大台城址発掘調査 現地説明会資料
昭和59年1月16日(月) 資料作成 西ヶ谷恭弘先生・玉井輝男先生・栗野俊之先生
大台城址発掘調査団・茨城県牛堀町教育委員会 (調査期間 昭和58年11月14日~昭和59年1月17日)
島崎堀之内城(大台城)の築城
天正19年(1591)島崎城にあった島崎氏を亡ぼした佐竹義宣が、行方・東北地方の平定に乗り出し、文禄4年(1595)から慶長元年(1596)頃に、小貫頼久に命じて当城を築いた。
小貫頼久は、佐竹氏三奉行の一人で、行方の蔵入地を支配し、その本拠として当城が利用された。
慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封で廃城となった。
従って、在城期間は7ヵ年と短い。出土遺構・遺物はこの年代を示す文化遺産として注目される。
島崎堀之内城(大台城)の特色 ※当初、堀之内大台城は島崎堀之内城と呼ばれていた。
(1)関東で初めて見つかった主殿建築礎石と枯山水庭
●一曲輪で、枯山水庭に囲まれた台上に主殿(6間に3間)が検出され、九間の対面所と付属室が確認された。
●枯山水庭は、主殿を三方から囲む池(小砂と砂敷)汀線のテラス状遺構、貴人を迎えるための砂盛、踏脱石、枯池を隔てての推定四阿(あずまや)からなる。
(2)東国の城で初発見の墓石・石塔転用礎石群
主殿建築の礎石は、五輪塔・宝筐院塔・石塔・下総板碑石材が転用されている。畿内地方では、織田信長の二条城、明智光秀の福知山城、荒木村重の伊丹城に検出されている。
(3)戦国末期の優れた築城技術が結集
- 土塁が12~15層以上の版築状であること。
- 土塁上の塀が屏風折れであること。
- 土塁外側に空堀をめぐらすかわりに犬走りを二段 設ける。
- 優れた縄張(築城設計プラン)であること。
- 枡形・喰い違いの虎口など、城門の出入口が厳重であること。
(4)大規模な城門・廊下橋(推定)が存在した。
●一曲輪虎口からは、礎石5個をもつ櫓門もしくは、大規模な藥医門が存在した。(雨落ち溝も検出)
●二曲輪南側堀切の底の砂岩層からは、60~80cm四方の4個の橋脚が出土、礎石上は長屋状の橋台と思われるテラスが検出された。
(5)天守建築相当の櫓建築柱穴と礎石が検出。
●一曲輪東南土塁コーナーからは、建築的な土塁壁面と櫓台が検出され、城内側三層、城外二層造りの天守相当の櫓跡が確認された。
(6)二曲輪からは古墳時代の集落が検出。
●二曲輪台上からは、城郭遺構の下方から、古墳時代の5棟以上の住居址が検出、各棟からはカマド・甕・土器が多く出土している。
【まとめ】
この他、長屋状掘立建物(カマド含)や、溝状遺構が検出され、まさに日本城郭史上、最大級の発見となった。
【主なる出土遺物】
永楽銭、古瀬戸陶片、古備前陶片、渡来磁器(染付・呉須)、鉄砲玉、鉄クギ、灯明皿、菊花文火鉢片、砥石、甕、鬼高式土器、カワラケ類、ほか多数。