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ローマの信徒への手紙 7:1〜6

2020-03-11 23:49:05 | 聖書
2020年3月11日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 7:1〜6(新共同訳)


 1節でパウロは「知らないのですか」と問いかけます。
 大切なことを語るのに、パウロは「知らないのですか」と問います。既に 6:3、6:16 と2回言われています。
 伝えたいのは最初の 6:3 で言われていることです。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(6:3~4)。

 イエス キリストを信じる者は、キリストと結び合わされ、古い自分に死んで、新しく救いの中に生かされています。パウロはこれをきちんと理解してもらいたいのです。
 新しく救いの中に生かされているというのは、救いの中に立っているということです。キリストの救いから自分自身を理解する。救いから自分の人生を見る、自分の将来を知る。この罪の世界も救いから理解するのです。
 救いから神の御心を知るのです。神がこのわたしをどう思っておられるのか。この世界をどう思っておられるのか。神はわたしをどう導かれるのか。どんな未来を与えてくださるのか。神はこの世界をどのように導き、どこへと至らせるのか。それを救い、すなわちイエス キリストから知る。それが新しい命に生きるということです。

 それを理解させるための例えが「夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放される」(2節)という話です。婚姻に関する律法を用いて説明しています。死によって婚姻が終わり、婚姻に関する律法から解放されることから、キリストと共に死ぬことによって律法から自由とされたことを言おうとしています。

 4節「兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」
 これは「わたしは復活させられた方=キリストのものである」という救いの出来事から自分を知る、キリストから自分を見るということです。そして「わたしはキリストのものである」という事実は、わたしたちを「神に対して実を結ぶ」ことへと導きます。

 「神に対して実を結ぶ」とは一体どういうことでしょうか。これは神に献げる実を結ぶということ。自分が神に向かって、神と相対して生きるということです。つまりは、自分の満足、自分の誇りのために業をなすのではなく、他人に評価されるためにするのでもなく、神にその業を献げ、人生を献げ、神に向かって生きるということです。律法を守り、あるいは自分の信念を守り「わたしは信仰的に生きています、いいことをしています」というところに立つのではなく、神へと思いを向け、神へと向かうのです。少し日本的、東洋的な言い方をすれば、自分に対して無になるのです。わたしを意識するのではなく、キリストを仰ぎ見るのです。

 パウロは言います。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。」
 肉は、神と繋がりのない状態を表しています。神と繋がっている状態を表す「霊」の対義語として使われます。ですから、神と繋がりのない肉に従って生きている間は、律法を守っていても、神の御心と何の関係もない「死に至る実を」結ぶしかないのです。それは福音書に登場する律法学者やファリサイ派の律法の守り方を見ても分かります。
 肉に従って生きるとき、神の御心に従って律法を守るのではなく、自分を誇るため、自分の益のために守ります。神と繋がらないで考える自分の益は、命には至りません。神との繋がり、結びつきこそが救いですから、そこに救いはありません。

 6節「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」

 「霊」つまり「聖霊」によって、わたしたちはイエス キリストが救い主であることを知り、キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に復活した新しい自分へと生かされていることを知ります。
 ここに「自分を縛っていた律法」とありますが、律法が勝手に縛るのではなく、律法を用いて自分で自分を縛るのです。
 イエスは「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ 5:18)と言われました。律法が悪いのではありません。
 神の御心から律法を理解するのではなく、人間の論理・理屈で律法を解釈していくとき、イエスから「偽善者」と言われるようになってしまうのです。
 救いを成し遂げ、神の言となってくださったイエス キリストと結ばれ、イエス キリストから、救いの出来事から新しく生きるように、わたしたちは招かれているのです。

 父・子・聖霊なる神が、救いのすべてをわたしたちに示し与えていてくださいます。イエス キリストがご自身の命をかけて、死んで復活してくださるほどにわたしたちは愛されています。だからわたしたちは、もはや自分で自分を満たそうとする必要がありません。神がひとり子を遣わし、その命を献げて贖いを成し遂げてくださった。その出来事の中に、わたしたちの命の意味も価値もあるのです。わたしたちが自分で意味や価値を作り出し作り上げるのではなく、わたしたちを愛していてくださる神の出来事の中に、既にわたしたちの生きる意味も価値もあるのです。神はそれをひとり子イエス キリストを世に遣わして、その十字架と復活によって証しをしてくださいました。だから、信仰はキリストの言葉を聞くことによって始まるのです(10:17)。そして心で信じて義とされ、告白するとき、それは出来事となり救われるのです(10:10)
 パウロはその神の恵み、わたしたちの救いがイエス キリストにこそある、ということを伝えるために言葉を尽くし例えを用いて、「知らないのですか」と問いつつ語りかけているのです。

 わたしたちは、神がわたしたちのために遣わしてくださったイエス キリストを救い主と信じ、キリストに委ね、キリストに心を向けて生きるのです。そのとき、わたしたちは律法からも自分自身からも解き放たれ、キリストのものとなり、神に対して実を結ぶのです。
 そのことを聖書から聞き取った信仰の先輩はこう告白します。「生きているときも死に臨むときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。/それは、生きているときも死に臨むときも、わたしがわたし自身のものではなく、わたしの真実な救い主イエス キリストのものであるということです」(ハイデルベルク教理問答 問い1)


ハレルヤ


父なる神さま
 御子イエス キリストをお遣わしてくださり、感謝します。キリストと結び合わせてくださり、感謝します。キリストの救いによって律法からも自分からも解放してくださり、感謝します。どうか聖霊に満たされ導かれて、あなたに対して実を結ぶに至ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン