2020年3月29日(日)主日礼拝
聖書:マタイによる福音書 20:17~28(新共同訳)
教会には教会暦という暦があります。キリストの生涯の主な出来事を、1年を通して記念していく暦です。今は受難節です。今年は4/10(金)がキリストの十字架を記念する受苦日です。きょうと来週は、キリストの受難について聞いていきたいと思います。
イエスは十字架を負うためエルサレムに向かいます。その途中、イエスは十二人の弟子だけを呼び寄せて話をされました。それは今回の目的である十字架の話でした。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(18, 19節)
エルサレムで、イエスは祭司長たちや律法学者たちに引き渡され、彼らはイエスに死刑を宣告すると言うのです。祭司長や律法学者は旧約の民イスラエルの指導者ですから、本来なら一番イエスを理解し、受け入れなければならない人たちです。しかし彼らはイエスを理解し受け入れるどころか、拒絶し死刑にするためローマ帝国の総督ピラトに引き渡すと言うのです。神の民であっても、罪人は神を拒絶し、背を向けるのです。神に従うのではなく、神から自由になって自分の思いのままに生きることを求めるのです。
ところで、イエスが十字架と復活の話をされるのは3度目です。(16:21、17:22~23参照)弟子たちにしても理解しがたい、受け入れがたい話です。けれどイエスを理解するには欠かすことのできない話を、イエスは繰り返し話されました。
そのときゼベダイの息子たちヤコブとヨハネの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとしました。そこでイエスは「何が望みか」と尋ねました。二人の母は言います。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」(21節)
イエスが話された十字架と復活の話をどれだけ理解できたかは分かりませんが、この親子はイエスが王座に着かれる日が近いのだろうと感じました。そこでその日には、二人の息子がイエスの両脇に、イエスに次ぐ地位に就けることを願ったのです。
神の国到来のときにイエスのそば近くで共にいるというのは、よい願いであろうと思います。しかしイエスは言われます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」(22節)
杯というのは、神から与えられる苦しみ・苦難を表します。二人はすぐさま「できます」と答えます。イエスは「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と言われます。これはヤコブは最初の殉教者となり(使徒 12:2)、ヨハネはパトモス島に流刑となり、そこでヨハネの黙示録を記した(黙示録 1:9)と言い伝えられている二人の苦難を示していると言われます。
しかし続けて「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」(23節)と言われます。ここでイエスは、罪に背を向け、神に従う信仰の姿勢を明らかにされます。イエスは、神の御心に従えない罪を贖うため、わたしたちに代わって神に従ってくださいました。御心に背かず、つまり罪を犯さず神に従った最後は十字架の死だというのに、それでも最後まで神の意志、御心に従われたのです(フィリピ 2:8)。ひとり子を遣わしてまで罪人を救おうとする神の御心にこそ救いがあるのです。どんなによいと思える自分の思い・願いよりも、ひとり子を遣わしてまで救おうとされる神が、ヤコブとヨハネによい場所を備えていてくださるのです。イエスの弟子はそのことを知らなければなりません。
ヤコブとヨハネの思いを知った他の弟子たちは、二人に抜け駆けされたと思い、腹を立てました。弟子たちの誰もが、他の弟子たちよりもイエスによく思われたい、評価されたいのです。主に喜ばれたいという思いは、間違ってはいません。しかし、イエスから目をそらし、他の兄弟姉妹たちに思いを向け、比べ出すと間違ってしまいます。
そこでイエスは一同を呼び寄せて言われます。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」(25節)これは、2000年前のユダヤだけでなく、現代の日本も同じです。
「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」とイエスは言われます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(26~28節)
「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。」神の治めたもう国は、権力による支配はではないのです。神の国では、そしてキリストのからだなる教会では、この世的な力で治めるのではありません。ペトロは、長老たちに対して「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」(1ペトロ 5:3)と書いています。パウロも「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です」(2コリント 1:24)と言っています。
支配者ではなくて「仕える人」「僕」になりなさいとイエスは言われます。「仕える人」とは、普通「給仕」とか「執事」と訳される言葉。「僕」は「奴隷」のことです。
ここで「偉くなりたい者、いちばん上になりたい者」はと言われています。では「自分は偉くなんかなりたくないからいいや」と言えるかというとそうではありません。父は、子どもたち一人ひとりに神の愛に生きることにおいて偉くなって欲しいのです。すべてのキリスト者は、神に喜ばれるという意味で偉くなることを求めるのです。パウロはフィリピの信徒への手紙でこう言っています。「わたし自身は既に(キリストを)捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ 3:13~14)
わたしたちが忘れてはならないのは、イエス キリストの姿です。キリストの仕える生涯によってわたしたちは救われました。このキリストに従い、仕える道を行くときにこそ、多くの人と神の恵みを分かち合い、神の祝福に与ることができるのです。
キリストの救いは、わたしたちを神の恵みを分かち合う世界へと導いてくださいます。わたしたちは、キリストと共にある自分ではなく、キリストご自身に目を向けるのです。そこに聖徒の交わりが生まれ、主イエスの許で共に生きる恵みが現れるのです。キリストの十字架と復活が導く神の国を仰ぎ見て、わたしたちは共に歩むのです。
ハレルヤ
父なる神さま
主イエスの十字架に至る歩みが、あなたの恵みを分かち合う神の国に生きる幸いへと導いてくださることを感謝します。常にイエスを仰ぎ見て、与えられた所で仕える道を歩ませてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:マタイによる福音書 20:17~28(新共同訳)
教会には教会暦という暦があります。キリストの生涯の主な出来事を、1年を通して記念していく暦です。今は受難節です。今年は4/10(金)がキリストの十字架を記念する受苦日です。きょうと来週は、キリストの受難について聞いていきたいと思います。
イエスは十字架を負うためエルサレムに向かいます。その途中、イエスは十二人の弟子だけを呼び寄せて話をされました。それは今回の目的である十字架の話でした。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(18, 19節)
エルサレムで、イエスは祭司長たちや律法学者たちに引き渡され、彼らはイエスに死刑を宣告すると言うのです。祭司長や律法学者は旧約の民イスラエルの指導者ですから、本来なら一番イエスを理解し、受け入れなければならない人たちです。しかし彼らはイエスを理解し受け入れるどころか、拒絶し死刑にするためローマ帝国の総督ピラトに引き渡すと言うのです。神の民であっても、罪人は神を拒絶し、背を向けるのです。神に従うのではなく、神から自由になって自分の思いのままに生きることを求めるのです。
ところで、イエスが十字架と復活の話をされるのは3度目です。(16:21、17:22~23参照)弟子たちにしても理解しがたい、受け入れがたい話です。けれどイエスを理解するには欠かすことのできない話を、イエスは繰り返し話されました。
そのときゼベダイの息子たちヤコブとヨハネの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとしました。そこでイエスは「何が望みか」と尋ねました。二人の母は言います。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」(21節)
イエスが話された十字架と復活の話をどれだけ理解できたかは分かりませんが、この親子はイエスが王座に着かれる日が近いのだろうと感じました。そこでその日には、二人の息子がイエスの両脇に、イエスに次ぐ地位に就けることを願ったのです。
神の国到来のときにイエスのそば近くで共にいるというのは、よい願いであろうと思います。しかしイエスは言われます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」(22節)
杯というのは、神から与えられる苦しみ・苦難を表します。二人はすぐさま「できます」と答えます。イエスは「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と言われます。これはヤコブは最初の殉教者となり(使徒 12:2)、ヨハネはパトモス島に流刑となり、そこでヨハネの黙示録を記した(黙示録 1:9)と言い伝えられている二人の苦難を示していると言われます。
しかし続けて「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」(23節)と言われます。ここでイエスは、罪に背を向け、神に従う信仰の姿勢を明らかにされます。イエスは、神の御心に従えない罪を贖うため、わたしたちに代わって神に従ってくださいました。御心に背かず、つまり罪を犯さず神に従った最後は十字架の死だというのに、それでも最後まで神の意志、御心に従われたのです(フィリピ 2:8)。ひとり子を遣わしてまで罪人を救おうとする神の御心にこそ救いがあるのです。どんなによいと思える自分の思い・願いよりも、ひとり子を遣わしてまで救おうとされる神が、ヤコブとヨハネによい場所を備えていてくださるのです。イエスの弟子はそのことを知らなければなりません。
ヤコブとヨハネの思いを知った他の弟子たちは、二人に抜け駆けされたと思い、腹を立てました。弟子たちの誰もが、他の弟子たちよりもイエスによく思われたい、評価されたいのです。主に喜ばれたいという思いは、間違ってはいません。しかし、イエスから目をそらし、他の兄弟姉妹たちに思いを向け、比べ出すと間違ってしまいます。
そこでイエスは一同を呼び寄せて言われます。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」(25節)これは、2000年前のユダヤだけでなく、現代の日本も同じです。
「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」とイエスは言われます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(26~28節)
「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。」神の治めたもう国は、権力による支配はではないのです。神の国では、そしてキリストのからだなる教会では、この世的な力で治めるのではありません。ペトロは、長老たちに対して「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」(1ペトロ 5:3)と書いています。パウロも「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です」(2コリント 1:24)と言っています。
支配者ではなくて「仕える人」「僕」になりなさいとイエスは言われます。「仕える人」とは、普通「給仕」とか「執事」と訳される言葉。「僕」は「奴隷」のことです。
ここで「偉くなりたい者、いちばん上になりたい者」はと言われています。では「自分は偉くなんかなりたくないからいいや」と言えるかというとそうではありません。父は、子どもたち一人ひとりに神の愛に生きることにおいて偉くなって欲しいのです。すべてのキリスト者は、神に喜ばれるという意味で偉くなることを求めるのです。パウロはフィリピの信徒への手紙でこう言っています。「わたし自身は既に(キリストを)捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ 3:13~14)
わたしたちが忘れてはならないのは、イエス キリストの姿です。キリストの仕える生涯によってわたしたちは救われました。このキリストに従い、仕える道を行くときにこそ、多くの人と神の恵みを分かち合い、神の祝福に与ることができるのです。
キリストの救いは、わたしたちを神の恵みを分かち合う世界へと導いてくださいます。わたしたちは、キリストと共にある自分ではなく、キリストご自身に目を向けるのです。そこに聖徒の交わりが生まれ、主イエスの許で共に生きる恵みが現れるのです。キリストの十字架と復活が導く神の国を仰ぎ見て、わたしたちは共に歩むのです。
ハレルヤ
父なる神さま
主イエスの十字架に至る歩みが、あなたの恵みを分かち合う神の国に生きる幸いへと導いてくださることを感謝します。常にイエスを仰ぎ見て、与えられた所で仕える道を歩ませてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン