志村伊豆守光安は 1611年に没する。その後継ぎの息子光惟は
最上騒動に巻き込まれ1617年に暗殺されます。
その弟が前出の志村八左エ門であるが、最上の改易・没落で一家は離散します。
青原寺収蔵の光安の鎧兜
明治建立の光安追壊碑
その子孫の存在は定かではないが、東根の有名な造り酒屋の主人の話では
志村から横尾姓になりその血を継いでいるそうです。
藩がなくなれば、家老といっても浪人になるか、生活の為帰農するかなどの
選択に迫られたのでしょう。
秋田の本荘の地でも本城氏が転出し、家臣であった志村も一時路頭に迷ったに違いありません。
しかし、六郷氏が1万石から2万石に加増されて入居。
その際、任用され数十年後分限帳に載るような立場になったとも考えられます。
最上本城氏の家臣の志村、六郷氏の家臣の志村
それぞれ2家が記録に残っているのは偶然ではないでしょう。
また、志村一族の中には戦国時代城主まで勤め歴史を動かす人もいたという、
志村姓の私にとっては嬉しい話ですね。
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