれキリストの三職に分類することのできる務めです。そしてこれらの務めを担うためには愛が必要です。
 聖書では「神は愛です」(1ヨハネ 4:16)と言われています。そしてわたしたちはその愛である神にかたどって造られました(創世記 1:27)。わたしたちは神の愛を受けていくとき、神の愛に導かれてキリストの務めを担っていくのです。わたしたち自身の内から愛を絞り出すのではありません。そうではなく、尽きることなく注がれる神の愛を受けて仕えていくのです。

 聖書には様々な規定がありますが、その中にはわたしたちが仕えることに疲れきってしまわないように、わたしたちを守り、神と共に歩ませるためのものもあります。
 安息日の規定などはまさしくそのための規定です。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」(出エジプト 20:10)この戒めにより、奴隷も家畜も寄留者も守られるのです。
 出産については40日間の清めの期間が定められ、「その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。」(レビ 12:4)と定められています。誰も「神が命を与えてくださったのだから、すぐにでも神に感謝を献げに行きなさい」などと言うことはできないのです。罪人の熱心が、出産を終えた女性を苦しめることがないように神の戒めが守っているのです。

 わたしたちは仕えていくとき、神の御許で十分に休み、神の愛を受けることが必要です。その上で神から受けたものに「ふさわしく」仕えるのです。このことを忘れてしまうと、わたしたちの信仰はどんどん律法的になり、聖書の勧めは努力目標へと変わっていってしまいます。
 ですから、聖書の勧め・戒めを読むときには、気をつけなくてはなりません。真面目で熱心な人ほど、勧めや戒めを律法的な重荷にしてしまいます。

 そこできょうの箇所ですが、実はここの文章、原文では9〜13節が一つの文章になっています。これをそのまま翻訳しますと、長すぎますし、読みにくいので、短く区切って訳しています。
 その際、原文には書かれていない動詞を補っています。新共同訳聖書を見ますと、きょうの箇所には「仕えなさい」「祈りなさい」「努めなさい」と勧めが出てきますが、原文では「〜なさい」に当たる言葉はありません。
 9節で「愛には偽りがあってはなりません」を「愛は偽善ではありません」と命令の意味ではなく読んだ方がいいのではないかと申し上げましたが、ここも命令の意味ではなく、神の愛に導かれている指標として読んだ方がいいように思います。どういうことかと言いますと、自分がそうできていないときには、頑張るのではなく、自分にはもっと神の愛が必要であることを知って神の前に静まるのです。

 きょうの箇所は、9節に続いて「愛は偽善ではありません」だから「このようであるのです」という意味でつながります。
 11節「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」ここは原文では「熱心さの点では怠惰ではなく、霊においては燃え、主に対しては僕のように仕え」と書かれています。
 「熱心さの点で怠惰ではない」というのは「嫌々・渋々やるのではない」ということです。嫌々・渋々やっているときは、恵みにふさわしく神の愛に導かれてやれていない、ということです。
 その場合、わたしたちは疲れています。休息が必要ですし、神の愛を受けて癒される必要があります。神の許に立ち帰って、静まって神の愛を受けなくてはなりません。
 もう一つわたしたちが考えなければならないことがあります。イエスがマルタに言われたように、それがただ一つの必要なことではなく、思い悩み・心を乱す多くのことである可能性です。罪人の信仰の熱心は、しばしば思い悩み・心を乱す多くのことを増やしていきます。信仰と善意で、なくても大丈夫なものを増やして、自分で重荷を重くし、疲れてしまいます。特に教会では礼拝を献げる安息日なのに、教会に来て疲れて帰るということがあります。気が乗らない、何でこんなことをしているのかと思うときには、それが本当に必要な業なのかを問うてみることは、必要なことだろうと思います。

 「霊に燃えて」とあります。霊は神とつながる働きをします。今、祈り会で読んでいる詩編には「わたしの霊はなえ果て」(詩編 143:4, 142:4)という表現が出てきます。霊がなえ果て、神とのつながりが弱まっては主に仕えることができません。わたしたちは聖霊が与えられるように祈ることが必要です(ルカ 11:13)。わたしたちの霊が燃えるためには、神がご自身の息・聖霊を注ぎ与えてくださることが必要です。祈りの勧めは次の12節に出てきます。

 12節「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」原文では「希望を喜ぶことにおいて、苦難を耐えることにおいて、祈りに熱心な」とあります。
 わたしたちが未来に向かって生きるのには、希望が必要です。希望があってこそ、苦難を耐え忍ぶことができます。そして希望は神から来るものです。神の御心、神の救いの御業が希望をもたらします。聖霊がわたしたちを救いに与らせてくださるところに希望が生まれます。
 先ほども言いましたように、聖霊を求めて祈ることが大切です。ですがこれは、祈らなければならないと言うよりも、神と共に歩むために必要な祈りを、神は恵みとして与えてくださっている、わたしたちは祈ることができる、というようにわたしは受け止めています。

 13節「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」というのは、原文だと「聖徒の必要のために提供し、よそ者への愛を実践して」となっています。
 これは、この手紙が書かれた時代状況を考慮する必要があります。まだキリスト者は少数者で、迫害される立場でした。迫害を受けて、住んでいた土地を離れ、同じ信仰のキリスト者を頼りに逃れてきている人たちのことが言われています。今日で言うと「難民」に当たる人たちです。そのことが、この手紙が書かれた時代には、教会の大切な課題でした。そして今も数多くの難民がいます。わたしたちが覚えなければならない課題の一つです。

 聖書、特に旧約には、寄留者として生きた人たちが登場します。アブラハムも、ヤコブも、ヨセフも、モーセも、ダビデも皆寄留者でした。そしてわたしたちもまた寄留者です。聖書は「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ 3:20)と言います。旧約の戒めには「あなたがたも寄留者だったのだから〜しなさい」と命じられているものがあります。寄留者であることは、神の御心を理解し、戒めを行うために必要な経験でした。罪の世にあって生きていく場所を持てずにいる人たちのために、神があなたがたにしてくださったようにあなたがたもしていくのだ、ということが言われているのです。まさに神の務めを担う行為です。

 パウロは、教会において神の愛を分かち合っていけるように勧めをします。それが神の憐れみにふさわしい神の民のあり方、仕え方だと勧めているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたが与えてくださった救いにふさわしく仕えさせてください。あなたが祈りを与えてくださいましたから、聖霊を求め祈りつつ歩ませてください。どうか父・子・聖霊なるあなたとの交わりに内に歩み、仕えていくことができますように。あなたの愛を分かち合い、共に与る喜びをお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン