聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

詩編 138:1〜3

2020-08-20 10:48:08 | 聖書
今週も臨時で詩編の説教を、おまけ付きで上げます。

2020年8月19日(水) 祈り会
聖書:詩編 138:1〜3(新共同訳)


〈 説教 〉
 おそらく詩人は、今バビロンにいます。バビロン捕囚でエルサレムから連れてこられました。捕囚の民は今、浮き立っています。南ユダを滅ぼし、自分たちをバビロンに連れて来た新バビロニアがペルシャのキュロス2世によって滅ぼされたからです。捕囚の民にとっては胸のすくような思いであったろうと思います。

 それだけでなく、キュロスは勅令を発して、イスラエルを始めバビロニアによって強制移住させられていた民に帰国の許可を出したのです。
 もう第1回の捕囚から60年、第2回からでも50年の月日が流れました。詩人は一体何歳なのでしょうか。20歳で連れてこられたとして、第1回なら80歳、第2回でも70歳です。故国を思いながらバビロンで生涯を終えた者もいたでしょう。バビロンで生まれ故国を知らずに育った者もいるでしょう。もうエルサレムに戻ることなど考えることもなく一日一日を過ごしていたのでしょうか。

 おそらく、捕囚の民は、収拾の付かないような大騒ぎになっただろうと思います。
 そんな中、詩人は神の御前に進み出ます。詩人は、他のイスラエルに優って神が御業をなしてくださったことを感じていました。
 神が預言者たちを立ててくださったので、国が滅びたことも、捕囚に遭い異国の地で暮らすことになったことも、自分たちの罪によるものであり、神の御業であることを理解はしてきました。それでも月日が経つ中で「主よ、いつまでですか」と祈り、10年20年と経つ内に次第に諦めの思いも強くなっていったことでしょう。

 それが突然の解放の知らせ。詩人は思います。「主は生きておられる」。主の真実に圧倒されるような思いで、詩人は感謝と畏れをもって御前に進み出ます。
 「わたしは心を尽くして感謝し/神の御前でほめ歌をうたいます。」
 「聖なる神殿に向かってひれ伏し/あなたの慈しみとまことのゆえに/御名に感謝をささげます。」
 エルサレム−バビロンは約2,000km離れています。しかもエルサレムの神殿は、バビロニアによって破壊され瓦礫の山です。詩人は記憶の中の神殿を思い起こし、全てを超えて神の御前にひれ伏します。
 神の慈しみと真実は何も変わっていませんでした。詩人は、神に満たされて讃美し告白します。あなたの御名はわたしたちの喜び、あなたの御言葉はわたしたちの支え。「神よ、あなたはすべてにまさって/御名と仰せを大いなるものとされました。」(聖書協会共同訳)

 救いの出来事の中で、神が自分と繋がっていてくださることを覚えます。
 「呼び求めるわたしに答え/あなたは魂に力を与え」てくださいます(聖書協会共同訳)。
 神は救いの神、生命の神。神は生きる希望と力を与えてくださいます。御言葉も祈りも讃美も、神と共に生きるための恵みの賜物です。
 詩人は、捕囚からの解放によって、慈しみとまことの神を、新たな信仰と共に知る喜びを感じているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 変わることのない真実であり続けてくださることを感謝します。わたしたちはあなたほど忍耐強くなく、待ち続けることができません。どうか呼び求めるわたしたちに答え、魂に力を与えてください。どうかあなたの救いの御業を見ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン



〈 簡単な聖書研究 〉
 1節
「ダビデ」
  表題に「ダビデ」とあるのは150ある詩編の半数近く。
  ダビデはイスラエル王国 第2代の王。
  表題に「ダビデ」とあるものはダビデの作と考えられてきたが、聖書学の進歩
 と共に、ダビデ自身のものというよりも、ダビデの苦難に(逃亡生活、家族の
 問題)イスラエルの苦難、自分の苦難を重ね合わせながら、またダビデの信仰
 に倣って神に祈り讃美したと考えられるようになってきた。
  内容から見て、138篇はバビロン捕囚解放前後に歌われたものではないか。


「神の御前で」
 「神」と訳するもの(新共同訳、聖書協会共同訳)、
 「神々」と訳するもの(岩波版、月本昭男)
 「御使いたち」と訳するもの(新改訳2017、フランシスコ会訳)がある。
 訳されたのは「エロヒーム」という単語である。通常「エロヒーム」は「神」と訳される。なぜ訳が分かれるのか。共同訳を見ると「神の前で、あなたを」となっている。神を讃美しているのに、神とあなたは違うのだろうか?という疑問が出てくる。さらに「エロヒーム」という形が複数形である。だから「神々」とも訳せる。また70人訳(旧約のギリシャ語訳)は「御使いたち」と訳している。


 2節
「その御名のすべてにまさって/あなたは仰せを大いなるものとされました」
 新共同訳は、原文に沿った訳。しかし日本語としては意味不明。神が自分の名のすべてにまさって、自分の仰せをおおいなるものとした、というのは意味が分からない。
 他の訳は意味が通るように読み替えをしている。どれがいいかは判断しづらい。
 聖書協会共同訳「あなたはすべてにまさって/御名と仰せを大いなるものとされた。」
 新改訳「あなたがご自分のすべての御名のゆえに/あなたのみことばを高く上げられたからです。」


 3節
「解き放って」
 原文にないので、なぜこういう訳が入ってきたのかは不明。この詩篇がバビロン捕囚からの解放前後のものと理解し、詩人の祈りに「答え」解放して(解き放って)くださったことへの感謝の詩篇だと判断したのかもしれない。翻訳は一番最初の解釈である。


〈 聖書について 〉
 キリスト者、特にわたしたちプロテスタント、あるいは福音主義のキリスト者にとって聖書はとても重要です。
 「聖書のみ」は宗教改革の第一原理とも言うべきものです。
 現在、この聖書は何を指すかと言えば、旧約はヘブライ語聖書、新約はギリシア語聖書です。その聖書も、原典つまり元々の書物が書かれてから数百年後の写本があるだけで、例えばパウロ直筆のローマの信徒への手紙は現存しません。聖書学者による本文校訂の作業を経て、ヘブライ語聖書、ギリシア語聖書の底本が作られ、それを元に日本語訳が作られていきます。
 今わたしたちが使っている新共同訳聖書は、旧約がビブリア ヘブライカ シュトットガルテンシアというドイツ聖書協会が作成した底本、新約がギリシア語新約聖書(修正第三版)という聖書協会世界連盟の底本を使用しています。
 最新の聖書協会共同訳では、旧約はビブリア ヘブライカ クインタを新たに追加して用い、新約は修正第三版だったのが修正第五版になりました。
 こういったヘブライ語聖書、ギリシア語聖書の底本を用いて、日本語に翻訳されていきます。
 きょう見ましたように、現在、公同教会の主日礼拝で用いられている聖書が何種類かあります。そして同じ箇所の翻訳が違います。完全な翻訳、完璧な聖書というものはありません。
 わたしたちは、不完全な人間、そして不完全な人間の言語を用いて、ご自身とその御業を宣べ伝えられる神の大いなる御心の前に、身を低くし「お示しください、お語りください」と祈りながら聖書から聞いていくのです。
 不思議なことに、訳によって違いがあり、完璧な翻訳などないにも関わらず、使徒信条で告白されるような父・子・聖霊なる神とその救いの御業について公同の教会は一致しています。それは、今の諸教会だけでなく、代々の教会も一致しています。罪を抱えた不完全な人間を導き、救われる神の御業が現れているように思います。
 聖書だけでなく、教会も、わたしたち一人ひとりの歩みも、インマヌエルの神が共にいてくださり、導いてくださるからこそ、安心して信じ、従うことができるのです。