島崎城跡に関する書籍資料紹介①
島崎氏400年の足跡 島崎盛衰記の伝える世界 前編
引用 図説鹿行の歴史 発行所 株式会社郷土出版社 監修 植田敏雄
潮来市の藤岡家にも伝在し、かって牛堀町文化財保護審議会でガリ版刷りで復刻された経緯もある。近世にまとめられた島崎氏に関する貴重な資料である。
島崎盛衰記の伝える世界
- 鹿行地方の中世史を語るとき、島崎氏は抜きにできない大きな存在でありながら、伝承に重きをおいた後世の記録によらなければ、歴代すら不明な点が多いのが最大の難点である。しかし、それは守護や郡地頭の系譜を引く戦国大名と違い、郷地頭や村落領主の系譜を引く地方の旧家に共通する事柄でもある。
- 幸い島崎氏については「嶋崎盛衰記」をはじめ「行方軍記」「鹿島治乱記」「東国戦線見聞私記」などの近世にまとめられた戦記物に、その活躍のようすが記されているので参考になる。ほかの史料とうわせる考察する方法で、約400年に及ぶ島崎氏の足跡をたどってみよう。
- 常陸平氏の祖は、国香の孫維幹が常陸大掾となり、多気に本拠を置いたことに始まる。そして四代目吉田清幹の子忠幹が行方郡を、成幹が鹿島郡を譲られる。さらに鎌倉時代に、行方忠幹の孫たちが、為幹は小高に、高幹は島崎に、家幹は麻生に、幹政は玉造にし分立し、行方四頭と称されるようになる。
- 島崎氏初代の高幹は、正治二年(1200)建久二年(1191)ともに島崎城を本拠とする島崎氏の基礎を築き、承久三年(1221)二月三日に52歳で没したと伝えられる。承久の乱に北条氏に属し、宇治巻島の合戦で子息晴幹が討死したことと符合する没年である。また「鹿島大使役」(安得虎子)を乾元元年(1302)に五代時幹が、延文三年(1358)に七代高直が至徳三年(1386)に九代満幹が務めている。鹿島大使役は鹿島神宮の大祭を鎌倉時代以降、勅使に代わって常陸大掾氏の一族である七郡地頭が代々巡役とし、経費負担も含めて戦国時代まで続けられた。後編に続く。
図説鹿行の歴史は、潮来市立図書館に蔵書されています。
そういう訳で何の根拠もありませんが、もしかしたら当家はそちらの島崎氏と何らかの関係があるのかなあと思い投稿させて頂きました。