2020年3月25日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 7:14〜20(新共同訳)
パウロはここで霊と肉という対比をしながら語ります。
「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。」(14節)
霊的とは、神の御心に適っている、神と共にあることを表しています。ここでは、律法は神の御心であり正しいものであるということを述べています。
一方、肉とは、この世に属していることを表します。この世に属し、滅びに至るものを表します。そしてパウロは「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」(14節)と言います。これは自分が罪の支配に置かれていることを表しています。
わたしにとって、ここが信仰の難しいところです。パウロはキリストに出会って救われたのではないでしょうか。それなのに「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」とはどういうことでしょうか。わたしは、救われたと言うときにはもはや罪とは関係なくなることをイメージします。しかし現実にはそうはなりませんでした。パウロと同じ思いでした。キリストを信じて洗礼を受けたら、罪とは関係なくなり、キリスト者らしく愛に生きる者となれると期待していましたが、そうではありませんでした。
わたしのこの考えは、律法主義と同じでした。自分で自分を見て、満足しようとしているのです。信仰を持って自分は成長した。優しくなった。赦せるようになった。愛せるようになった。キリストを信じたのは間違いではなかった。そんな手応えを欲しているのです。
しかし救われたというのは、神に従い神と共に生きる新しい命を与えられ、新しく生きるようになったことで、神の国での完成を目指して常に途上にあるのです。繰り返し悔い改めながら、何度でも許されながら、新しくされながら、キリストと共に神の国への道を歩むのです。罪の世にあって罪を抱えながら生きる、それを忍耐しながら神の国を望み見て生きるのです。最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。
話を戻します。パウロは律法主義で生きていたときは、「律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ 3:6)と言うことができました。しかし、神が遣わされた救い主イエス キリストを理解できなかったことに気づいてからは「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」(14節)と自己理解が全く変わります。
律法主義というのは、律法を形式的に守ることで自分は神の御心に適って正しく生きていると自己満足するあり方です。
しかし、キリストに捉えられ、キリストを知ってからは、このように自分を理解します。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(15節)。
律法を形式的に守っても、それでは神の御心には適わないことに気づきました。そして神の御心を思うようになり、神の御心に従って歩みたいと思っても、それを行わず、自分がこうありたいこうしたいと思うことをしてしまうことに気づくのです。つまり、神の御心と自分自身とが対立し、信仰では神の御心に従いたいと思っていても、自分自身がまさってしまうのです。それを「かえって憎んでいることをする」(15節)とパウロは言うのです。
このパウロの自己理解は、一般にいい人ほど理解できません。いい人は、自分の善意が神の御心とは違っているということになかなか気づけません。善意の人は、自分が罪人であることがあまり分かりません。
しかしパウロはキリストを理解できなかったことにより、キリストを遣わされた神の御心が自分には全く理解できなかったことに気づきました。そして自分がこれまで歩んできた律法主義の誤りに気づきました。罪人は、神の御心が理解できない、そして神と同じ思いになれないのです。
そんな自分の姿を思い巡らし、律法について考え直すとき、パウロはこう思い至ります。「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。」(16節)
パウロはこんな風に考えます。パウロは神に従って歩みたいと願っています。キリストを知るに至って、神が律法を通して何を願っておられるかを知りました。そしてパウロは神の御心に従いたいと思っています。つまり律法を正しく行いたいと願っています。
キリストを知る前まではできていました。律法主義は形式的ですから、この律法を守るにはこうすればいいというのが決まっています。しかし、キリストを知ってからは、律法を与えてくださった神の御心を思うようになりました。
神の御心の核心は、ひとり子を遣わすほどに愛しておられる、ということです。聖書における「愛」とは、共に生きようとすることです。神はわたしたちと共に生きようと願っておられます。それに対して、律法主義は自分が正しく生きることを考えます。愛が「共に」であるのに対して、律法主義は「自分が」が中心になります。
律法主義は、自分のことを考えています。けれど、神はなぜ律法をお与えになったのか、キリストに出会ってからそのことを思うようになったときに、律法主義のあり方を神は願っておられないことに気づきました。自分が正しくて自分が評価される、そのように自分のことばかり考えることを神は願っておられない。神と共に、隣人と共に、神の恵みの中で共に生きるためにはどうすればいいのか、そのための道を律法は示しています。しかし律法主義はそのことを全く考慮してきませんでした。
パウロは、共に神に従って歩むためには律法をどう受け止めていけばよいのかを考えるようになりました。そこに、神に従おうとする信仰と、自分の中の「こうありたい」という自分自身の願い、あるいは「こうあるのがよいと思う」と考える自分自身とが争い、いつも自分がまさってしまう。神の御心と自分自身が相容れないことがパウロには明らかになってくるのです。
先ほど言いましたように、いい人はここで自分の「こうしたい」「こうあった方がいい」という思いを批判的に捉え、「神の御心はどうだろうか」と考えてみることがなかなかできません。自分自身の考えが神の御心とは一致しないのだということを忘れてしまいます。ですからいつも、神の御心よりも自分自身がまさります。しかし神の御心と自分自身が相容れないことが、パウロには明らかになってきました。
そこでパウロは一つの結論に至ります。「そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(17節)わたしの中に住んでいる罪が、神と共に歩むことを妨げている。
「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(18節)
善とは、神の御心です。そして罪は、神の御心から離れることです。
「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(20節)
少々理屈っぽくなりますが、「わたし」が律法を行うとき、必ず「わたし」が律法を解釈します。例えば、わたしたちが人を愛するとき、こうすることがこの人のためになる、この人の助けになる、この人に喜ばれるだろうなどと「わたし」が考えます。このとき「わたし」は自分の価値基準に照らして判断します。そのとき神の御心に従いたいと思っていても、神の御心が直接分かる訳ではありません。良いか悪いかを判断する「わたし」を通して判断します。しかし、罪人の救いのためにひとり子を献げる神の御心は、自分の思いとは全く違っていて理解し尽くすことも、すべてを受け入れることもできません。わたしたちは、神の御心を直接、正しく、正確に理解することはできません。罪を抱えているので、神の御心そのものを純粋に理解するということはできないのです。
わたしはどうやっても神と一つにはなりません。これを創世記は、善悪を知る木の実を食べたと表現しています。もう神と違う善悪を抱いてしまったのです。罪人は神とは違うのです。
パウロはキリストと出会い、キリストを知ったことによって初めて罪を知ったのです。努力や工夫ではどうしようもない、存在そのものが神と違ってしまっている罪を知ったのです。
そして、どうすることもできない罪人を救うために、ひとり子を救い主として世に遣わされる神の御心を知るに至りました。キリストご自身も、民を救うためにその命を献げて贖いを成し遂げ、死を打ち砕き、命の道を開かれました。パウロは、キリストとの出会いによって神の恵みの広さ、長さ、高さ、深さに圧倒されたのです。
だからパウロはフィリピの信徒への手紙でこう書いています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ 3:7~9)。
わたしたちの救いはイエス キリストにあります。キリスト以外にはありません。キリストに罪を贖って頂き、赦して頂くことが必要です。キリストを信じることを通してキリストと一つにされる。キリストと共に罪に死に、キリストと共に復活する。キリストの命に与るのです。そしてわたしたちは神の子とされるのです。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」のです(2コリント 3:18)。
だから教会は、キリストを宣べ伝えてきたのです。この人を見よ、この方によってわたしたちは救われる。この方によって新しくされる。朽ちることのない希望と平和はキリストから来るのです。何ものもキリストの代わりにはなりません。イエス キリストこそ、わたしたちを罪から救い、神の国へと導き、永遠の命でみたしてくださるただ一人のお方なのです。
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちにキリストを知る信仰を与えてくださり感謝します。キリストを知らずして罪を知ることはできず、キリストを信ずることなく罪を知るとき、わたしたちは悲しみと絶望の中に陥ります。キリストを信じる信仰を与えられ感謝します。どうかイエス キリストが救い主であることをさらに深く知り、信じて歩むことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ローマの信徒への手紙 7:14〜20(新共同訳)
パウロはここで霊と肉という対比をしながら語ります。
「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。」(14節)
霊的とは、神の御心に適っている、神と共にあることを表しています。ここでは、律法は神の御心であり正しいものであるということを述べています。
一方、肉とは、この世に属していることを表します。この世に属し、滅びに至るものを表します。そしてパウロは「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」(14節)と言います。これは自分が罪の支配に置かれていることを表しています。
わたしにとって、ここが信仰の難しいところです。パウロはキリストに出会って救われたのではないでしょうか。それなのに「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」とはどういうことでしょうか。わたしは、救われたと言うときにはもはや罪とは関係なくなることをイメージします。しかし現実にはそうはなりませんでした。パウロと同じ思いでした。キリストを信じて洗礼を受けたら、罪とは関係なくなり、キリスト者らしく愛に生きる者となれると期待していましたが、そうではありませんでした。
わたしのこの考えは、律法主義と同じでした。自分で自分を見て、満足しようとしているのです。信仰を持って自分は成長した。優しくなった。赦せるようになった。愛せるようになった。キリストを信じたのは間違いではなかった。そんな手応えを欲しているのです。
しかし救われたというのは、神に従い神と共に生きる新しい命を与えられ、新しく生きるようになったことで、神の国での完成を目指して常に途上にあるのです。繰り返し悔い改めながら、何度でも許されながら、新しくされながら、キリストと共に神の国への道を歩むのです。罪の世にあって罪を抱えながら生きる、それを忍耐しながら神の国を望み見て生きるのです。最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。
話を戻します。パウロは律法主義で生きていたときは、「律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ 3:6)と言うことができました。しかし、神が遣わされた救い主イエス キリストを理解できなかったことに気づいてからは「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」(14節)と自己理解が全く変わります。
律法主義というのは、律法を形式的に守ることで自分は神の御心に適って正しく生きていると自己満足するあり方です。
しかし、キリストに捉えられ、キリストを知ってからは、このように自分を理解します。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(15節)。
律法を形式的に守っても、それでは神の御心には適わないことに気づきました。そして神の御心を思うようになり、神の御心に従って歩みたいと思っても、それを行わず、自分がこうありたいこうしたいと思うことをしてしまうことに気づくのです。つまり、神の御心と自分自身とが対立し、信仰では神の御心に従いたいと思っていても、自分自身がまさってしまうのです。それを「かえって憎んでいることをする」(15節)とパウロは言うのです。
このパウロの自己理解は、一般にいい人ほど理解できません。いい人は、自分の善意が神の御心とは違っているということになかなか気づけません。善意の人は、自分が罪人であることがあまり分かりません。
しかしパウロはキリストを理解できなかったことにより、キリストを遣わされた神の御心が自分には全く理解できなかったことに気づきました。そして自分がこれまで歩んできた律法主義の誤りに気づきました。罪人は、神の御心が理解できない、そして神と同じ思いになれないのです。
そんな自分の姿を思い巡らし、律法について考え直すとき、パウロはこう思い至ります。「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。」(16節)
パウロはこんな風に考えます。パウロは神に従って歩みたいと願っています。キリストを知るに至って、神が律法を通して何を願っておられるかを知りました。そしてパウロは神の御心に従いたいと思っています。つまり律法を正しく行いたいと願っています。
キリストを知る前まではできていました。律法主義は形式的ですから、この律法を守るにはこうすればいいというのが決まっています。しかし、キリストを知ってからは、律法を与えてくださった神の御心を思うようになりました。
神の御心の核心は、ひとり子を遣わすほどに愛しておられる、ということです。聖書における「愛」とは、共に生きようとすることです。神はわたしたちと共に生きようと願っておられます。それに対して、律法主義は自分が正しく生きることを考えます。愛が「共に」であるのに対して、律法主義は「自分が」が中心になります。
律法主義は、自分のことを考えています。けれど、神はなぜ律法をお与えになったのか、キリストに出会ってからそのことを思うようになったときに、律法主義のあり方を神は願っておられないことに気づきました。自分が正しくて自分が評価される、そのように自分のことばかり考えることを神は願っておられない。神と共に、隣人と共に、神の恵みの中で共に生きるためにはどうすればいいのか、そのための道を律法は示しています。しかし律法主義はそのことを全く考慮してきませんでした。
パウロは、共に神に従って歩むためには律法をどう受け止めていけばよいのかを考えるようになりました。そこに、神に従おうとする信仰と、自分の中の「こうありたい」という自分自身の願い、あるいは「こうあるのがよいと思う」と考える自分自身とが争い、いつも自分がまさってしまう。神の御心と自分自身が相容れないことがパウロには明らかになってくるのです。
先ほど言いましたように、いい人はここで自分の「こうしたい」「こうあった方がいい」という思いを批判的に捉え、「神の御心はどうだろうか」と考えてみることがなかなかできません。自分自身の考えが神の御心とは一致しないのだということを忘れてしまいます。ですからいつも、神の御心よりも自分自身がまさります。しかし神の御心と自分自身が相容れないことが、パウロには明らかになってきました。
そこでパウロは一つの結論に至ります。「そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(17節)わたしの中に住んでいる罪が、神と共に歩むことを妨げている。
「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(18節)
善とは、神の御心です。そして罪は、神の御心から離れることです。
「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(20節)
少々理屈っぽくなりますが、「わたし」が律法を行うとき、必ず「わたし」が律法を解釈します。例えば、わたしたちが人を愛するとき、こうすることがこの人のためになる、この人の助けになる、この人に喜ばれるだろうなどと「わたし」が考えます。このとき「わたし」は自分の価値基準に照らして判断します。そのとき神の御心に従いたいと思っていても、神の御心が直接分かる訳ではありません。良いか悪いかを判断する「わたし」を通して判断します。しかし、罪人の救いのためにひとり子を献げる神の御心は、自分の思いとは全く違っていて理解し尽くすことも、すべてを受け入れることもできません。わたしたちは、神の御心を直接、正しく、正確に理解することはできません。罪を抱えているので、神の御心そのものを純粋に理解するということはできないのです。
わたしはどうやっても神と一つにはなりません。これを創世記は、善悪を知る木の実を食べたと表現しています。もう神と違う善悪を抱いてしまったのです。罪人は神とは違うのです。
パウロはキリストと出会い、キリストを知ったことによって初めて罪を知ったのです。努力や工夫ではどうしようもない、存在そのものが神と違ってしまっている罪を知ったのです。
そして、どうすることもできない罪人を救うために、ひとり子を救い主として世に遣わされる神の御心を知るに至りました。キリストご自身も、民を救うためにその命を献げて贖いを成し遂げ、死を打ち砕き、命の道を開かれました。パウロは、キリストとの出会いによって神の恵みの広さ、長さ、高さ、深さに圧倒されたのです。
だからパウロはフィリピの信徒への手紙でこう書いています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ 3:7~9)。
わたしたちの救いはイエス キリストにあります。キリスト以外にはありません。キリストに罪を贖って頂き、赦して頂くことが必要です。キリストを信じることを通してキリストと一つにされる。キリストと共に罪に死に、キリストと共に復活する。キリストの命に与るのです。そしてわたしたちは神の子とされるのです。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」のです(2コリント 3:18)。
だから教会は、キリストを宣べ伝えてきたのです。この人を見よ、この方によってわたしたちは救われる。この方によって新しくされる。朽ちることのない希望と平和はキリストから来るのです。何ものもキリストの代わりにはなりません。イエス キリストこそ、わたしたちを罪から救い、神の国へと導き、永遠の命でみたしてくださるただ一人のお方なのです。
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちにキリストを知る信仰を与えてくださり感謝します。キリストを知らずして罪を知ることはできず、キリストを信ずることなく罪を知るとき、わたしたちは悲しみと絶望の中に陥ります。キリストを信じる信仰を与えられ感謝します。どうかイエス キリストが救い主であることをさらに深く知り、信じて歩むことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン