2020年3月22日(日)主日礼拝
聖書:ローマの信徒への手紙 10:18~21(新共同訳)
パウロは同胞イスラエルの救いが心にかかります。9〜11章でパウロはイスラエルについて語ります。10:1では「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と書いています。ただし救いのためには、間違いを正さなくてはなりません。10:2~3でこう言っています。「彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」
イスラエルは律法による自分の義を求めるのではなく、イエス キリストを信じる信仰による義、神が与えてくださる神の義を受け取らなくてはなりません。なぜなら、10:4で言っているように、キリストこそ律法の目標だからです。信じる者すべてに義をもたらす律法の目標だからです。
ところでパウロは、18節で「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と言います。
わたしたちは、新約の諸文書からイエスが語られた言葉、イエスの救いについて語られた言葉を聞いています。しかし、ローマの信徒への手紙が書かれた頃、まだ新約ができていません。福音書もまだ書かれていません。
ですから18節で「彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです」と言われると、「どういうことでしょう?」と問わずにはいられません。キリストを信じられるほどキリストの言葉を聞く機会はあったのでしょうか。もちろんこの手紙の宛先であるローマの教会にいるユダヤ人たちは、キリストのことを聞いて教会に来ているのですから、彼らは聞いたのです。しかしこの手紙では、神の民として導かれながら、キリストを信じないイスラエルの救いはどうなっているのかを問うています。
ちなみに、イスラエルは父祖アブラハム以来の長い歴史の中で、イスラエルと呼ばれ、時にヘブライ人と呼ばれ、そしてユダヤ人と言われてきました。
さてパウロは、旧約の詩編を引用して、イスラエルはイエスの言葉を聞いたと言います。つまり、旧約の言葉はイエス キリストを指し示しており、キリストを待ち望むように伝えている、ということです。18節「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです(詩編19:5)。イスラエルはエジプトでも、バビロニアでも、地中海世界に散っていっても、どこにあるときにも神の言葉と共に歩んだのです。そして神の言葉が語られるとき、イエス キリストを指し示しているのです。
わたしが旧約の説教を準備する際には、その旧約の御言葉がイエス キリストとどう繋がるかを考えます。つまり旧約の成就がイエス キリストであるという理解です。本来、旧約を正しく聞くと、イエス キリストと出会ったとき、旧約の御言葉が実現していることに気づくのです。旧約はこれから来られる救い主を指し示し、新約は既に来られた救い主を証ししているのです。
しかし、多くのイスラエルは気づきません。気づかないだけでなく、彼らの熱心・信仰は、正しい認識に基づくものではない(10:2)と言われているように、御言葉に触れていても、間違った理解へと進んでいっています。
けれどパウロは、この状況も神の救いの計画の内であって、旧約で証しされている、と言うのです。
まずイスラエルにとって権威であるモーセの名を出して語ります。「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう。」(19節 申命記 32:21)
まず救いに与れるはずのイスラエルではなく、異邦人にキリストの福音が伝えられ、救いへと導かれ、イスラエルがねたみ・怒る立場に置かれることが、既に告げられていることを指摘します。
続いてイザヤ書を引用します。「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。」(20節 イザヤ 65:1)神が異邦人に自らを示し、見出されるようにしておられることが啓示されているのです。
パウロは同胞イスラエルの救いについて思い巡らしたとき、頑ななイスラエルを信仰に導くため、神が敢えて不信仰を許容し、忍耐しておられることに気づいたのです。神は「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(2ペトロ 3:9)
だからパウロがここで最後に引用するのは「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(21節 イザヤ 65:2)という言葉なのです。
神の招きの御手は、不従順で反抗する民に差し出されているのです。
パウロに対しても、まだ迫害者であったときに復活のキリストを通して、神はこの招きの御手を差し出してくださったのです。
その同じ御手が、わたしたちにも差し出されています。
神の招きの御手は、不従順で反抗する民に差し出されているのです。しかも、その手は引っ込められることなく、一日中差し伸べられているのです。だから、その手を取ろうとしたときに、もう遅かったということはないのです。気づいたその時に神の御手はわたしたちの目の前に差し出されているのです。
だから今、イスラエルがまだキリストを信じていなくても救いの希望が開かれているのです。そしてわたちたちが愛する者、親しい者の救いを思うときも同じです。救いも希望も、神の愛と真実にあるのです。そしてわたしたち罪人の信仰も、この神の愛と真実に支え守られているのです。
不信仰な者、背く者を救われる神がおられます。不信仰な者、背く者を愛される神がおられます。この神は、罪を裁く神でもあられます。この神が罪を裁くとき、ご自身のひとり子を救い主としてお与えくださいます。ひとり子の十字架において罪を裁かれます。わたしたちがどうすることもできなかった罪に決着を付けてくださいます。神が裁かれるとき、そこから和解の福音が現れ、復活の命が現れます。不信仰な者、背く者を愛される神においては、すべてがわたしたちの救いのためになされます。神は「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働」かせてくださるのです(ローマ 8:28)。
だからわたしたちは救いを安心して喜ぶことができるのです。自分の不信仰に対する恐れからも解放されているのです。イエス キリストを遣わすほどにわたしたちを愛していてくださる神の前に立ち塞がることのできるものは何もありません(ローマ 8:39)。
神の御心を求めて、神の言葉に聞く者は、神を知ることができます。神に出会うことができます。神はご自身を求める者に、希望と慰めを与えてくださるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べていてくださることを感謝します。不信仰も頑なさも救いのご計画に入れていてくださることを感謝します。わたしたちの未来に希望を備えてくださっていることに感謝します。主よ、あなたの御心が成りますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ローマの信徒への手紙 10:18~21(新共同訳)
パウロは同胞イスラエルの救いが心にかかります。9〜11章でパウロはイスラエルについて語ります。10:1では「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と書いています。ただし救いのためには、間違いを正さなくてはなりません。10:2~3でこう言っています。「彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」
イスラエルは律法による自分の義を求めるのではなく、イエス キリストを信じる信仰による義、神が与えてくださる神の義を受け取らなくてはなりません。なぜなら、10:4で言っているように、キリストこそ律法の目標だからです。信じる者すべてに義をもたらす律法の目標だからです。
ところでパウロは、18節で「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と言います。
わたしたちは、新約の諸文書からイエスが語られた言葉、イエスの救いについて語られた言葉を聞いています。しかし、ローマの信徒への手紙が書かれた頃、まだ新約ができていません。福音書もまだ書かれていません。
ですから18節で「彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです」と言われると、「どういうことでしょう?」と問わずにはいられません。キリストを信じられるほどキリストの言葉を聞く機会はあったのでしょうか。もちろんこの手紙の宛先であるローマの教会にいるユダヤ人たちは、キリストのことを聞いて教会に来ているのですから、彼らは聞いたのです。しかしこの手紙では、神の民として導かれながら、キリストを信じないイスラエルの救いはどうなっているのかを問うています。
ちなみに、イスラエルは父祖アブラハム以来の長い歴史の中で、イスラエルと呼ばれ、時にヘブライ人と呼ばれ、そしてユダヤ人と言われてきました。
さてパウロは、旧約の詩編を引用して、イスラエルはイエスの言葉を聞いたと言います。つまり、旧約の言葉はイエス キリストを指し示しており、キリストを待ち望むように伝えている、ということです。18節「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです(詩編19:5)。イスラエルはエジプトでも、バビロニアでも、地中海世界に散っていっても、どこにあるときにも神の言葉と共に歩んだのです。そして神の言葉が語られるとき、イエス キリストを指し示しているのです。
わたしが旧約の説教を準備する際には、その旧約の御言葉がイエス キリストとどう繋がるかを考えます。つまり旧約の成就がイエス キリストであるという理解です。本来、旧約を正しく聞くと、イエス キリストと出会ったとき、旧約の御言葉が実現していることに気づくのです。旧約はこれから来られる救い主を指し示し、新約は既に来られた救い主を証ししているのです。
しかし、多くのイスラエルは気づきません。気づかないだけでなく、彼らの熱心・信仰は、正しい認識に基づくものではない(10:2)と言われているように、御言葉に触れていても、間違った理解へと進んでいっています。
けれどパウロは、この状況も神の救いの計画の内であって、旧約で証しされている、と言うのです。
まずイスラエルにとって権威であるモーセの名を出して語ります。「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう。」(19節 申命記 32:21)
まず救いに与れるはずのイスラエルではなく、異邦人にキリストの福音が伝えられ、救いへと導かれ、イスラエルがねたみ・怒る立場に置かれることが、既に告げられていることを指摘します。
続いてイザヤ書を引用します。「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。」(20節 イザヤ 65:1)神が異邦人に自らを示し、見出されるようにしておられることが啓示されているのです。
パウロは同胞イスラエルの救いについて思い巡らしたとき、頑ななイスラエルを信仰に導くため、神が敢えて不信仰を許容し、忍耐しておられることに気づいたのです。神は「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(2ペトロ 3:9)
だからパウロがここで最後に引用するのは「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(21節 イザヤ 65:2)という言葉なのです。
神の招きの御手は、不従順で反抗する民に差し出されているのです。
パウロに対しても、まだ迫害者であったときに復活のキリストを通して、神はこの招きの御手を差し出してくださったのです。
その同じ御手が、わたしたちにも差し出されています。
神の招きの御手は、不従順で反抗する民に差し出されているのです。しかも、その手は引っ込められることなく、一日中差し伸べられているのです。だから、その手を取ろうとしたときに、もう遅かったということはないのです。気づいたその時に神の御手はわたしたちの目の前に差し出されているのです。
だから今、イスラエルがまだキリストを信じていなくても救いの希望が開かれているのです。そしてわたちたちが愛する者、親しい者の救いを思うときも同じです。救いも希望も、神の愛と真実にあるのです。そしてわたしたち罪人の信仰も、この神の愛と真実に支え守られているのです。
不信仰な者、背く者を救われる神がおられます。不信仰な者、背く者を愛される神がおられます。この神は、罪を裁く神でもあられます。この神が罪を裁くとき、ご自身のひとり子を救い主としてお与えくださいます。ひとり子の十字架において罪を裁かれます。わたしたちがどうすることもできなかった罪に決着を付けてくださいます。神が裁かれるとき、そこから和解の福音が現れ、復活の命が現れます。不信仰な者、背く者を愛される神においては、すべてがわたしたちの救いのためになされます。神は「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働」かせてくださるのです(ローマ 8:28)。
だからわたしたちは救いを安心して喜ぶことができるのです。自分の不信仰に対する恐れからも解放されているのです。イエス キリストを遣わすほどにわたしたちを愛していてくださる神の前に立ち塞がることのできるものは何もありません(ローマ 8:39)。
神の御心を求めて、神の言葉に聞く者は、神を知ることができます。神に出会うことができます。神はご自身を求める者に、希望と慰めを与えてくださるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べていてくださることを感謝します。不信仰も頑なさも救いのご計画に入れていてくださることを感謝します。わたしたちの未来に希望を備えてくださっていることに感謝します。主よ、あなたの御心が成りますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン