平成31年3月3日、潮来市立公民館にて開催された文化講演会にて、日本考古学研究会の間宮正光氏を迎えて、「考古学からみた島崎氏と城郭」についての講演が開催されました。その講演内容についてシリーズ6回に分けて紹介します。
4.島崎氏の終りはどうなのか?
年が改まって天正19年になると、「南方三十三館の仕置き」という事件が起こります。佐竹義宜が本拠である常陸太田に、鹿行地方の国衆を招いて集めてそこで「騙し討ち」にする。いわゆる謀殺する。
和光院過去帳によると、そのことを伺うことが出来まして、その中に鹿嶋殿父子、島崎殿父子、玉造、中居、烟田、相田、小高、手賀、武田の16人が殺されてしまいます。これにより、島崎安定・徳一丸は殺される訳ですが、江戸氏とか大掾氏というのは、小田原の役には参陣していません。ですから、しかたがないかなという側面はあるのですが、島崎氏はちゃんと参陣して、刀や馬を献上しているので、「寝耳に水」ということでしょうね。
島崎氏は予想してなかったと思われます。皆さんは、「佐竹、けしからん」と思いになると思いますが、その通りなのですが、さきに、秀吉は佐竹に鹿行地方の領地を与えてしまっているのです。
ですから建前上、自分の領地の中での出来事を粛清しただけだ、というスタンスになる訳です。佐竹氏にとって、この行方の地は、ちょうど半島状に突き出していて、軍事的にも欲しい地域だし、さらに、ここには「水上交通」という豊かな水の道があります。それを掌握する為にも欲しい場所。
一方、それを黙認した秀吉側にとっても、「目の上のたんこぶ」ではないですが、圧力をかけておきたいのが徳川家康です。
その徳川家康の領地というのは、今の千葉県の南側です。徳川氏に圧力を掛け続けるのには、徳川は大きいですから、小さい勢力をおいてもしょうがない。
やはり、秀吉の自由になるような範囲での、巨大な勢力を置いて、圧力をかけておきたい。それが佐竹なのです。
そういうような思惑が交錯していると思います。ちなみに「三十三館」というのは、33家が殺されたと言う事ではなく、沢山のという意図であると理解してください。
では、安定・徳一丸が殺された島崎氏はどうしたのか?あくまでも軍記物語です。
「島崎盛衰記」には残された家臣は、大生原に出陣して合戦を華々しく行い、一方、島崎城は火が上がって落城したということが書かれております。
外郭部の内野B遺跡の発掘では、小札といって鎧の部品が出土されております。
小刀も出てきております。島崎城の「二の曲輪」では鉄砲玉も出てきています。「本丸」の部分の発掘では、火災の跡が見つかっています。ただし、時期は分かりません。内野B遺跡では火災の跡はありませんでした。
その「一の曲輪」とその北側の「水の手曲輪」があるのですが、その間の堀を調査しましたら、いろんな物が投げ込まれていました。一般に、堀の中から物が投げ込まれて出る状態というのは、お城の最終段階で行われる行為です。
ただし、どこのお城でもそういう事がおこなわれる訳ではありません。逆にそういう出方がするのは、少ないかなと思います。私、昨年の暮れまでに、柏市にある中世のお城の70mの長さの堀を掘ったのですが、そういう出方はしていません。
ですから、物が堀に投げ込まれている島崎城の出方というのは、当時の最終段階で混乱していたということが想像できます。
その後、この潮来には佐竹氏が入ってきます。島崎城と長山城の中間に、その要の城として大台城が築きます。佐竹義宜の家臣であります小貫頼久という人物が、文禄4年1594年ごろから築城を開始しまして、慶長元年1596年、約2年間かけて作ります。ほぼ全域が発掘調査されて、礎石を使った城門の跡、三階建てと考えられる「櫓」の基礎、「枯山水の庭園」もありました。
それを望む「主殿」といわれる建物の跡も発見されております。
これは、その時に発見された物の一部です。越前焼の甕(かめ)というのは、福井県で焼かれた貯蔵用の甕です。その下に志戸呂焼の「天目茶碗」ですが、静岡の島田で焼いた物でお茶を飲む茶器です。火鉢はみてのとおりの暖房具です。
内野B遺跡では、志野焼とか瀬戸美濃焼の茶器が結構発掘されております。ですから茶の湯を楽しむ姿が想像されます。
これが(図発見された焼き物)、内野B遺跡の発掘した時の写真ですが、これがその天目茶碗です。これが建物の跡で、柱が建っていた穴です。こんなに大きな柱ではありませんが、その外側に縁あるいは庇を伴うそういう物です。そして、ここの小さい堀穴の中から「かわらけ」と言うものがまとまって出土しております。
「かわらけ」というのは、儀式とかお祭り(祭祀)、宴会の時に使い捨てにする中世ではすごく大量消費する、素焼きの釉薬を描けない焼き物です。この事例というのは、この建物を建てる際の、地鎮祭に利用されたのではないか考えられます。
ただ、問題になるのは、この時期であります。ちょうど島崎氏の終りか、次の佐竹氏か。なかなか判断がつけづらい時期です。この内のB遺跡では、「志野焼」が結構出ております。志野焼というのはある程度、時期が限定される焼き物でして、それを考えると内野B遺跡は、佐竹氏の時代でも使ったということが分かります。
そして、内野B遺跡では、土塁と呼ばれる土手が廻っています。この土塁をどのように作ったのか。それを見るためにバサッと断ち割りを致しました。写真では分かりづらいと思います。砂とか粘土を使った物を芯にして、その外側に黒っぽい土で覆っている、といったことが分かると思います。両者共通した作りです。
一方、島崎氏よって作られたと思われる西出城の土塁の土ですが、砂とか粘土とか混ぜた作り方は、一切していません。
ただ、この事例というのは時期が違うのか、作った人が違うのか、おぼろげながら、そこから見えてきます。
更に、島崎城の一番大事な部分を囲んでいる土塁の下から、排水溝といわれる物が出てきています。「五輪塔」と言われる墓石を材料として使って、排水溝みたいな物が作られています。
その五輪塔の数が、なんと60個です。この辺で、それだけの五輪塔の石材で墓を作れる人は、島崎氏しかいないですね。
実際、その報告書が出ていないですよ。
その五輪塔がいったい、いつの物なのか知りたいのですけど、物がないので私は実際にはみてないのですが、そう言うものが出ております。
冷静になって考えますと、島崎氏がもしこれをやったとすると、自分の墓地を壊して石材を持って来る、なんか不思議ですよね。佐竹氏は、大台城の築城の時に、城門とか主殿という建物を建てる時に、五輪塔を持って来て礎石にしているんですよ。その辺を考えると、排水溝みたいな石材も、佐竹氏によって築かれたと考えるのが自然だと思います。その上に土塁を築く。その土塁の築き方と、内野B遺跡で見た土塁の作り方が似通っているので、この地の遺跡というのは、大きく佐竹氏の時代に改修されている、ということが分かります。
そして、私は調査をやっている時に驚いたのですが、この点線は道の跡ですが、ここの所がクランクしております。壁みたいに崖がストーンと切り落ちていて、頑強にそこに門を作ったらなかなか入れないぞ、と言うような地形をしている。
そういう地形は「桝形虎口」という出入り口の形態があるのですが、それと合致するような、頑強な跡がここにあります。
ひょっとしたら、その下に城門の跡か残っているのではないか?それをずっと辿っていくと、二次調査の前は道として使っていたのですが、掘ったらその下に、新たに道として使われた堀が出てきました。
すごく巧みに作っています。この辺の事、そして、築城途中の大台城がこっちにあって、見晴しも良いですから、進駐軍の佐竹の部隊の指揮官クラスがいるような、そういう場所にここは改修されて利用したのではないか?と考えています。
ただ、大台城が完成すると、大台城が機能してきます。ここも使用されなくなったと考えられます。大台城はとりあえず完成してから、4年目に関ヶ原の戦いを迎えてしまいます。
そして、佐竹氏も秋田へ向かうことになります。大台城は出来た当時は、佐竹の粋を集めたお城ですから、この辺の人々にとっては「すげーものだなあ」と思ったと思います。これもわずか4年で廃城になっている。まさに、当時の中世の終焉というものを、物語っているのかなあと思います。
これまでお城を中心に据えながら、島崎氏の歴史を大急ぎで見てきました。
⇒つづく
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