聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 10:14〜17

2020-03-08 21:29:46 | 聖書
2020年3月8日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 10:14~17(新共同訳)


 パウロは9〜11章で、同胞イスラエルの救いを願って語ります。10:1では「わたしは彼ら(イスラエル)が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と書いています。
 だからパウロは、律法や割礼による自分の義によって救われようとするのではなく、神が望んでおられるキリストによって与えられる神の義によって救われることを伝えます。

 神は、わたしたち罪人との間に「信じる」という関係を築こうとしておられます。それは神の民を選ばれた初めからそうでした。イスラエルの祖アブラハムに対して「アブラム(アブラハムと改名するのは17章から)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記 15:6)と聖書は語ります。神は、神とわたしたちの関係は「信じる」のが正しい(義である)と考えておられます。

 神は時至って、ご自身の御子を救い主として世に遣わされました。それがイエス キリストです。神は、救いを成し遂げられたイエス キリストを信じることにより、わたしたちとの間に正しい関係(義)を築こうとされました。パウロはそれを「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(ローマ 3:22)と言いました。

 そこでパウロは言います。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。」「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。」「また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」
 パウロはここで最終目的である「呼び求める」から遡り、呼び求めるには「信じる」ことが必要。信じるためには「聞く」ことが必要。聞くためには「宣べ伝える人」が必要と語っていきます。
 「呼び求める」は「主の名を呼ぶ」という形で創世記 4:26に出てきます。「主の名を呼ぶ」というのは、礼拝を表し、祈りを表し、神と共に生きることを表す言葉です。聖書が告げる救いは、神と共に生きることです。ですから、パウロは救いに至る道を示したのです。

 救いに至る大本は「宣べ伝える人」です。宣べ伝える人がいなければ、救いに至る道は開かれません。ですが、この大本にはさらなる大本があります。わたしたちに語りかけておられる神こそが救いの大本、根源です。その神がご自身の思いを聞くことを求めておられるので、宣べ伝える人を遣わされるのです。そして、復活の主イエスも「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ 28:19)と弟子たちを遣わされました。
 ここでパウロはイザヤ書を引用して語ります。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(イザヤ 52:7)。声や口ではなく、足と言われているのは、良い知らせを「運ぶ」ことを強調しているからです。良い知らせは福音です。イザヤ書では、バビロン捕囚からの解放の知らせ。イエスの時代には、勝利の知らせ。聖書では、罪に対する勝利、罪からの解放の知らせです。

 しかし、良い知らせ=福音が伝えられても、すべての人が福音を受け入れる訳ではありません。パウロは再びイザヤ書を引用して「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」(イザヤ 53:1)と語ります。
 けれど、受け入れない人がいるから語らないとはなりません。拒絶され十字架につけられるためであってもイエスは世に来てくださいました。復活の主は、イエスを否定し、迫害者であったパウロのところにまで来てくださいました。

 イエスこそ神の御心、その愛を体現する神の言であるお方です。ですから、イエス キリストの言葉に聞くこと、イエス キリストを宣べ伝える言葉を聞くことから信じることは始まるのです。

 ここに「言葉」という単語が出てきます。新約はギリシャ語で書かれています。
ギリシャ語で「言葉」というと「ロゴス」という単語が有名です。新約でも300回以上出てきます。中でも有名なのは「初めに言があった」(ヨハネ 1:1)だろうと思います。しかし、きょうの箇所で使われている「言葉」は「ロゴス」ではありません。ここで使われているのは「レーマ」という単語です。
 「レーマ」がどういう意味合いの単語かと言いますと、「口から発せられた声、話された言葉」という意味合いの言葉なのです。実は8節の「御言葉はあなたの近くにあり」も、次回説教する18節の「その言葉は世界の果てにまで及ぶ」も「レーマ」なのです。

 パウロがここで「レーマ」「口から発せられた声、話された言葉」という意味合いの単語を使ったのは、彼の実体験から来るのだろうと思います。使徒9章に回心前のパウロ=サウロ(パウロのユダヤ名)が復活のキリストと出会う場面が記されています。「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』」復活のキリストの「口から発せられた声=レーマ」を聞いたことから、パウロの信仰は始まったのです。

 礼拝は、パウロと同じようにイエス キリストと出会い、自分に語りかけられる神の言葉=レーマを聞いて、救いに至る道を歩み出すために備えられた恵みです。わたしたちを御許へと招く招きの言葉、わたしたちの救いを願う神の愛を語りかける聖書朗読と説教、神が今わたしたちを祝福していてくださることを宣言する祝福を聞くのです。
 その神が語りかける言葉=レーマを聞いて、託されて、遣わされていきます。救いへ招き入れられたわたしたち一人ひとりが、良い知らせを伝える美しい足、良い知らせを運ぶ器として用いられていくのです。

 ですから、礼拝で聖書の言葉を受けていって頂きたいのです。忘れることなど気にせずに聞いて受けとめて頂きたいのです。御言葉と共に働いてくださる聖霊が導いてくださいます。聖書は語ります。「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ 55:11)と。だから神を信じて、与えられた御言葉を受けていって頂きたいのです。そこから伝えられたことが聞かれ、聞かれたことが信じられ、信じた人は神を呼び求めて、神と共に生き始めるのです。

 わたしたちは皆、神の救いの中で新しく生きていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたがわたしたちを心にかけてくださり、親しく語りかけてくださることを感謝します。主イエスの言葉と業、そのすべてがわたしたちを救いへと、新しい命へと導いてくださいます。どうか愛に満ちた主の言葉、救いへと導く主の言葉によってわたしたちを新しい命に生かしてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン