2020年8月16日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 5:37〜40(新共同訳)
ヘブライ語の「言葉」という単語には「出来事」という意味があります。これは「神の言葉は出来事となる」ことからきています。創世記1章の天地創造の記事を見ると分かります。神が語られるとそれは出来事になりました。
そしてヨハネによる福音書は「イエス キリストが言葉である」と言います。ヨハネ 1:1「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」ヨハネ 1:14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」イエス キリストにおいて神の御心が出来事となりました。イエス キリストこそまさしく神の言葉です。
ですから、神が旧約において語った救い主の預言、それがイエス キリストにおいて実現し成就したことが、イエス キリストの証しです。
イエスは、自分を憎み、殺そうと狙っているユダヤ人たちに語ります。「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。」
天の父が、イエスがキリスト=救い主であると証しをしておられます。旧約の預言がイエスにおいて成就しています。しかしユダヤ人たちはイエスを信じません。イエスがなしておられる業を認めません。父が証しをし、語っておられるのに、それを否定します。それでは父の声を聞くことはできません。父を仰ぎ見ることもできません。どんなに学んでいても、それは父の御心とは結びつかない律法主義になってしまいます。
イエスは14章のところで「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われます。それに続いてこう言っておられます。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」これを聞いたフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と言うと、イエスは答えてこう言われました。「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(14:9~11)
父と子は一つなのです。イエスを信じるとき、天の父を信じるのです。イエスに従い行くとき、父と共に生きるのです。
イエスはユダヤ人に語りかけます。39~40節「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
ユダヤ人たちは「聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究して」います。聖書の中に永遠の命に至る秘密が記されていると考えていたのでしょう。他にも聖書には隠されたメッセージがあると考えて、いろいろなことが言われてきました。
けれどイエスは言われます。「聖書はわたしについて証しをするものだ。」これこそが聖書を読む鍵なのです。聖書から神の声を聞くための鍵なのです。イエス キリストこそ、パウロが「ぜひ知ってもらいたい」(ローマ 11:25)と言っている神の秘められた計画なのです。
この福音書の編集者であるヨハネは、この福音書を書いた目的をこう書いています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ 20:31)
イエス キリストこそが、神が約束された救い主であり、わたしたちの命なのです。
聖書は、神の御心と(救いの)御業を語ります。神はわたしたちを罪から救い、共に生きたいと願っておられます。聖書が語るのは、わたしたちを救いたいと願っておられる神ご自身と、神と共に生きる命です。この二つがイエス キリストにおいて現されています。
だからこそイエス キリストは神の言葉なのです。神ご自身を現し、神の御心を現す神の言葉なのです。次いでイエス キリストを証しする聖書が、神の言葉です。旧約はこれから来られるイエス キリストを指し示しています。新約は既に来られ、救いの御業を成し遂げられたイエス キリストを証ししています。そして、聖書を解き明かしつつイエス キリストを「見よ、あの方だ」と指し示すのが説教です。
神はイエス キリストにおいてわたしたちと出会おうとしておられます。イエス キリストにあって神を知ってほしいのです。救いに与ってほしいのです。命を得てほしいと願っておられます。神は招いておられます。待っておられます。それなのに、40節「あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
聖書を学び、研究しても、聖書が証しするイエス キリストに出会い、信じるのでなければ、救いに与ることはできません。永遠の命には至りません。父なる神のわたしたちを救おうとする御心は、イエス キリストにおいて出来事となり、実現したのです。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ 4:9~10)
主の日の礼拝に集い、説教を聞く皆さんが、説教を通して聖書が語っていることを理解し、聖書が指し示すイエス キリストに出会えますように。キリストに出会い、父なる神、聖霊なる神を知り、救いに与り、永遠の命に至りますように。神と共に救いの道を雄々しく歩み行くことができますように。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたの言葉であるイエス キリストをお遣わしくださり、感謝します。聖書の証しを通して、あなたの御心が、どのように成就したのか、イエス キリストにおいてどう実現したかを知ることができますように。どうかイエス キリストに出会い、キリストを通してあなたを知ることができますように。あなたと共に生きることができますように。どうかあなたが御子を通して与えてくださる命に与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ヨハネによる福音書 5:37〜40(新共同訳)
ヘブライ語の「言葉」という単語には「出来事」という意味があります。これは「神の言葉は出来事となる」ことからきています。創世記1章の天地創造の記事を見ると分かります。神が語られるとそれは出来事になりました。
そしてヨハネによる福音書は「イエス キリストが言葉である」と言います。ヨハネ 1:1「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」ヨハネ 1:14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」イエス キリストにおいて神の御心が出来事となりました。イエス キリストこそまさしく神の言葉です。
ですから、神が旧約において語った救い主の預言、それがイエス キリストにおいて実現し成就したことが、イエス キリストの証しです。
イエスは、自分を憎み、殺そうと狙っているユダヤ人たちに語ります。「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。」
天の父が、イエスがキリスト=救い主であると証しをしておられます。旧約の預言がイエスにおいて成就しています。しかしユダヤ人たちはイエスを信じません。イエスがなしておられる業を認めません。父が証しをし、語っておられるのに、それを否定します。それでは父の声を聞くことはできません。父を仰ぎ見ることもできません。どんなに学んでいても、それは父の御心とは結びつかない律法主義になってしまいます。
イエスは14章のところで「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われます。それに続いてこう言っておられます。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」これを聞いたフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と言うと、イエスは答えてこう言われました。「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(14:9~11)
父と子は一つなのです。イエスを信じるとき、天の父を信じるのです。イエスに従い行くとき、父と共に生きるのです。
イエスはユダヤ人に語りかけます。39~40節「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
ユダヤ人たちは「聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究して」います。聖書の中に永遠の命に至る秘密が記されていると考えていたのでしょう。他にも聖書には隠されたメッセージがあると考えて、いろいろなことが言われてきました。
けれどイエスは言われます。「聖書はわたしについて証しをするものだ。」これこそが聖書を読む鍵なのです。聖書から神の声を聞くための鍵なのです。イエス キリストこそ、パウロが「ぜひ知ってもらいたい」(ローマ 11:25)と言っている神の秘められた計画なのです。
この福音書の編集者であるヨハネは、この福音書を書いた目的をこう書いています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ 20:31)
イエス キリストこそが、神が約束された救い主であり、わたしたちの命なのです。
聖書は、神の御心と(救いの)御業を語ります。神はわたしたちを罪から救い、共に生きたいと願っておられます。聖書が語るのは、わたしたちを救いたいと願っておられる神ご自身と、神と共に生きる命です。この二つがイエス キリストにおいて現されています。
だからこそイエス キリストは神の言葉なのです。神ご自身を現し、神の御心を現す神の言葉なのです。次いでイエス キリストを証しする聖書が、神の言葉です。旧約はこれから来られるイエス キリストを指し示しています。新約は既に来られ、救いの御業を成し遂げられたイエス キリストを証ししています。そして、聖書を解き明かしつつイエス キリストを「見よ、あの方だ」と指し示すのが説教です。
神はイエス キリストにおいてわたしたちと出会おうとしておられます。イエス キリストにあって神を知ってほしいのです。救いに与ってほしいのです。命を得てほしいと願っておられます。神は招いておられます。待っておられます。それなのに、40節「あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
聖書を学び、研究しても、聖書が証しするイエス キリストに出会い、信じるのでなければ、救いに与ることはできません。永遠の命には至りません。父なる神のわたしたちを救おうとする御心は、イエス キリストにおいて出来事となり、実現したのです。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ 4:9~10)
主の日の礼拝に集い、説教を聞く皆さんが、説教を通して聖書が語っていることを理解し、聖書が指し示すイエス キリストに出会えますように。キリストに出会い、父なる神、聖霊なる神を知り、救いに与り、永遠の命に至りますように。神と共に救いの道を雄々しく歩み行くことができますように。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたの言葉であるイエス キリストをお遣わしくださり、感謝します。聖書の証しを通して、あなたの御心が、どのように成就したのか、イエス キリストにおいてどう実現したかを知ることができますように。どうかイエス キリストに出会い、キリストを通してあなたを知ることができますように。あなたと共に生きることができますように。どうかあなたが御子を通して与えてくださる命に与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン