白珠だより

札幌にて美人画と武者絵を扱っております白珠画廊のブログです。

女子力

2015-11-23 | 画廊の様子


今日は暦の「小雪」寒さがぐんと増してきました。
枯れ葉のふっくら積もった絨毯を押し上げるようにもう、若い緑の命が
育っています。雪の毛布に包まれて眠りに就くのも間もなくでしょう。

美和とあさ、置かれた所は違っても時を同じくして生きた二人の女性が
今、ドラマの中で胸を張って大活躍をしています。

愛する人たちを次々に失なっても、その悲しみに耐えながら新しい世の中を
創るためにゆるぎない信念を胸に生涯を捧げた楫取美和。
京都の福家に生まれ、二歳で大阪の大富豪広岡家の許嫁となり、物同様に
十七歳で嫁がされた広岡浅子。
その後の苦難に満ちた人生を見事に切り開いて行き、当時の世間では女傑と呼ばれました。
お二人は二つのドラマのそれぞれのモデルになりました。

彼女たちは明治維新、鹿鳴館設立、内閣の制度制定、大日本帝国憲法発布、
日清戦争、治外法権撤廃、日露戦争、第一次世界大戦とまさに動乱混乱変革の
時代を駆け抜けたと言えるでしょう。

今日は広岡浅子女史のご生涯について彼女の著書を読み心打たれたことを
まとめて書いてみたいと思います。


幼いころから家に出入りする書生さんたちの素読する四書五経に耳を傾け、学ぶ
ことへの大いなる情熱を持ちましたが、女子には学問は不要という考えの中で
十三歳に至っては全ての読書を禁じられてしまいました。

十七歳で嫁いでからは、夫なる人が富豪のゆえにか遊興に耽るありさまを
見てこの混乱の世の中で一家の運命をその肩に担う覚悟をしました。
その準備として簿記、算術、商業に関する本など独学で学び、鉱山経営や銀行経営などに
身を投じ「断崖絶壁をよじ登るがごとく」歩み、女子であることのあらゆる辛酸を嘗めながらも、
女性を受け入れない社会の幼稚さを嘆き、その教育と地位を高めなければならないと女子高等
教育の事業にも参加し七年の年月をかけた明治三十四年に日本女子大学校を開校するに
助力を惜しみませんでした。

彼女はそれまでの人生を振り返り「幸いに人たる道を踏み外さずに参った。」ことを
神様の特別な思し召しと述べています。

浅子女史とキリストとの出会いはもうこの時から始まっていたように思われます。
彼女は還暦の年に大きな胸部の手術をうけました。
麻酔から眼が覚めたときにさらなる命が授かったことへの不思議を感じました。

教育に携わったことで哲学、社会学、科学などの勉強にも没頭していましたが、
一人の牧師に~魂の満足とは何か~を問われ、その問題に心を向けるようになりました。

牧師の導きでマタイ、ヨハネ、ロマ書と学ぶうちに「罪人」と云う言葉に
反感を持ち、また「祈る」ことへのつまずきに苦しみました。
祈り方が分からないと牧師に訴えると~子供がおとうさんに甘えるように祈り
なさいと言われました。
それまで父母夫に甘えるどころか一心に頼られていた身であったので、浅子には相容れない
ものでした。

聖書を紐解いて三年、夏の軽井沢の静かな山の中で聖書を読み祈る裡に
神を知らなかったそれまでの道にも天の恵みが注がれていたことを覚えて
感謝の涙が溢れ流れたのです。この時からその身を神に捧げる決心に至って
六十三歳のクリスマスに大阪教会で受洗しました。

浅子女史はそれまでの人々、社会、国のために尽くしてきたことをすべて
神の御用のために働く身としての喜びを得たのです。

その後、社会事業、女子教育支援、教会活動の伝道をキリストと共に歩む
喜びの人生として七十歳の生涯を送りました。

「人を恐れず天を仰いで」という言葉を残しました。

女史の愛唱讃美歌は
~ 夜はふけわたりぬ、ゲッセマネの園になやめるイエスきみひとりいのりたまふ~
女史の告別式には霊南坂教会聖歌隊によって歌われました。

愛する人たち、人々、国の新生のために胸を張り確固たる信念を持って
その人生を切り開いていった二人の女性の女子力は計り知れなく、今も
平和とは何か、生きることとは何か、幸福の真の意味は何であるのかを
世の中に問うています。

ドラマの中のあさちゃんと歴史の中の浅子女史像は少し違うかも知れませんね。
いづれにせよ最後まで楽しみですね。見守ります。   s・y


今日の一枚の絵  「絵入り新聞に見入る若妻」-真美人のうちー
                    橋本周延 天保元年~大正三年
                         複製版画


      今日のお菓子はポンキンパイ